以前から、3.11の時も何度か主張していることなのだが、また語ろうと思う。
「決める」ということは「諦める」ということと同義語だ。
なぜなら「諦める」必要がなければ「決める」必要がない。
だから、2つの可能性があるとき、どちらか一方を選ぶ必要がある場合、もう一方を諦めなければならない。
「決断」や「英断」というものは、その一方で同時に「諦める」ということなのだ。
「諦める」ゆえに「覚悟」が必要なのである。
一方の可能性を捨てる「勇気」であり、「意志」であろう。
「決める」ことのできない人は、「諦める」ことができない人である。
優柔不断は「諦める」ことが出来ない人のことをいう。
また、責任のある意思決定というものが往々にして苦しいのは、何かを「諦める」ことだからなのである。
AKB48の「恋愛禁止条例」においても、同様のことが言える。
AKB48として生きることを「決める」のであれば、当然、その一方で「諦める」必要がある。
先に述べた論理で考えれば、「諦める」必要があるから「決める」必要があるのである。
あれもこれもと選べるのであれば、それはそれでよい。
しかし、何かを得るために、何かを「諦める」必要があるのであれば、そうも言っていられないだろう。
アイドルとして生きる道を選んだときに、「恋愛」が諦める必要のあるものなのか。
それは、極端なことを言えば、人が仏門にはいる(出家する)とき、現世との縁を切るのと似ている。
決まった時刻に、決まった方角に向かって礼拝するのにも似ている。
そうしなければならない根拠は、宇宙のルールにはない。
そうしなければならないと、決断した人たちがいるのだ。
「恋愛禁止条例」とは、恋愛を諦めなければ、アイドルとして生きて得るものがないと決めた宗教である。
アイドルという偶像を崇拝する宗教「アイドル教」の、その中でも戒律に重点を置く「AKB48派」なのである。
宗教でたとえるのが不適切なのであれば、「AKB48学派」とでも呼べばよい。
「恋愛禁止条例」はAKB48の理念を表している ~ アイドル教AKB48派 ~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/fb518f6221cfa532af9d4b1469b53676
「恋愛禁止条例」はAKB48の理念を表している [補足説明]
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/ba840f94f972945974968a742e827fc9
ここでは、「恋愛禁止条例」について述べたが、これは他の全ての問題においても同様である。
たとえば「卒業」がそれである。
そして、この議論をする場合に、もう一つ重要な論点がある。
それは、人には「決める」と「諦める」の2つの選択肢しか与えられていないが、選択する対象は「選べる」ということだ。
今、目の前にAとBの選択肢がある。
どちらかを選ぶ決断(つまりもう片方を諦める)ことを迫られている。
しかし、ひょっとしたら、Cという選択肢があるのかもしれない。
Aでもなく、Bでもない。
AもBも諦めず、両方得ることのできるCという選択肢を、もし発見することができるのであれば、それを選ぶことができる。
これは、仏教や禅などで伝える境地である。
ヘーゲルの弁証法もまた、これである。
相互に矛盾するテーゼ<命題>とアンチテーゼ<反命題>を、1つ上の次元で統合(止揚)し、新たな命題(ジンテーゼ)を導くプロセスである。
人類の進化というものは、そうやって、目の前の問題を1つ上の次元での解決を積み重ねてきた歴史でもある。
おそらくは、秋元康氏や、その周辺にいるもの、また一部のファンは、
AKB48が、アイドルという既成の概念を超えていくことを夢見ている。
「第3の道」だ。
イギリス労働党のブレア政権で提唱された概念だ。
ブレーンであった社会学者アンソニー・ギデンズは、資本主義と社会主義に対する新しい政治思想「第3の道」を唱え、世界的なムーブメントになった。
(日本でも菅直人が提唱したことで有名となった。)
AKB48が、アイドルの「第3の道」を示してくれるのか。
私はワクワクしながら見ている。
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