同期への最後の年賀状(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51660321.html
「誰だって自分のこと以外は真剣に考えない」
からこそ、「責任」という概念があるのです。
他との関係性の中でこそ自己を発見できるゆえに、
達成したい目的(存在したい自己)があるのであれば、
責任という関係性を確定するものが必要です。
ドラッカーのいう組織社会の文脈で言えば、
組織における「責任」を通してこそ
人は社会(組織は社会的機関)との繋がりを獲得することができるし、
コミュニタリアニズム的文脈で言えば、
コミュニティにおける「責任」を通してこそ
人はコミュニティとの繋がりを獲得することができます。
国家・社会を考える(肯定する)時は、
我々は国家・社会にどのような目的を託し、
それゆえに国家・社会に対してどのような責任を負わすべきであり、
そして、そのためにどのような権限を持たせるべきか、
責任と権限のバランスは適切かなどを議論すべきなのです。
何度も述べるように、
日本の空気の問題は責任の真空化であり、
過去においては意味があったのです。
責任を用いて関係性の中で自己を明確化する必要がありません、
自己は和に溶け込んでいるのが和の文化であるからです。
これが海外から輸入した近代社会と融合し切れていないと思います。
社会だけ入れたから結果として総無責任化が起きているのだと。
国家・社会を語らないのであれば、責任の話をする必要はありません。
ただし、国家や社会の規模で個人や自己なども語らぬことです。
そういう社会ではない社会を目指すのも、衰退の選択肢としては有り得ると思いますが。
ただ私は、組織社会を否定して残るのは個人主義ではなく全体主義だ
というドラッカーの意見に賛成します。
それは、現代社会(知識産業社会)において何かを成し遂げるためには、
組織の力なくして有り得ないからです。
中間集団から個人に分割された人々は、
結局「公」という権力にすがらざるを得なくなり、
そして責任を超えた権限の暴走を許容せざるを得なくなるのです。
小泉進次郎氏が「自助、共助、公助のバランス」と言っていたが、
人々を無縁にさせないために、今「責任」という言葉を
「自助、共助、公助のバランス」感覚を持って人々に投げかけるのです。
責任を負わせることで、人々は無縁ではいられなくなる。
この先に共生社会も見えてくるものと考えます。
ちょっと最後は適当ですが、以上です。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51660321.html
「誰だって自分のこと以外は真剣に考えない」
からこそ、「責任」という概念があるのです。
他との関係性の中でこそ自己を発見できるゆえに、
達成したい目的(存在したい自己)があるのであれば、
責任という関係性を確定するものが必要です。
ドラッカーのいう組織社会の文脈で言えば、
組織における「責任」を通してこそ
人は社会(組織は社会的機関)との繋がりを獲得することができるし、
コミュニタリアニズム的文脈で言えば、
コミュニティにおける「責任」を通してこそ
人はコミュニティとの繋がりを獲得することができます。
国家・社会を考える(肯定する)時は、
我々は国家・社会にどのような目的を託し、
それゆえに国家・社会に対してどのような責任を負わすべきであり、
そして、そのためにどのような権限を持たせるべきか、
責任と権限のバランスは適切かなどを議論すべきなのです。
何度も述べるように、
日本の空気の問題は責任の真空化であり、
過去においては意味があったのです。
責任を用いて関係性の中で自己を明確化する必要がありません、
自己は和に溶け込んでいるのが和の文化であるからです。
これが海外から輸入した近代社会と融合し切れていないと思います。
社会だけ入れたから結果として総無責任化が起きているのだと。
国家・社会を語らないのであれば、責任の話をする必要はありません。
ただし、国家や社会の規模で個人や自己なども語らぬことです。
そういう社会ではない社会を目指すのも、衰退の選択肢としては有り得ると思いますが。
ただ私は、組織社会を否定して残るのは個人主義ではなく全体主義だ
というドラッカーの意見に賛成します。
それは、現代社会(知識産業社会)において何かを成し遂げるためには、
組織の力なくして有り得ないからです。
中間集団から個人に分割された人々は、
結局「公」という権力にすがらざるを得なくなり、
そして責任を超えた権限の暴走を許容せざるを得なくなるのです。
小泉進次郎氏が「自助、共助、公助のバランス」と言っていたが、
人々を無縁にさせないために、今「責任」という言葉を
「自助、共助、公助のバランス」感覚を持って人々に投げかけるのです。
責任を負わせることで、人々は無縁ではいられなくなる。
この先に共生社会も見えてくるものと考えます。
ちょっと最後は適当ですが、以上です。
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