アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

ひとりひとりのタイムライン

2024-05-30 08:17:03 | 思い
昨日夢を見た。少し面白い内容だったので、今回はそれを共有してみよう。
以前、私はいわゆる「明晰夢」と呼ばれる夢をよく見ていた。夢の中で「これは夢なんだ」と自覚できる夢である。夢の中では肉体がないので、自分のイメージや意図によってどのようにでも、どんな「現実」でも創ることができる。私は空を飛ぶのが好きで、よく家の上空に舞い上がってみたり近くの町へ飛んで行ったりしたものだった。一時期そんな夢の内容を書き留めていて、それが百を少し越えた頃、なぜか明晰夢を見ることに興味を抱かなくなってしまった。特に見ようという気がしなくなったのだ(明晰夢は「見よう」という意図を持つことによって見やすくなる)。今ではただ普通の夢の中を彷徨う方(つまりテレビのつけっ放し状態)がかえって楽しいと思うようになり、意図して明晰夢は見ていない。でもあの頃から私の夢の見方はどこか変わってしまっていて、いつも夢の中でどこか「醒めている」自分がいる。そして大切な場面では、すぐに明晰夢の自覚を取り戻すことができる。今回見た夢もそんな夢のひとつだった。
私は大きな時計を一つ手にしていた。学校で使われているような、大型で丸いものである。居間や作業場など、私が日頃いることが多い部屋の幾つかには、このタイプの時計が掛けられている。文字盤が見やすいので、目の悪い私にはとても便利だ。
時計がここ(私の手)にあるということは、つまりこれはどこかの部屋から外したものだろう、正しい時刻に合わせて元の場所に掛け直さなくちゃいけない。その時の私はそう考えた。そこで部屋をあちこち見て歩くのだが、どの部屋にも時計が掛けられていて、どれもみな同じ時刻を指している。どの部屋にも幾人もの人がいて、みな私にとってまったくの他人、というわけではなさそうな感じだった(でも夢に出てくる人たちは、みなそんなものである)。
そこで、ではたぶん作業場の時計だろうと思って、私は外に出た。家の近くに別棟の建物がある。どちらも私の家の敷地内である。農家にはよくあることだ。
そして別の建物に入り、またひとつひとつ部屋を見て歩くのだが、今度もどの部屋の壁にも時計はあって、動いてはいるが、それぞれに違う時刻なのである。また各部屋には同じように何人もの人々がいた。気が付くといつの間にか私の手にあった時計は無くなっていた。その時私は、これは夢だと悟った。
この夢にはいったいどういう意味があるのだろう。明晰になった思考で私は(夢の中で)考え始めた。なにか明確な意味がありそうな夢である。時計、部屋・・・しかしあまり考えに没入すると、意識は夢から離れてしまうものだ。やがて夢の場面は消え去り、ただ思考する自分だけになった。そして、あぁ、これはタイムラインのことだな、と思った。

「タイムライン」という言葉は今では広く使われている。地球のタイムライン、今人類の進んでいるタイムライン、という具合に。でも三次元世界では馴染みのなかったこの言葉は、いまだに誤解されたり曖昧な意味合いで使われることが多い。「タイムライン」を明確に説明できる人は、なかなかいないだろう。なぜならこの概念は、三次元の思考では理解しにくいものだからだ。自分の波動領域が上昇するにつれて少しずつ理解は深まるが、今度はそれを言葉で表現することが難しいというジレンマが残る。特に相手が社会的常識や現代科学にどっぷりと浸かっていたりすると、伝えることはほぼ不可能に近い。
しかしそうも言ってられないこともあるので、ここでは私の理解に基づいて、まずこの「タイムライン」という言葉の概念を簡単に説明しておきたい。
まずは私たちひとりひとり(個人)のタイムラインについて。この人生の中で私たちはとても多くの「選択」をしている。生まれてから今に至るまで、小さなものからとても大きなものまで、無意識的にも意識的にも、数え切れないほどの個人的な「選択」をしてきている。その結果として「今この瞬間」に自分が存在するのだが、各瞬間に「選ばなかった」選択も、その結果作られた体験も、その延長線上の死ぬまでの人生も(更に言えば元の魂に帰還する瞬間まで)、エネルギー領域にはちゃんとすべてが存在している。つまり膨大な数の人生の道筋があって、それらすべての瞬間を、「魂レベルの私」は体験しているのだ。つまり魂は、「私」という存在の「可能性のすべて」を体験する。
対して現実界の「私」は、その中の一つ(最も強く意図したこと/行動に移したこと/意識の中心)しか体験/知覚/意識できない。これが三次元意識の特徴である。魂レベルに比べてとても狭い範囲しか「意識」できない反面、そこに全エネルギーを集中させることによって、とてもリアルに、迫真性の高い体験を味わうことができるようになっている。
この三次元意識が選んだ体験の連なりが、私たちひとりひとりの現在までのタイムラインである。私たちの「記憶にあるもの」と呼んでもいい。これはあくまで個人固有のものであり、他の個人が実際に体験している「現実」とダブっているものではない。広大な砂浜の上で、私たちひとりひとりは、一粒ずつ砂を選りすぐり辿りながら「人生/タイムライン」を創っているのだ。他の個人はまた別の固有の道を進んでいる。それ(三次元意識のお互い)が瞬間的に交差することは可能性としてはあるが、ほとんど考慮に入れることができないほど砂浜は広大である。魂レベルの体験と、三次元にいる私たちの意識レベルでの体験は、それほどまでにスケールの違いがある。
そして私たちは、今現在/この瞬間にも、タイムラインを創り続けている。なにかを「選択」するすべてのタイミングで、新しいタイムラインが生まれ続けている。過去のタイムラインはかつて「選んだもの」であり、これから先のタイムラインは今、そして今後に「選ぶもの」の連なりである。よって誰にとっても、これから先のタイムラインは今のところ未知数である。自分の自由な選択によって、どのような未来でも創ることができる。誰にでも。
そしてここがとても重要なことなのだが、タイムラインは、必ずしも時系列的に(また言い換えれば「同一の時間軸の上」だけで)創られるものではない。つまりエネルギー領域に存在するすべての他の平行現実(別の時間軸上の瞬間)へとシフト/ジャンプすることができる。これは私たちにとってとても理解しにくい。私たちは幼少期から、この世界には「時間」があること。それは直線的に進み、すべてのものにとって(時計の針のように)同等に作用すること。今いる時間軸を飛び越えて他の世界(平行世界)に行くことは不可能であること。例えば種を蒔けば、芽が出るのに幾らかかって花が咲くのにどのくらい、実をつけるのにどれほどの時間がかかるか、概念として深く信じ込まされる。これは教育的な刷り込みの部分もあるが、多くは三次元世界における体験の特徴と言える面もある。地球において三次元体験をするゲームの決まりのようなものだ。
現在のタイムラインから他のタイムラインへのシフトであるが、実はこれは、誰もが日常的にしていることでもある。バシャールは、「私たちは毎秒数十億回もの異なる平行世界バージョンの自分へとシフトしている」と言っているが、これはこのことを指している。ただそのシフトが今の瞬間にとても近い、似たようなものに移動しているので、それと気づかないだけなのだ。そして近くのものにシフトするのも、遠くのものにシフトするのも原理的にはまったく同じなので、難易度の差などは無いそうである。つまりどれだけ遠くの自分にシフトできるかは、純粋にその人の持っている(選択を制限している)信念体系によるものだ。つまり通常は各自の持つ信念体系の認める範囲内で、シフトはなされる。
しかし時折人は、無意識・瞬間的に自身の信念体系を超えた意図を発することがあって、そのような時例えば、いつも気難しい相手が急に優しくなったり、なぜだか乗り遅れたはずの電車に間に合ったり、無かったはずのお金が財布の中に入っていたり、階段から落ちたのになぜか怪我をしていなかったり、癌や難病が急に治ったりする。いろいろな「奇跡」と呼ばれるものの多くがタイムラインのシフトに関わっている。ただその知識を持たされていないので、それが奇跡に見えてしまうだけだ。
このように人は自分の関わる無数の平行世界を跨ぎ歩きながら「自分のタイムライン」を創っている。今次元上昇が進むにつれて、三次元の「時間の概念」という地球のルールが少しずつ緩くなってきているので、人によってはこのシフトの幅が大きくなってきている。これが実のところ人類の集団アセンションに大きく関わる「鍵」となるのだが、これについてはまた後の方で触れることにする。

次に人類全体の集合的タイムラインについて述べよう。これは端的に言えば、私たちひとりひとりが創る個々のタイムラインの束(集合体)のことである。ただこの束は単なる寄せ集めの域を超えて、各個別ラインが干渉し合いながら、今の地球特有の動きを見せてもいる。それについて、以下にわかりやすく説明してみよう。
まず今地球は、全宇宙から莫大な量のポジティブなエネルギーの集中放射を受けている。一方これまで地上を席巻し蓄えられてきたネガティブエネルギーの量も半端なものではない。これらがエネルギー的に、激しくぶつかり干渉し合っているのが現在の状況である。例えて言うなら、大海の一点に四方八方からの海流が怒涛のように集中している状態。この小さな星に、宇宙スケールのポジティブ/ネガティブな力が集結して大乱闘を繰り広げている真っ最中。その結果、まるで水を流したホースの出口があっちこっち飛び跳ねるように転変している。人類の集合意識のタイムラインは、今目まぐるしく変わり続けており、次の瞬間にどうなるか誰にも予想できない状況にある。
一般的に、全体として高い波動領域になるほどそこで創られるタイムラインは穏やかで平和な(愛の割合の高い)ものになる。低い波動はその逆である。しかし人類は今、全体として同じ方向に向かっていないどころか、逆に上下に分裂していっている。愛の大きい者は更に大きく、少ない者は更に少なく。その結果、大きく見れば二極化、先を進むほどに細分化という状況が生まれている。集合意識全体が対極的な方向に分散していっているのだ。これは地球に限らず、惑星のひとつのサイクルが終焉を迎え生物種が新しい進化のサイクルに移行する際に、まま起きる現象のようだ。進化とは「愛の割合」を高める結果起きるものであるが、そのための学びのスピードや段階に、各個体の個人差があるのはけっして不思議ではない。
この二極化から多極化という現象をより具体的に見ると、上の波動領域は既に五次元(第四密度)に達している一方、下の波動領域は相変わらず第三密度の低層にあり、上がるどころかかえって下に潜っていっている。例えて言うなら、これまで大きな一つの密集隊形だったものが、海を渡りながら二つのグループに、更にもっと分かれて幾つもの小グループにと分散し、それぞれのグループが少しずつ航路を両側に広げながら進んで行っている。
次元上昇を選ばなかった一群は、そのまま大小さまざまな岩礁が見え隠れする危険な海域へ向けて直進している。逆に舵を大きく切った一群は広く開けた穏やかな海洋へと。そして両者の間に、たくさんの中間的な航路がある。あるは大洋へと向かうが時折障害や逆風に見舞われることもあるコース。岩礁帯は広範囲に分散しているので、ここでもちょっとしたスリルを味わうことができるだろう。またあるは最悪の道ではないが、岩礁多く次第に困難が増していくコース。三々五々それぞれが自分の道を進んでいく。
前方の岩礁帯から道を逸らすには、舵を切らないとならないが、これが先に述べた「タイムラインのシフト」に当たるものである。どれだけ舵を切るか(シフトする距離の度合い)が、つまりこの場合の具体的な航路(平穏な海へどれだけ近づくか)の選定となる。そのような選択のタイミングの真っただ中に、人類全員がいるところだ。繰り返しになるが、今までの(三次元世界の)タイムラインの延長線上に、アセンションの道はない。
先にも言ったように、この先、いったいどういう展開になるのか誰にもわからない状況だ。言い換えれば人類がどういう選択をするのか(それはつまり、私たちひとりひとりがどういう選択をするのかということなのだが)、宇宙の誰もがわからない。ゲームで言えば、状況はまさに佳境を迎えて、しかも時間切れ寸前。野球なら九回の裏ツーアウト満塁の緊迫の局面。サヨナラなるか、頑張ったけど優勝は逃すか、参加選手の奮闘を宇宙中の観客が固唾を飲んで見守っているところだ。こんなワクワクの極みのような舞台のど真ん中に、私たちは主役として立っている。なんて名誉なことだろう。

さて、これが私の理解する、現在の個々の人間と、人類全体のタイムラインの現状である。世の中にはさまざま情報が、真贋入り乱れて飛び交っている。中でも今の時点でアピール性のとても強い内容は、来年の7月にどうとかいうものだろう。でも私にとっての「事実」はこのとおりである。7月に大きな岩礁にぶち当たるグループもいれば、それとはまったく関係ないような道を意気揚々と進むグループもいる。その他にもたくさんの体験の道が個別に用意されているようだ。
今回私の見た夢の内容は、このような状況を裏打ちするものだった。夢には幾つもの種類があり、ガイドや別次元の存在からのメッセージや交流というのもあれば、単に自己の内面のエネルギー的な排毒や解消、清算だったり、あるいは痛みや病気などが引き起こす感情の視覚的表現だったりもする。すべての夢になにがしかの意味があることは確かだろうが、だからといって、すべてを解読する必要はない。メッセージや交流は、それがなされた時点で既に目的を達成していることの方が多い。しかし今回の夢は、その中でも比較的簡単に意味が解せる内容だったと思う。そうでないときの方が圧倒的に多いのが実情で、毎度のことながら、もっとわかりやすく伝えてほしい、と思ったりする。
人類のタイムラインの分岐のことは、もうよく知られていて、私にとってもなんら目新しさのあるものではなかった。しかしだからこそ、今のこの時期にあえて夢で見たのには、なんらかの意味がありそうだ。このことをより一層心得て生きろとか、人と接せよとか。あるいは今後近いうちにこれと関連したなにがしかの状況に遭遇するから心しておけとか。はたまたこの内容を私がブログに書くだろうことを見越して伝えられたとか・・・いずれにせよ今この情報を心に留めておくことが大切なことにはおそらく間違いない。
この件に関し、私として一番大切と思うのは、今ひとりひとりがそれぞれに違ったタイムラインを創っている。誰もがどれをも選ぶ自由を持っていて、実際のところ、その個性に応じて異なった目的地に向かっている。迷いや彷徨いは各自それなりにあったが、いよいよ今が、どの部屋に入るかの最終決定をするタイミングなのかもしれない、ということである。
自分以外の人の進むタイムラインを、本人に替わって選ぶことはできない。ただ私たちは自分自身の選択を、自分にとって最高のものにすることはできる。それが高波動領域に向かうものであれば、それによって生まれるエネルギーは、周囲の人、ひいては全人類を同じ方向に引っ張る大きな影響力となる。それが今、私の選ぶ最高の「愛」でもある。

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Unknown (高広)
2024-06-09 22:30:48
今地球は、8 の回ににてコメントさせてもらったものです。その時コメントさせてもらった日付が2020年で、それからもう4年近くたったのかぁ、アッというう間だなぁという驚きを感じています。
なんとなくアグリコさんのブログを覗いてみると、なんと更新されているではありませんか!と同時にアグリコが元気そうでうれしかったです。
今回のブログの記事ですが、本当にその通りだなぁという感想です(笑)
アグリコさんの他にも、たくさんの方が今は、千載一遇のチャンスであり、かつ個人の願望の実現しやすさが上昇しているとおっしゃられています。
俗世的なお金の面にしてもそうです。私が住んでいるのはど田舎ですが、そんな田舎から自分でネットビジネスを行い一人で大成功している若者がいます。フリーターをしながら楽しく過ごし、その過程で自分の道を発見したそうです。とても楽しそうに過ごしています。
今の日本は終わっているとか、円安で日本はヤバイ、少子高齢化でヤバイだのなんだの言われていますが実際に蓋を開けてみると、個人個人の観点からみると、むしろ今はチャンスでしかないんじゃだろうかという気がしてなりません。
従来の洗脳された価値観や常識そうしたものを今一度見直して、不必要なものをはいでいくと、あれ!あれあれ!という体験が増えたような気がします。
私はこうして今の時代に生まれてきたことに関して、感謝の気持ちでいっぱいです。毎晩寝る前には「すべての生命の悩み苦しみがなくなりますように」と祈って寝ます。
アグリコさんが今後もお元気で、幸せに歩まれることをこれからも祈っております!
私も自分のペースで歩んでいきます!
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Unknown (あぐりこ)
2024-06-10 19:56:21
覚醒の道というのは本当に思いがけないことの連続で、根深く刻まれていた洗脳が解けてくると、自分の意図を現実化する力が活性化されます。私の場合、とても長い間苦しんできた「お金」というものに縛られることがまったく無くなりました。欲しいと思ったこと、必要なものはすべて手に入ります。本当に。
これが人間の持つ「創造力」なのだと思います。本来私たちに備わっていたものですが、それを「自分から」妨げるよう心理操作されてきたのです。このことを最初に示唆してくれたのは、シャーマニズムとの出会いでした。それを皮切りに、模索してきた延長線上に今の私がいます。
この4年間で世界は大きく変わりました。もっともタイムラインが分かれている途上にあるので、全然変わっていない人と、まったく変わっている人の両極端が生まれ、その間に大部分の人がいます。こんな状況を誰もが予測していませんでした。その意味で、私たちは今とてもワクワクな開拓団の気分です。地球の未来は私たちの想像力次第でどうにでもなる状態にあります。
私は自分の信念体系を変えることで、お金の悩みも、健康の悩みも、すべて解決できました。この山里から一歩も出ることなく、なんでも手に入ります。でも同時に人から認められたい、注目を集めたいとの欲も無くなったので、あえて自分から発信したいとも思わず今日に至りました。
でも後1年かそこらだろうと思います。私がこうして情報を発信して、それを受け取る人がいるのは、もう長くはないと思います。たぶん人類のタイムラインの乖離の現状は、私の思うところそんなところです。これが私がブログを再開した理由です。これが今必要としている人の手に渡るのを、一片の疑いも無く信じています。
情報を共有しましょう。互いにエネルギーを繋げましょう。それを多くの人が待ち望んでいます。支配者たちはそれをさせないように、私たちを厳しく洗脳してきたのです。でもそれはもう解かれ続けています。たぶん日本だけでも、何十万、何百万という人々が同じ道に入っているのだと思います。
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