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進化する魂

フリートーク
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日本の壮大なる自己矛盾

2011-01-18 10:13:58 | 社会
役人というもの 政策のあり方との関係(小幡績)
http://agora-web.jp/archives/1174425.html


役人が権限を欲しているというのは大きな誤解だ。役人とはむしろ権限を持つことを嫌がるのであり、役人から権限を奪うことが行政改革ではなく、役人に責任を持って権限を持たせるのがポイントなのだ。

役人とは、世間やメディアのイメージとは違って、権限を振り回したり、権限を獲得することを最優先にして仕事をしていたりする、ということはない。むしろ逆に、責任を負わされるのは嫌だから、なるべく不必要な権限は保持したくないのであり、実施が面倒な法令は嫌で、自由にやってもらいたいのだ。

だから、自由にやられたらほかの住民から苦情がくるようなことは起きてほしくなく、そういう場合に、何でも禁止してしまえ、と言うことになり、実施しやすいルールを作り、それに当てはめて、自分で判断、解釈して責任を追及されないように、ルールどおり運用していますと言えるような制度を望むのだ。

ここにこそ、官僚主導の最大の弊害が生じる。個別に実際に監督、検査して判断するべきことをしなくなり、最適な資源配分を実現するための社会システムデザイン、経済政策が実施されなくなるのだ。

これが役人は責任を取れない、ということの真の問題点である。

きちんと社会として望ましい形に地域や経済を持っていこうとするならば、その姿が実現できるように直接的に誘導する必要がある。その中では、個別に誰かが適不適を判断しないといけない。そこは争いになるから裁判か調停組織が必要となるし、そもそも監督、調査には手間隙と技術が必要だし、何より、責任を持って自分で判断する、というガッツが必要だ。

実は、これは日本の多くの大組織に掛けており、個人では能力もあり、大きなヴィジョンを語っている中間管理職が、実際の判断はすべて上にあげるということになり、ガッツのない上は、すべて下に個別の判断は任せてあると逃げ腰である。

これが日本総無責任体制の根本的な理由である。


激しく同意する。
日本に欠けているのは、この「責任」に対する認識なのだ。

今、日本を閉塞する問題の根本的原因は何か。
それは「責任」が存在しないことに他ならない。
日本的空気の問題とは「国民の総無責任化」にあるのだ。

当Blogで何度も繰り返した内容だが、ここでまた述べよう。

近代に入って日本は何も考えずに「社会」と「個人」を輸入した。
西欧的近代社会観の輸入をしたということだ。
だが、もともと日本では「社会」や「個人」などという発想が希薄であった。
個と個が溶け合った「和」があった。

我々が「社会」や「個人」を語るとき、
あたかも日本に当たり前のように存在しているモノとしているが、
実は「社会」も「個人」も日本には存在していない。
存在していないのに、存在しているという前提で話を進めるから、何もかもおかしくなる。
だから日本人は「権利」の概念も、「責任」の概念も「民主主義」の概念もいまいち理解できない。
それらは「社会」と「個人」を前提とした話だからだ。

しかし、われわれ現代人はこの問題をいつまでたっても直視しようとはしないのだ。
理想を前提として話をする前に、
自分たちの置かれている現実を率直に受け止める覚悟が現代人にはない。

なぜなら、自分を自分たらしめるアイデンティティを
近代的社会観を持ち出さずして語ることができないからだ。

つまり、自己アイデンティティを確立するために近代社会観に依存するが、
その一方で、そうした近代社会観が自分たちの現状と合致していないことも
また無意識的に自覚している。
それが日本人のチキンレース(責任回避衝動)に繋がっているのだ。

ここに、日本の壮大なる自己矛盾が存在する。
日米安保に問題の根本を帰着さえている論者も多いのだが、
そこは派生的問題にしかないと私は思っている。

今時間がないのでつづきはまた。