アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

風通しのよい世界

2024-06-16 16:59:37 | 思い
家の前の畑の一角に今、物置小屋を建てようとしている。いろいろと農業機械など収納したいし、草取りに来てくれる人たちに、気楽に休めるようなスペースを提供したい。そこで一年越しでそのための準備をしていたのだが、このところようやく着工の目途が立った。
早ければ月末にでも基礎工事に入る予定だ。今回は、基礎と骨組み、屋根は業者に任せて、その後の壁や床、階段作りなどは自分でやろうと思っている。まあ、現実的に一番早くしっかりしたものが建てられて、工費も抑えられる方法だ。それに今後ますます建築資材が手に入りにくくなりそうな状況なので、とにかくできるだけ早く使える状態にまで持っていきたい。
ところで私は、家に来る業者の人たちにはみな、「タバコを喫わないこと」をお願いしている。有害化学物質を敷地内に入れないことを徹底したおかげで自分の農業が成功したと思っているし、なにより家族をその脅威に晒させたくない。私にとっては、猫も犬も、その他の野生動物も、植物たちも、わが家にいるものはみな家族である。不要な毒を身体に取り込まずに育ってほしい。
というわけで、今回頼んだ業者の方にも「敷地内でタバコを喫わない。できれば喫煙しない人を派遣してもらう」ことを条件に発注したのだった。そのための人のやり繰りのためになら、多少工期が遅れても構わないとも言っておいた。そうして進めた工事計画だったが、さて先日基礎工事の下準備に来た時に担当者の方が突然、いや下請け会社の人の中には喫煙する人もいて、特に今どきの若い者はあまり言うことをきかない。せめて車の中でタバコを喫うことを認めてもらえないだろうか、という話を切り出してきた。
私は言下に断り、これから子どもを育てる世代ならなおのこと、少なくともこの家でタバコを認めるわけにはいかないと言った。ただどうしても喫いたいなら、家の前の市道に出て喫ってほしい。公道でタバコを喫う分には私としても文句は言わないし、それにここは山のどんずまりで、人も車も滅多に通らない。そこは日陰でかえって夏には気持ちの良いスペースになっている。
しかしそんなやりとりがあった後、自分としては少し考えるところがあった。つい昔の考え方の癖が出て他に厳しく当たってしまったが、それは必要なかったかもしれない。なぜなら私は、既にタバコの無い世界を実現しているし、そのやり方も理解している。その中ではもう、他の人になにかを強いる必要などまったく無いのだった。自分の世界を変えるためにする必要があるものは、すべて自分の心の内にあった。

以前は自分が食べものや健康、環境の問題に熱心に取り組んでいたこともあって、タバコに対しても厳しい目を向けていた。
例えば、タバコの成分(ニコチン)は昔、農薬登録がされたくらい動物にとっては深刻な毒(神経毒)である。あまりに毒性が強すぎて、狙った虫以外のものにまで影響を及ぼす(環境に深刻な害を与える)ということで、とうとう実用化に至らなかったという経緯がある。その代わり、その化学組成を真似て少し毒性を弱めたものが商品化されて、今広く流通している(ネオニコチノイド系農薬)。
この神経毒は、もちろん人間にも作用する。親が喫煙者の場合、子どもの知能指数が大きく低下するという疫学結果が発表されて久しい。私の子どもの頃は、まだこのような調査がなされる前だったから、世間では今ほど喫煙に対して厳しい目を向けられていなかった。私の父もヘビースモーカーで、いつもタバコの臭いがぷんぷんしていて、これが父親の匂いと幼なごころに信じていた。もちろんその結果として、私の知能はたぶん大幅に低下したのだと思う。中学高校を通じて勉強に身が入らず、特に高校の成績などは赤点だった。大学も滑り止め以外は悉く落ちた。仮に父がタバコを喫っていなければ、もしかして私は「天才」だったかもしれないと思う(今となってはすべては闇の中であるが)。
タバコの世界的な普及が、未来を担う子どもたちに大きな悪影響を与えていることは明白だった。それが私の言動を幾分過激なものにしていたのは否めない。私は少なくとも公共の場(集落の寄合所)は禁煙にすべきだと主張した。実際体の弱った年寄りたちが、陰でタバコの煙を嫌がっているのを知っていたこともある。しかしその発想は、このムラの常識や力関係にある意味ケンカを売るような行為だった。そのせいで、私は喫煙者たちから白い目で見られ、あからさまに嫌がらせを受けるようになり、その挙句にムラ八分になってしまった。
ただその反面いいこともあった。おかげで私の家にタバコを喫う人は来なくなり、会合に出る必要も無くなったので、私自身が煙に悩まされることも無くなった。会いたくない人とは会わず、関わりたくない人とは関わらない。農村にいてそんな生活ができることも実際そう悪くはない、と思うようになった頃、今思えば不思議と言えば不思議ななことだが、家に限らず町に出てもラーメン屋に入っても、どこに行っても喫煙する人を見かけることがほとんど無くなった(唯一映画やドラマの中でだけ、煙をくゆらす場面を見ることがあった)。世の中にタバコを喫う人はいなくなったのだろうか。いつの間にかこの社会からタバコが無くなったんじゃなかろうか、と思っていた。私だけじゃなくタバコの害を訴え続けた人たちの活動のおかげで、世の中も少しずつ良くなってきたのだろう。そんなふうに考えたりしていたが、その頃にはタバコに対する関心をすっかり失くしていて、実際のところそれ以上深く考えることは無かった。これも今となれば随分昔の話となる。
したところ今回の件である。どうやら世の中にはまだタバコを喫う人がいるみたいだ。しかも若い世代にも。つまり日本人がみな健康や思いやりに目覚めたわけでは未だなく、私の周りにだけ喫煙者がいなくなったのかもしれない。まだ世界の他の場面では、相変わらず煙に悩まされている人が大勢いるのだろう。つまり私個人が、「タバコの無い世界」の創造に成功しただけのようなのだ。

なぜそうなったかを、今なら整理して述べることができる。私はただ、タバコを喫う人から離れた。そうするためにそれ(離れること)を阻んでいた私の内側の信念を手放した。そしてそれ以降私はタバコそのものに意識を向けることが無かった。以上である。これが私にとっての、「無煙社会」実現化のプロセスだ。もちろんその過程で必要な相手に対して、自分の主張や要望を明確に述べることは必要だ。ただ黙っていて心の中で思いさえすればなんでも実現する、ということではない。意図したことを「愛をもって」言動に移すことが重要なのだ。それには時には話したくないことも話さなきゃならないときもある。怖いと思うこともしなきゃならない場合もある。どちらも「したくない」「怖い」と思うその根底にはネガティブな信念が存在しているので、そういう時はそれを見つけ出す絶好の機会でもある。そして外して、はっきりと相手に自分の思いを伝えるのである。もし互いに無理なく歩み寄れるなら、互いの関係は継続される。しかしもし折り合いがつかないのならば、その人から静かに離れるのがいい。
以上のことをしたうえで、それ以外の働きかけや強制をする必要は無い。というか、それはかえってしない方がいいものだ。「強いる」「力で押し切る」「相手を変えようとする」というエネルギーは、必ず後で同等のものを自分に呼び寄せる。つまりそれは対立と抗争を生み、どちらが強いか、という弱肉強食の世界を形成する元となる。そこでは必ず力の強い方が勝つので、「愛」というものはしばしば、いや必ずと言っていいほど蹂躙されるものだ。それがとりもなおさず古い地球世界の基本構造だった。低い波動領域の原則みたいなものである。
つまり昔の私は、思い違いをしていたのだった。タバコという有害なものを社会から除去するには、人々を啓蒙する必要があると思っていた。それが思いやりであり正義だと本気で考えていた。しかしそれは、支配者が私たちに意図的に刷り込んだ、支配する側にとって都合のいい考え方である。これが正義であり、それを成すためには他人に干渉し操作し、相手を、社会を変えなくてはいけない。そういう考え方をするように、私たちは思考操作されていたのだった。
私たちは家庭や学校における教育の中で、本当の愛とは違った、歪められたものを「愛」として刷り込まれる。自分が正しいと思うことを相手に押し付けること、間違った考えの者を正しく矯正してあげることが愛だと吹き込まれる。親はそのように子どもにするし、先生は同じように生徒らにする。が、実はここに「愛」は存在しない。ただ力の上の者が自分の信念に「正しいこと」というラベルを貼って押し付けているだけなのだ。宗教や政治の世界を見ればわかるとおり、実はこの世に「絶対的に正しい」ものなど存在しない。そもそも宇宙には「正しい/正しくない」という観念自体が存在しないのだ。どのような事象でも、それをどこから見るかでどのようにでも捉えることができる。それがわからないように洗脳された人たちは、ただ自分の考えはすなわち「正義」であり、それを一番弱いも(子どもたち)に押し付けるのが「愛」だと固く信じている。
それに加えて、私たちは何事につけ外部に「依存」するよう仕込まれている。親や先生の言うことをきかなければ容赦なく罰せられてきたのだ。事あるごとにそうされるにつけ、私たちは大切なことを決めるのに人の顔色、特に自分より上にいる人の顔色を窺うようになる。なにに愛があるか、どれが正しいかではなくて、誰に従えば罰せられないか(自分に有利か)を基準にして行動を選ぶようになる。つまり他者に依存するのだ。
だから子は親に徹底的に依存するように躾けられる。友達や仲間や数の力に依存し徒党を組むようになる。結婚すればパートナーに依存する。社会人になれば上司に、会社に依存する。自分の人生を決めるのに、他人からどう思われるか、評価されるかを一番に考えるようになる。そしてそこから出たらやってはいけないように思わされている。もちろんこの社会で一番上にいるのは、それを刷り込んだ支配者たちである。最終的には彼らが、依存する人間たちを意のままに扱えるような仕組みになっている。人間が家畜を飼うのと同じやり方だ。というか、彼らのやり方を畜産業に取り入れていると言った方がいい。
このような「干渉することが愛」「依存する体質」が相まって、私たちは自分自身を苦しめるものから離れることがなかなかできないでいる。まあ、それはそうだ。もし簡単にそれをされてしまえば、支配者たちは家畜をすぐに失くしてしまうことになる。これはそうならないための、彼らの組み立てた「檻」の構造の一部分である。相互に干渉し合い,足を引っ張り合い、「愛」と名付けられた支配/コントロールのエネルギーをぶつけ合わせるようにする。偽りの「愛」を追い求めさせて逆に波動を下げさせる。かくて人類は出口のない穴に落とし入れられ、ぐるぐるとその中を回るだけだった。
この状況を逆に解釈すれば、「他に干渉しない」「他へ依存しない」ことを自分に徹底すれば、痛みや苦しみを容易に取り除くことができる。自由に思いのままの世界を創ることができる。私も「無煙社会」をこうして実現した。繰り返しになるが、ただ意図し、自分の内側を変えて、それに基づいて行動する。自分の思いや主張は話すべき人にきちんと話し、それに対する相手の意思は尊重して、それと折り合いがつかなければ少し距離を置く。そうすれば自分と他者、どちらの自由も尊重されて、互いに束縛しない風通しのよい関係を築くことができる。

してみると、やはりあの時業者に対して少し厳しく当たり過ぎた感がある。長い工期の間には、雨が降ることも、疲れて歩きたくないという時もあるかもしれない。吸い殻の始末さえしっかりしてくれれば、私としては充分としよう。ここはやはり相手の希望を汲んで、自分の車の中でならタバコを喫ってもいいと後で言うことにしよう。




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 進撃のばあちゃん | トップ | 情報の海 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

思い」カテゴリの最新記事