アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

ヒエの悲劇

2005-07-04 17:01:23 | 暮らし
頭の上を雷鳴が通り過ぎる。
降ったり止んだりのそんな天気の中、今日は猫家の主食生産を担う田んぼの中で先日起こったことについて話そう。

その日、田向かいのお婆さんがトコトコやって来て、私に挨拶した。
「いんや、まんず、いい出来でねえの。そんなに青々として・・・あぐりこさんはまて(丁寧で面倒見がいいこと)でがすからなあ・・・」

うっ・・・何が! である。目の前の田んぼを見るがいい。確かに青々とはしている。けれどそれは、伸び放題伸びた株間の草のせいだ。視力の弱い私と違って鷲の目のごとく鋭い田向かいのお婆さんが、そんな初歩的な違いに気づかないはずは無い。すべては仕組まれ計られた発言であり、見事なほど逆説的な表現なのだ。
案の定お婆さんは、それに対する私の反応をさも興味深げに見守っている。
「はあ・・・ご覧のとおりさっぱりです。
もうこんなになってしまいました。・・・」
皮肉を言わないでください!なんてことは決して言わない。
今年は田植え以来ぎっくり腰をしたり指に深い傷を負ったりで、すっかり草取りが遅れてしまった。それでもなんとか除草機は3度ほど押したのだが、今や田の中はどれが草でどれが稲だかわからないくらい青絨毯が広がっている。
もちろんこれに至るまでには種々の原因が複雑に絡まりあっている。一に昨年田の基盤整備でこの田を休耕したこと。これによって今年意外にもヒエが爆発的に発生することになった。どうやら去年1年の間にこの地でかの植物は大繁殖を遂げていたらしい。
そして第二に、この春田面の均平をとるのが不十分で、部分的に潅水しない面が大きく残ったこと。これが相乗的にヒエの発芽に好条件を呈する結果になったのだろう。

過去3年間、我が田んぼではヒエを完璧に抑圧していた。
稲作の筆頭的強害雑草と言われるこの植物である。無農薬ゆえに田の中を歩くことの多い我が家では、ヒエを見つけ次第抜いては燃やしを繰り返し、3年経つ頃にはヒエの発生も害もまったく取るに足りないものとなっていた。
その一方、我が家の抑草の第一ターゲットは「コナギ」である。
水生植物であるコナギは、ヒエ防除の決定版、深水管理をすることによってかえって発芽が助長される。コナギはかなり厄介だ。放っておいても大して害をなさない草ならまだしも、コナギは瞬く間に呆れるほどの大繁殖を果たして土壌養分を貪欲に吸収する。よって結果的に稲の生育にマイナス要因となってしまうのである。
そこでもっぱら我が家の関心事はコナギの抑草にかかっていたのだったが・・・

この度は期せずしてヒエの大発生を迎えてしまった。新米百姓4年目にしてまた初めてのケースに行き当たる。
さて、と指の傷もあらかた治ったので田に降りて草取りをすることにした。
コナギ、オモダカ、クログワイ・・・田の草とは毎年付き合っているからよくわかる。みんな幼馴染同然の顔ぶれだ。
そして・・・ヒエ。ここではたと困った。ヒエと稲との区別がつかないのである。
ヒエは特に幼少の頃は、稲と見分けがつきにくい。更にかつてこれ程までの大発生を目の当たりにしたことの無い私は、当時ヒエと稲との決定的な差を見分ける眼力を持ってなかった。それでも一度田に入ってしまったからには、まずは草をとらなきゃならない。田植え長靴を脱いだり履いたりするのは正直面倒なのだ。多分これだろう、と思いつつ生えてる場所や生育具合でおおよその見当をつけて、とりあえずヒエと思われるものを片端から抜いていく。なに、田の草とは毎日顔をつき合わせている。彼らは既に家族も同然、わからないことなどないのである。
随分草取りをしたと思う。はっきり言えば、そのような状態で2~3日取り続けた。
そしてある時やはりどうしても不安になって、田んぼの真ん中でヒエと稲の違いを徹底究明すべく「観察」をすることにした。
左手に明らかにヒエと思われる株、そして明らかに稲と思われる株を目の前にして、両者を注意深く見比べてみる。
見れば見るほどそっくりだ。でもどこかに相違点があるに違いない。それはどこだろう・・・
まるで「まちがい探し」のゲームだ。そして開始後1分経過、私はついに「それ」を探し当てた。
なるほど、ここが違うのか!
ここで詳しくは述べないけれど、節間から細かいヒゲが生えてるのが稲、ヒエにはそれがまったくそれがないようなのである。
ようし! ここまでわかれば大丈夫だ。もう迷うことなど無い。これで更に自信を持ってヒエを抜き取れる・・・・


・・・・・・こうして、私は自己嫌悪に陥った。

察しの早い読者ならもう説明を待つこともないだろう。つまりそれから程なく、今まで多くの稲を抜きつつ、たくさんのヒエの大株をわざわざ残して来た自分に気がついたのである。
ああ、何という身の不幸よ! 無知というものはかようにも罪深いものか。・・・

それから気を取り直して再び草取りを始めたのは言うまでも無い。身を切られて学習した私は、今度は確実に「確信」を持って「ヒエ」を抜くことができる。稲に比べれば発芽に遅れること1ヶ月はあるだろうに、ヒエはもはやまったく「稲の振り」をして我が田んぼに威風堂々と着座していたのである。

ヒエという草は素晴らしい。田にあるのはイヌビエと呼ばれるいわゆる雑穀として食べられないヒエなのだが、人類が稲作を始めて以来今日に至るまで見事に人為的な土壌「田」の中に細々としかししぶとく生き長らえて来たのである。
稲に擬態することによって、生き残って来た生物。
恐らくはこのヒエは常に人類に激しく敵視されながらもその同じ人の手によって生活空間を確保され、施肥までされて数千年の時を生き延びて来たに違いない。そのひと株には素晴らしい大自然の知恵と摂理が込められている。
私、新米百姓も恥ずかしながら、今日までそのヒエの伝播繁栄に力を貸していたということだ。まったくガラが小さいとは言え、植物の力は決して馬鹿にはできない。

遅ればせながら我が家は改めて田の草取りをやり直す。しかしここまで繁茂されたのでは、これから幾ら頑張ってもとても満足できる形での駆除はできないだろう。ヒエは今年血眼になってその姿を追い求める私の目を掻い潜り、来年に向けて数え切れないほどの子孫を残すに違いない。今年は早くもヒエの「大勝利」と相成りそうな気配。・・・
でもそれはそれでもいい。元々我が家の田も畑も作物は多くの草と共存して生きている。選択的除草。私自身それを身上として、時々に応じ必要最小限の草取りしかしない方針で今日までやって来ている。

ヒエには今年一杯食わされたけれど、翌年にはまたひとつ知恵をつけた私が再度ヒエに挑戦する。そうして人は何百年、何千年もの間、現在目にするこれら植物たちと押しつ押されつ付き合って来たのだろう。どちらが勝つことも無い、またどちらが勝ってもならない生態系内のバランス。私もその一員であり、その積み重ねの上で今暮らしている。
喜劇と悲劇、それが過不足無く織り交ざったドラマがこの世のすべての生であり、百姓の日常でもあるのだな、と思う。




【写真はタイヌビエの穂。
もしこれが食べて美味しいものだったら、私の食生活も、ヒエの受ける待遇も違っていたでしょうねェ・・・】



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4 コメント

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 (take)
2005-07-07 03:17:41
性格の悲喜劇といふものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れてゐます。

~太宰治

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Unknown (allie)
2005-07-07 10:28:04


「姿形は同属のミズアオイを小さくしたようであるが、ミズアオイの方は減少して絶滅が心配される植物となっている。岡山県自然保護センターの栽培例では、ミズアオイはよく虫に食べられるが、コナギの方は虫に食べられている様子がない。このような点が害草と絶滅危惧種の違いかもしれない。」



ヒエと稲の関係に似てますね。



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たけさん・・・ (あぐりこ)
2005-07-07 11:01:54
人は悲劇性の強い分だけ

より高い喜劇性を持ち得る。

~あぐりこ



しとしとと長く降る雨はさして問題とはならないが、

同じ量の水が一気に乾いた地面に降り注ぐ時、災害は起きる。

~これまたあぐりこ



生きているということは「振れる」ということである。振り子が完全に静止した時、私たちはこの生から解放される。

~しつこくあぐりこ



・・・と、太宰さんの言うことを私なりに解釈してみました。
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アリーさん・・・ (あぐりこ)
2005-07-07 11:16:38
生物は絶えず新種が生まれ、また絶えず絶滅している。この世から消え去る種は「あるはず」であり、また過去その種自体もコナギのように強力な環境適応性を示して他を淘汰して来た。

滅び去る種を繋ぎとめようとする行為はある意味自然に反し、労多くして最終的には無意味な結果となるのでしょうね。

今本当に多くの生物が、「人の営み」が環境に及ぼす影響力の前に消え去ろうとしています。

私自身は人のその行為を否定するつもりは無いのですが、

ただ自らの行為の結果を甘んじて受けなければならない。

そこに人としての特性である知能と知恵を使った方がいいでしょうね。

一等守るべき生命は決して虫でも植物でも動物でもなく、

私たち自身なのだから。



このヒエは、もちろん単体でも充分繁殖していきますが、稲という人が守ろうとした植物が世界に広まるとともに生息範囲を拡大して行ったのでしょうよ。

人が絶滅に導いた種もある反面、人が繁栄させた種も同じくらいはあるかもしれませんね。



コナギの花、とても綺麗ですね。

「田んぼの小悪魔」と名付けています。
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