アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

縄文人の痕跡

2024-05-13 09:17:00 | 思い
おぉ! わが家から縄文式土器がっ!!


なんじゃ?こりゃ???・・・もしや縄文人も猫をかわいがったのかっ!?

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日本人は縄文人と弥生人の混血であり、アイヌは縄文人の直系の子孫だと一般に言われている。それはそうに違いないと私も思うのだが、今日は縄文人とアイヌの関係についてひとつ私見を述べてみよう。
以下はwikipedia「コロポックル」からの抜粋である。

アイヌがこの土地に住み始める前から、この土地にはコロボックルという種族が住んでいた。彼らは背丈が低く、動きがすばやく、漁に巧みであった。又屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいた。
彼らはアイヌに友好的で、鹿や魚などの獲物をアイヌの人々に贈ったりアイヌの人々と物品の交換をしたりしていたが、姿を見せることを極端に嫌っており、それらのやりとりは夜に窓などからこっそり差し入れるという形態であった。
そんなある日、あるアイヌの若者がコロボックルの姿を見ようと贈り物を差し入れる時を待ち伏せ、その手をつかんで屋内に引き入れてみたところ、美しい婦人のなりをしておりその手の甲には刺青があったという(なおアイヌの夫人のする刺青はこれにならったものであるといわれている)。
コロボックルは青年の無礼に激怒し、一族を挙げて北の海の彼方へと去ってしまった。以降、アイヌの人々はコロボックルの姿を見ることはなくなったという。現在でも土地のあちこちに残る竪穴や地面を掘ると出てくる石器や土器は、彼らがかつてこの土地にいた名残である。

実はこの話を以前どこかで読んだ時に、彼らはおそらく縄文人に違いない、と思った。アイヌではなく、コロポックルがである。というのも、今日アイヌの伝える習俗や生活、またその歴史的なものを見るに、「アイヌ=縄文人の末裔」と安直に割り切るには少ししっくりしないものを感じていたからだ。和洋折衷的というか、私の知る、世界の他の地域のシャーマニズムと比べて、ある意味徹底していないというか。それが本州のヤマト民族との交流によって生じた時代変遷的変化だと言えばそれもわかるのだが、どうしてこのようなのかと一抹の疑問を持っていた。
そもそも縄文人と大陸からの渡来人とは、その精神も文化もまるっきり違う。縄文人は確かミナミ・A・アシュタールのさくやさんが言っていたと思うのだが、第三密度の地球において意識レベルは第四密度の上の方(第五密度寄り)にあったそうである。弥生人の侵入は、少し過激な表現をすれば、イエス・キリストばかりのムラの中に、盗賊の群れが押し入って来たようなものだ。とてもすんなりと融合し、混血し、半分半分の存在になったとは思えない。その縄文人たちは、どのような変遷を経て、どこに行ったのだろうか。その考察の助けとして、まずは似たような状況におかれたアメリカ大陸の事例を参考にしてみよう。
15世紀までアメリカ大陸は白人社会とはまったく異質な文化を持つ先住民たちの世界だった。そこへヨーロッパから多数の移民が押し寄せて来たとはいえ、いきなり白人社会に切り替わったわけではない。理解を早めるために単純・模式化して説明すれば、先住民の中には白人と極力交わらないようにしてきた一派がいる。また一方、積極的にか必要に迫られてかある程度日常的な交流を持ち、次第に互いに混血・同化していったグループもいる。また一方では、先住民を駆逐してほぼ完全に白人のみの社会を形成した地域もある。
白人と距離を置き自分たちの文化を守ろうとした人々は、先祖からの居住地を追われ、数的にも激減の一途を辿った。混血融合したグループは次第に白人社会に同化していった。結果的に北米大陸では、今日のように先住民の姿のほとんど見えない、白人に席巻された社会が出来上がるわけだが、それが数百年かかって徐々に進行していったのである。民族的な集団移動が断続的に何度も繰り返され、各地域の民族構成は緩やかに変化していった。
それと同じことが、日本列島で数千年をかけて行われたのだと思う。大陸からの渡来人は、学校で教わるように紀元前3世紀にいきなり来始めたわけではない。おそらくそれ以前、縄文中期頃には既に小規模なものが散発的に行われたのだと思う。日本列島と大陸の位置関係からしても、そうなることは容易に推測できる。多くの縄文人は、あまりに異質な彼らを見て、親切に助けることはしたろうが、自分たちが彼らの考え方や文化をそのまま取り入れることに踏み切るには慎重だったことだろう。愛の割合がまったく異なる人間同士なのだ。
ただ長い間(数千年間)に少しずつ混血が進むにつれ、次第に大陸人的思考に慣れていった者たちも出てきたろうし、やがてはそれらの人々が中心となったムラも作られたかもしれない。そしてやがてその非常に緩やかな流れを劇的に変える出来事が起きた。紀元前5世紀から4世紀にかけての中国春秋時代の国、呉と越の滅亡と、そこを由来とした難民の大量移住である。これによって縄文人と弥生人の数的な関係/力関係は覆された。縄文人の中に一人二人の弥生人がいる分には、彼らは優しくされ親切にもてなされて割合おとなしく振舞うのだが、それが逆転したときに、いきなり彼らの本性が現れる。所有と支配の観念を強く持った彼らが、縄文人を奴隷化あるいは駆逐し始めたのである。それはまさしく、アメリカ大陸での白人と先住民の関係と同じである。
そのような状況の中で、多くの縄文人たちは居住地を去り北へ北へと逃げていったと思う。弥生人との関わりの中で精神的・文化的な影響を少しずつこうむりながら、時代とともに更に北へと。そういった状況がアメリカ大陸の場合の10倍の時間枠の間に起きたのである。
そして今日アイヌと呼ばれる一団の人々が津軽海峡を渡って北海道にやって来た時(それはおそらくBC3世紀以降もしくは坂上田村麻呂が大きく蝦夷を平らげた802年以降だったかもしれない)、そこには古くからの縄文人たちがいた。元からそこにいた人たちもいれば、遠い昔に渡来人との接触を避けて本州から移り住んだ人々もいたかもしれない。
しかしこの時既に、アイヌは弥生人の影響を受けて、本来の純粋な縄文人的気質を半分失ってしまっていたのだと思う。そして生粋の縄文人たちは、その精神的に弥生人化した集団との同居はできないと判断した。そしてやはり、そこを去って更に遠い地に移り住むことを選んだのである。けっして無礼に腹を立てたからでも、恐れて逃げ出したわけでもない。相手を丸ごと愛し、受け容れ、そのうえで共生できなければ静かに離れる。これが第四密度(五次元)の愛である。コロポックルの話はこの状況を正確に描写している。
地球が第三密度の意識レベルにあった間は、エネルギー的に上から蓋が被されているような状態なので、その住民である人間たちも、どんなに高い意識を持っていたとしてもその上の次元に上昇することは容易ではなかった。アイヌからあまり姿を見られなかったということは、縄文人たちもかなりの高い波動領域にいたことは事実だろう。が、第三密度から出ないのであれば、物理的に遠ざかるしか方法がない。集団アセンションを果たそうという現在とはまったく違う状況下にあったのである。縄文人たちは、おそらく千島やシベリア、アラスカ方面に逃れたのかもしれないし、それからどうなったかも現時点ではわからない。
これがこの話に纏わる私の勝手な推察である。断わっておくがこれに関して特に他の証拠があるわけではない。ただアイヌがこのように、縄文人の痕跡を伺わせるような貴重な資料を残してくれたことに感謝している。今多くの日本人が、多少なりとも自分が縄文人のルーツを持つことに誇りを持ってくれていることを、私も嬉しく思っている。


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タヌキもかわいがったのかっっ!!!



🐱



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