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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

「責任」とは何か?

2011-01-07 21:08:25 | 哲学・思想
アクセス数が増えたので、久しぶりの責任シリーズ。
(思えばブログ発足時はこんな話題ばかりであった)

この世界で「責任」という言葉を正しく理解している人は稀である。
それは、権利でもなければ義務でもない。

「そうでなければならないという認識」である。

「認識」なのである。

簡単に言えば「やらなければ!」「やるしかない!」こういう考えのことである。

世に言う「責任を取れ」などという言葉に意味はない。
なぜなら、責任を取って辞任したり、賠償をしたりしても問題は解決されないのだから。
事後的な方策によって本質的な問題は何も解決しない。

責任というのは"事後"のものではない。

"事前"のものなのである。

それでも我々が事後的な罰則を規定したがったり、
報酬によるインセンティブを与えたがるのも、
事前に責任という認識を持たせたいがためである。
結局、我々はいつも何らかの方法で、
人々に責任を認識させたいと四苦八苦している。

では、「責任」を得る、与えるために必要なことは何か?

それは「理解」である。
「理解」の存在しないところに「責任」は存在し得ない。
なぜなら、責任とは認識のことであるからだ。
認識は理解がなければ存在し得ない。

だから、言葉だけで、ルールだけで、契約だけで「責任」を負わせても意味がない。
本来の意味を失っている。
ただ、負荷を負わせることによって理解が進み責任感が増すことはある。

これは「視点」の問題である。
理解をするためには視点が必要であるからだ。
負荷を負わせる、つまりある立場を人に与えると人は変わる。
責任感をぐっと持つ。
それは、立場が変わることで「視点」を得るからである。
視点が変われば見える世界が変わる。
より多くの視点を持つ人は、より多くの責任を認識するであろう。

では、「視点」を得る、与えるために必要なことは何か?

それは「信念」である。
目の見えない人に、視点を与えても無駄である。
しかし、信念は人に与えることはできない。
自らによってしか得ることができないもの、それが信念である。

つまるところ、「責任」を人に与えることはできない。
「責任」とは、自分でしか掴み得ないものなのである。

では、「信念」を得るためにはどうすればよいか。

それは「経験」である。
人は自分という「経験」を通してしか「信念」を得ることはできない。
だから人は、ゆっくりながらも着実に、スパイラルして進化する。

ゆえに人は生きる。
生きるということでしか「経験」を得ることはできないから。

よって、生きるということからしか「責任」は発生しない。

我々にできること。
それはまず、生きるということ。
生きることに命をかけること。
だから人類は生きることが苦しいながらも集団自殺をしない。

それが人間にできる唯一の道だからだ。

「責任」

この言葉を再発見することが、何よりも重要だ。

無縁社会にならないために今こそ「責任」という言葉を再発見せよ

2011-01-07 15:50:00 | 社会
同期への最後の年賀状(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51660321.html

「誰だって自分のこと以外は真剣に考えない」

からこそ、「責任」という概念があるのです。
他との関係性の中でこそ自己を発見できるゆえに、
達成したい目的(存在したい自己)があるのであれば、
責任という関係性を確定するものが必要です。

ドラッカーのいう組織社会の文脈で言えば、
組織における「責任」を通してこそ
人は社会(組織は社会的機関)との繋がりを獲得することができるし、
コミュニタリアニズム的文脈で言えば、
コミュニティにおける「責任」を通してこそ
人はコミュニティとの繋がりを獲得することができます。

国家・社会を考える(肯定する)時は、
我々は国家・社会にどのような目的を託し、
それゆえに国家・社会に対してどのような責任を負わすべきであり、
そして、そのためにどのような権限を持たせるべきか、
責任と権限のバランスは適切かなどを議論すべきなのです。

何度も述べるように、
日本の空気の問題は責任の真空化であり、
過去においては意味があったのです。

責任を用いて関係性の中で自己を明確化する必要がありません、
自己は和に溶け込んでいるのが和の文化であるからです。

これが海外から輸入した近代社会と融合し切れていないと思います。
社会だけ入れたから結果として総無責任化が起きているのだと。

国家・社会を語らないのであれば、責任の話をする必要はありません。
ただし、国家や社会の規模で個人や自己なども語らぬことです。
そういう社会ではない社会を目指すのも、衰退の選択肢としては有り得ると思いますが。

ただ私は、組織社会を否定して残るのは個人主義ではなく全体主義だ
というドラッカーの意見に賛成します。
それは、現代社会(知識産業社会)において何かを成し遂げるためには、
組織の力なくして有り得ないからです。
中間集団から個人に分割された人々は、
結局「公」という権力にすがらざるを得なくなり、
そして責任を超えた権限の暴走を許容せざるを得なくなるのです。

小泉進次郎氏が「自助、共助、公助のバランス」と言っていたが、
人々を無縁にさせないために、今「責任」という言葉を
「自助、共助、公助のバランス」感覚を持って人々に投げかけるのです。
責任を負わせることで、人々は無縁ではいられなくなる。
この先に共生社会も見えてくるものと考えます。

ちょっと最後は適当ですが、以上です。