アクセス数が増えたので、久しぶりの責任シリーズ。
(思えばブログ発足時はこんな話題ばかりであった)
この世界で「責任」という言葉を正しく理解している人は稀である。
それは、権利でもなければ義務でもない。
「そうでなければならないという認識」である。
「認識」なのである。
簡単に言えば「やらなければ!」「やるしかない!」こういう考えのことである。
世に言う「責任を取れ」などという言葉に意味はない。
なぜなら、責任を取って辞任したり、賠償をしたりしても問題は解決されないのだから。
事後的な方策によって本質的な問題は何も解決しない。
責任というのは"事後"のものではない。
"事前"のものなのである。
それでも我々が事後的な罰則を規定したがったり、
報酬によるインセンティブを与えたがるのも、
事前に責任という認識を持たせたいがためである。
結局、我々はいつも何らかの方法で、
人々に責任を認識させたいと四苦八苦している。
では、「責任」を得る、与えるために必要なことは何か?
それは「理解」である。
「理解」の存在しないところに「責任」は存在し得ない。
なぜなら、責任とは認識のことであるからだ。
認識は理解がなければ存在し得ない。
だから、言葉だけで、ルールだけで、契約だけで「責任」を負わせても意味がない。
本来の意味を失っている。
ただ、負荷を負わせることによって理解が進み責任感が増すことはある。
これは「視点」の問題である。
理解をするためには視点が必要であるからだ。
負荷を負わせる、つまりある立場を人に与えると人は変わる。
責任感をぐっと持つ。
それは、立場が変わることで「視点」を得るからである。
視点が変われば見える世界が変わる。
より多くの視点を持つ人は、より多くの責任を認識するであろう。
では、「視点」を得る、与えるために必要なことは何か?
それは「信念」である。
目の見えない人に、視点を与えても無駄である。
しかし、信念は人に与えることはできない。
自らによってしか得ることができないもの、それが信念である。
つまるところ、「責任」を人に与えることはできない。
「責任」とは、自分でしか掴み得ないものなのである。
では、「信念」を得るためにはどうすればよいか。
それは「経験」である。
人は自分という「経験」を通してしか「信念」を得ることはできない。
だから人は、ゆっくりながらも着実に、スパイラルして進化する。
ゆえに人は生きる。
生きるということでしか「経験」を得ることはできないから。
よって、生きるということからしか「責任」は発生しない。
我々にできること。
それはまず、生きるということ。
生きることに命をかけること。
だから人類は生きることが苦しいながらも集団自殺をしない。
それが人間にできる唯一の道だからだ。
「責任」
この言葉を再発見することが、何よりも重要だ。
(思えばブログ発足時はこんな話題ばかりであった)
この世界で「責任」という言葉を正しく理解している人は稀である。
それは、権利でもなければ義務でもない。
「そうでなければならないという認識」である。
「認識」なのである。
簡単に言えば「やらなければ!」「やるしかない!」こういう考えのことである。
世に言う「責任を取れ」などという言葉に意味はない。
なぜなら、責任を取って辞任したり、賠償をしたりしても問題は解決されないのだから。
事後的な方策によって本質的な問題は何も解決しない。
責任というのは"事後"のものではない。
"事前"のものなのである。
それでも我々が事後的な罰則を規定したがったり、
報酬によるインセンティブを与えたがるのも、
事前に責任という認識を持たせたいがためである。
結局、我々はいつも何らかの方法で、
人々に責任を認識させたいと四苦八苦している。
では、「責任」を得る、与えるために必要なことは何か?
それは「理解」である。
「理解」の存在しないところに「責任」は存在し得ない。
なぜなら、責任とは認識のことであるからだ。
認識は理解がなければ存在し得ない。
だから、言葉だけで、ルールだけで、契約だけで「責任」を負わせても意味がない。
本来の意味を失っている。
ただ、負荷を負わせることによって理解が進み責任感が増すことはある。
これは「視点」の問題である。
理解をするためには視点が必要であるからだ。
負荷を負わせる、つまりある立場を人に与えると人は変わる。
責任感をぐっと持つ。
それは、立場が変わることで「視点」を得るからである。
視点が変われば見える世界が変わる。
より多くの視点を持つ人は、より多くの責任を認識するであろう。
では、「視点」を得る、与えるために必要なことは何か?
それは「信念」である。
目の見えない人に、視点を与えても無駄である。
しかし、信念は人に与えることはできない。
自らによってしか得ることができないもの、それが信念である。
つまるところ、「責任」を人に与えることはできない。
「責任」とは、自分でしか掴み得ないものなのである。
では、「信念」を得るためにはどうすればよいか。
それは「経験」である。
人は自分という「経験」を通してしか「信念」を得ることはできない。
だから人は、ゆっくりながらも着実に、スパイラルして進化する。
ゆえに人は生きる。
生きるということでしか「経験」を得ることはできないから。
よって、生きるということからしか「責任」は発生しない。
我々にできること。
それはまず、生きるということ。
生きることに命をかけること。
だから人類は生きることが苦しいながらも集団自殺をしない。
それが人間にできる唯一の道だからだ。
「責任」
この言葉を再発見することが、何よりも重要だ。
語り口が神々しいですね。
コメントありがとうございます。
そして返信が遅れて申し訳ありません。
insight_1975さんも、さすがの皮肉屋ぶりですね。
いつもセンスがあるな~と思っております。