アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

今、地球は、 2

2016-12-15 03:19:59 | 思い
 ここで僕たちが一般に「心」と呼んでいるモノについて話しておかなければならない。が、そのためにまずは、「魂」と僕らの関係について簡単に述べておこう。
 まず魂が、この物質界である体験(それはなんでもいい。場合によって、とても具体的であったり漠然としていたりするようだ。)をしてみたいと思ったとする。この際に注意しておかなくちゃならないのは、魂は、僕たち人間のような小さな意識でいるわけじゃないってことだ。それこそ次元の違う、物質世界を飛び越えた世界に住む(僕たちにとっては計り知れない)存在だ。それがこの制限の多い物質界に意識をシフトさせるためには、自らの属性のかなりの部分を切り詰め割愛し縮小してかからなければいけない。だから自分の持っている性質や能力、意識、性向、愛する力など全体に大きな制限を加えた(いわばミニチュア版の魂)意識を形成する。そうすることによって、望む体験を実現するに最も適合した性質を選抜するという狙いもある。それは単に大きさを縮めたようなものではなく、また単純に部分を抽出したようなものとも違う。それよりか一つのものの一側面(例えば、一人の人を見るに、正面から見たり真横から見たり、あるいは上から見たり斜め後ろから見たりする。どの見方も同じ人を見ているのであって、ただその見ている面が少しずつ異なっているだけである。前面に顕れている要素が違うということ)と言った方がより近い。そしてその側面がどのような環境に置かれたらどのような体験をするかということを、細かくシミュレーションしながら具体的に生まれる時期と場所とを設定する。
 このミニチュア版の意識が、俗に精神世界で「ハイアーセルフ」とか「高次意識の自分」とか言われている存在だ。それは魂の存在するエネルギー次元に留まる真の僕たち自身。魂の一側面。本来の僕ら自身である魂のすべてを内蔵しながら、あえてその性質の一部分のみをクローズアップさせた、この宇宙にたった一つしかないオーダーメイドの存在だ。しかしこれは、実は本当の僕ら自身でありながら、この三次元に存在する僕らの意識そのままではない。この物質次元に住む僕らの意識は、この高次元意識に更に(物質界ならではの)制約を加えた縮小版となる。競走馬が部分的に目隠しをしたようなものか、または3Ⅾソフトで作ったバーチャル・シミュレーション・ゲームのキャラクターみたいなものを想像してみたらいい。あくまで本物を模してはいるが、本物と同じ視野は持ち得ない。知覚は五感で得られる限られたものが主になるし、肉体という行動上の制約も持っている。その結果意識も非常に限られたものとなっている(ただしだからこそ、ゲームとしては面白いし、むしろそれでなければ得られないものがある)。ミニチュア版魂がゲームのプレイヤーだとしたら、その三次元意識はゲームの中の主人公のようなものだ。
 さて魂がいよいよこの世界に生まれるとなった場合、(これはこの地球の特徴のようなのだが)一時的に魂の持つ記憶をすべて失くしてゲームはスタートする。つまり元々持っている性質や能力は(潜在的に)そのままあるにしろ、それを自分が持っているなんてことも忘れて、意識はまっさらな白紙に近い状態で生まれてくる。だから当面は、見たこと聞いたこと感じたことをそのまま吸収して「自分」を創っていく。(まったくの一から始めるわけではないが、ただ魂の選抜した性質が発動するまでには少し間があるので、特に幼少期は受け取ったものをそのまま素直に自分の中に積み上げていく。)言葉を理解するかどうかは問題ではない。僕らは皆生まれつき、自然にエネルギーを感知する能力を持っている。宇宙の普遍的なコミュニケーション手段はテレパシーなのだ。それは微細なエネルギーの質の違いを感知する力に他ならない。
 だから子どもは、物心つく頃には既に、それからの人生を舵取りする基本的な土台を形作ってしまっている。それは大きな部分、自分を育ててくれた(より密接な関係にあった)人間から受け取ったエネルギーによる。(けっして言われた言葉ではない。また直接自分に加えられた行動によるものだけとは限らない。)周りの者が実際に発したエネルギーを知覚して、その性質をそのまま受け入れ、自分の中にコピーを蓄積していく。そのコピーのの一つ一つが、「信念」である。そしてそれらは相互に関連して徐々に複雑で巨大な構築物を構成する。それが「信念体系」と呼ばれるものであり、通常僕たちが「自分の心」と思っているものなのだ。
 例えば母親が、ある虫に対して生理的な嫌悪感を持っていたとしたら、そのことを言葉で子どもに伝えなくとも、その子は母親の(実際に虫を目の当たりにして絶叫するなどして)発したエネルギーによって、その虫が本当に嫌いになったりする。また例えば、小さな子がテレビドラマで見たダンスをまねて部屋中を飛び跳ねまわっていたとする。それを見た父親が、たまたま疲れて気分が落ち込んでいたりして、煩いから静かにしろと叱ったとする。そして心の中で(みっともない踊りなんか踊ってるんじゃねえよ、こいつ!)と悪態をついたとしよう。するとその子は(その子が幼ければ幼いほど)、彼の発した想念のエネルギーを敏感に察知して、(私の踊りって、みっともない)という信念を心に形作ることになる。父親が面と向かって言葉に出していないのにである。そしてそれが元になって、その子はもしかしたら一生自分の踊りが無様だという理屈で無い信念を持ち続けるかもしれない。しかしそれがどこに由来したものなのかは、当の子どもも両親も全く憶えていない。どうして私って、ダンスがあまり上手くないのかしら?と不思議に思ってたりする。
 この信念体系は、子どもが成長するにつれて積み重ねられ分厚くなっていく。それを与える相手も、親だけでなく、親戚、両親の交友関係、学校の先生、はたまたクラスメートと、多岐に亙るようになるし、加えてアニメやテレビ、漫画や読む本などのメディアも一役買うようになる。そして子どもがティーンエージャーになる頃には、信念体系もすっかり成長して確固たる人格を持つようになってきている。(でも大体のところ根底においては「両親のコピー+α」の色彩が強い。)
 そして不幸なことに、というか魂はあえてそれを選んできているのだが、現時点でこの地球の人間社会に受け継がれてきた信念体系は、とても、非常にネガティブなのである。宇宙全般から見れば真実からかけ離れた信念の数々。自然の状態から程遠い在り様。それゆえ幸せよりか不幸が圧倒的に多い現実。矛盾と倒錯に満ちた地獄的な体系となっている。だから子どもは魂から受け継いだ本来の自分の資質が発現すしてくるとともに、それまでに刷り込まれた信念体系との格差から避けようもなく自己矛盾に陥ってしまう。本来愛があるはずのところに恐怖がある。自由があるはずのところに抑圧がある。あまりに魂の持っている「宇宙基準」に合わない現実ばかりである。それに悩んで、若い意識は無意識のレベルでなんとか折り合いを付けようとする。が、たいがいは、なんともしようがなくてどちらか一方(ほとんどは真実の方)を深いところに押し込め無視することに決める。浮かび上がれば叩いて沈ませる、それをその日から際限もなく繰り返すことになるのである。

 (つづく)
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