このエントリは、参照するリンク先の主張を批判するためのものではなく、あくまでも当Blogの意見を主張するためのネタとして使うものであります。
「よいネタを提供してくださりありがとうございます。」という気持ちで書いているので、その点誤解がないことを祈ります。
m(_ _)m
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AKBじゃんけん大会に見る、我らの競争と戦争
http://blogos.com/article/47089/
まず、リンク先のブロガーの方が↑の言葉を問題視したくなってしまうのは、「努力には結果がある」というのが近代教育の賜物であり、思い込みがあるからである。
(結果をどう定義するか次第だが)
AKB48が努力を推奨するのは、「努力をして結果を出せ」と言いたいからではなく、「努力せよ、努力する姿が美しいのだ」と言いたいからである。
それは、人が「母が子を守る姿」や「甲子園球児が全力プレーをする姿」などのような「何かのために自己犠牲をいとわない姿」に美しさを見い出す生き物だから、というところを哲学的な基点としている。
そもそも、「献身」というのは「自己犠牲」のことであり、見返りを求めない行為なのであるからして、「報酬」を求めないのは当たり前なのである。
むしろ、逆である。
AKB48が問いかけているものは、
というまさに近代思想に対するアンチテーゼなのである。
そのことを理解した上で、下記の論説を読めば、視点が真逆であることがわかる。
結果が偶然でしか決まらないから、手を抜いたり、その場から実質上「降りる」などという態度は、不道徳であり、また美しくないのである。
努力の結果(報酬)を全く求めない、求めてはならない行為が、全身全霊での奉仕が、こうして称揚され、強要される。
だが、誰がそれを強要するのか?
産業のシステムであり、国の体制が、それを押し付けてくるのだ。
どれほど結果(報酬)の得られることが少なくとも、それに全く結びつかないことさえあっても、競争を、そのための努力を、したがってこの現行のシステムのための献身を、決して怠ってはならない。
「努力の結果」などを求めるのは、エゴイズムであり、この社会のシステムへの、また国家への反逆者である。
とにかく競争せよ、そして奉仕せよ。見返りは何も求めるな。競争と奉仕こそが、お前の幸福であり、存在の意味だ。
僕はそこに、小さな個々人の生というものへの、欲望や夢や感情や生存それ自体を含めた、個々の生そのものへの、圧倒的な暴力と愚弄を感じる。
無論、自分自身もそれに加担しているということを含めて。
産業システムや国家体制の根底にある思想的フレームワークが、「努力と結果」を求めてくるから、AKB48はそれに反旗を翻したわけだ。
「努力と結果に囚われないことが、お前の幸福であり、存在の意味だ。」が正しい理解だ。
つまるところ、「結果のみにとらわれて努力をすることは、この世界で最も愚かなことだ。」というサイババ(笑)の言葉が適切だ。
努力を、合理性から解き放ち、人間が原始的に持っている真善美に働きかける要素として訴えかける。
これは、決して暴力などではなく、人間の尊厳を最大化する試みでもある。
「努力と結果」というイデオロギーから脱却し、己の「道」へとつながるチャネルが「AKB48」なのである。
人生は「道」だ。
そして、それこそが「マジ」なのである。
と、考えようという話ね。
---------------------
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ = 自分の最大化
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/501074afa7200ae4a03732f073f12c61
「努力は必ず報われる」 高橋みなみ道
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/63fc307f92313690d76a5205a2b94607
どこへ向かえばいいのか、事前にわかっているなら、努力のしようもあるが、
ほとんどの悩みは、どうしたらよいのかわからない、ということからくる。
そして人生にありふれているものといえば、その類の悩みだ。
努力する気持ちを持っているなら、それだけで幸せなことだ。
しかし、もっと幸せな努力がある。
それは「道」である。
「努力ができる人」という意味で、「努力の天才」という言葉が使われることがある。
それは間違いだ。
努力をするのに天才も馬鹿もない。
違うのだ。
前述したように、普通、努力は「事前に想定した、ある特定の目的を達成する」ために行われる活動だ。
しかし、多くの人は、目的すら持っていない。
いや、
この相対的な宇宙の中では、絶対的な価値などないのだから、
どんな目的も冷静に考えれば全てその瞬間に泡になって消えてしまうものばかりなのだ。
本当の意味で意味のある目的なんてない。
だから「道(みち)」なのだ。
(タオでもいいけど)
道には、終わりがない、明確な目的もない。
ただ極めるようとするところに意味がある。
柔道、剣道、茶道、華道、アイドル道、etc...
努力というのは結果を約束するものではない。
「事前に想定した、ある特定の目的を達成すること」=「報われる」としてしまうと、
目的のない者にとって、人生は突然、無意味なものになる。
だが、人生を道だと捉えると、すっと「生きる」が心に入ってくるだろう。
人生は軽快で華やかになる。
目的がなくても、その道を極めるために努力ができる。
幸せだ。
どうしたらよいのかわからないのが人生だとしても、
なんら恐れる必要はない。
人生は道だ。
「高橋みなみ道」とかけて「努力は必ず報われる」ととく、
その心は、「人生は道」だから。
高橋みなみの努力、原みづきの努力、やすす先生の努力 ~努力と競争戦略と学習のトリレンマ~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/955b300923bbc4c6a1a256fab4a5c0df
不確実性で表現される未来というのは、単に「わからない」というレベルなのではなく、未来は本質的に「未知」なのである。
どれだけ将来予測のパラメータを増やしたとしても、そのパラメータの有効性自体が保証できないのだから、過去のパラメータから完全には予測できないものが未来なのである。
という意味で、未来は本質的に「未知」であり、不確実なのである。
(どれだけ優秀なスーパーコンピュータがあっても未来は予測できませんよ。と考えてもらってよい。この発想自体を証明することはできないが)
とはいえ、では我々が努力の報われ方を、どのように考えるべきなのか、という問いについて考えておくべきであろう。
努力の報われ方を知るための手段は、「経験」と「学習」しかない。
最も力強い学習は直接的な経験から得られる。
経験のない者に「理解しろ」というのは酷というものである。
(一を聴いて10を知ることができる人は稀である。)
私達が食べることやハイハイをすること、歩くこと、意思を伝達することを学んだのは、直々の試行錯誤、つまり、ある行動をとり、その行動の結果を見て、新たにまた別の行動をとることによってである。
だが、行動の結果を観察できないときには何が起こるだろうか?
行動の結果が表れるのが遠い先のことであったり、私達の営みを含めた、より大きなシステムの遠く離れた部分であったりする場合はどうなるのだろうか。
私たち一人ひとりに「学習の視野」がある。
つまり私たちは、時間的にも空間的にも、ある一定の幅の視界の中で自身の有効性を評価するのだ。
行動の結果が自身の学習の視野を超えたところに生じる時、直接的な経験から学ぶことが不可能になる。
ここに我々の前に立ちはだかる学習ジレンマの核心がある。
私たちにとって最善の学習は経験を通じた学習なのだが、多くの場合最も重要な意思決定がもたらす結果を私たちが直接に経験できないのだ
非常に重要な意思決定は、数年あるいは数十年にもわたって続く結果をもたらす。
たとえば、今日、学校でトイレ掃除をすることの意味を感じることができるのは、20年後、親となり子供の教育について考える時かもしれない。
たとえば、基礎的な研究開発における意思決定は、その結果を表すのに10年以上かかるかもしれない。
私たちは「学習の視野」を広げること、または「学習の視野」を超える視座を獲得することはできるのだろうか。
どのような方法によって、それが可能になるのか、当Blogでは考えていきたい。
努力とは何か
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/41d467943e58f7ecfb1f4a6f09805542
努力は嘘をつかない
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/efe787789cd71820e94b2b7dc1f5e24d
NMB48城恵理子卒業 城に100点満点を贈る
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/760bd79d88a27ff5d4126989a1435dd0
「よいネタを提供してくださりありがとうございます。」という気持ちで書いているので、その点誤解がないことを祈ります。
m(_ _)m
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AKBじゃんけん大会に見る、我らの競争と戦争
http://blogos.com/article/47089/
「全力で努力(献身)しなさい、ただし結果(報酬)は求めるな」
まず、リンク先のブロガーの方が↑の言葉を問題視したくなってしまうのは、「努力には結果がある」というのが近代教育の賜物であり、思い込みがあるからである。
(結果をどう定義するか次第だが)
AKB48が努力を推奨するのは、「努力をして結果を出せ」と言いたいからではなく、「努力せよ、努力する姿が美しいのだ」と言いたいからである。
それは、人が「母が子を守る姿」や「甲子園球児が全力プレーをする姿」などのような「何かのために自己犠牲をいとわない姿」に美しさを見い出す生き物だから、というところを哲学的な基点としている。
そもそも、「献身」というのは「自己犠牲」のことであり、見返りを求めない行為なのであるからして、「報酬」を求めないのは当たり前なのである。
むしろ、逆である。
AKB48が問いかけているものは、
「結果」が得られることがわかっていなければ、「努力」できないのか?
というまさに近代思想に対するアンチテーゼなのである。
そのことを理解した上で、下記の論説を読めば、視点が真逆であることがわかる。
結果が偶然でしか決まらないから、手を抜いたり、その場から実質上「降りる」などという態度は、不道徳であり、また美しくないのである。
努力の結果(報酬)を全く求めない、求めてはならない行為が、全身全霊での奉仕が、こうして称揚され、強要される。
だが、誰がそれを強要するのか?
産業のシステムであり、国の体制が、それを押し付けてくるのだ。
どれほど結果(報酬)の得られることが少なくとも、それに全く結びつかないことさえあっても、競争を、そのための努力を、したがってこの現行のシステムのための献身を、決して怠ってはならない。
「努力の結果」などを求めるのは、エゴイズムであり、この社会のシステムへの、また国家への反逆者である。
とにかく競争せよ、そして奉仕せよ。見返りは何も求めるな。競争と奉仕こそが、お前の幸福であり、存在の意味だ。
僕はそこに、小さな個々人の生というものへの、欲望や夢や感情や生存それ自体を含めた、個々の生そのものへの、圧倒的な暴力と愚弄を感じる。
無論、自分自身もそれに加担しているということを含めて。
産業システムや国家体制の根底にある思想的フレームワークが、「努力と結果」を求めてくるから、AKB48はそれに反旗を翻したわけだ。
「努力と結果に囚われないことが、お前の幸福であり、存在の意味だ。」が正しい理解だ。
つまるところ、「結果のみにとらわれて努力をすることは、この世界で最も愚かなことだ。」というサイババ(笑)の言葉が適切だ。
努力を、合理性から解き放ち、人間が原始的に持っている真善美に働きかける要素として訴えかける。
これは、決して暴力などではなく、人間の尊厳を最大化する試みでもある。
「努力と結果」というイデオロギーから脱却し、己の「道」へとつながるチャネルが「AKB48」なのである。
人生は「道」だ。
そして、それこそが「マジ」なのである。
と、考えようという話ね。
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命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ = 自分の最大化
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/501074afa7200ae4a03732f073f12c61
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。
此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして 国家の大業は成し得られぬなり
(西郷隆盛)
此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして 国家の大業は成し得られぬなり
(西郷隆盛)
「努力は必ず報われる」 高橋みなみ道
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/63fc307f92313690d76a5205a2b94607
どこへ向かえばいいのか、事前にわかっているなら、努力のしようもあるが、
ほとんどの悩みは、どうしたらよいのかわからない、ということからくる。
そして人生にありふれているものといえば、その類の悩みだ。
努力する気持ちを持っているなら、それだけで幸せなことだ。
しかし、もっと幸せな努力がある。
それは「道」である。
「努力ができる人」という意味で、「努力の天才」という言葉が使われることがある。
それは間違いだ。
努力をするのに天才も馬鹿もない。
違うのだ。
前述したように、普通、努力は「事前に想定した、ある特定の目的を達成する」ために行われる活動だ。
しかし、多くの人は、目的すら持っていない。
いや、
この相対的な宇宙の中では、絶対的な価値などないのだから、
どんな目的も冷静に考えれば全てその瞬間に泡になって消えてしまうものばかりなのだ。
本当の意味で意味のある目的なんてない。
だから「道(みち)」なのだ。
(タオでもいいけど)
道には、終わりがない、明確な目的もない。
ただ極めるようとするところに意味がある。
柔道、剣道、茶道、華道、アイドル道、etc...
努力というのは結果を約束するものではない。
「事前に想定した、ある特定の目的を達成すること」=「報われる」としてしまうと、
目的のない者にとって、人生は突然、無意味なものになる。
だが、人生を道だと捉えると、すっと「生きる」が心に入ってくるだろう。
人生は軽快で華やかになる。
目的がなくても、その道を極めるために努力ができる。
幸せだ。
どうしたらよいのかわからないのが人生だとしても、
なんら恐れる必要はない。
人生は道だ。
「高橋みなみ道」とかけて「努力は必ず報われる」ととく、
その心は、「人生は道」だから。
高橋みなみの努力、原みづきの努力、やすす先生の努力 ~努力と競争戦略と学習のトリレンマ~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/955b300923bbc4c6a1a256fab4a5c0df
不確実性で表現される未来というのは、単に「わからない」というレベルなのではなく、未来は本質的に「未知」なのである。
どれだけ将来予測のパラメータを増やしたとしても、そのパラメータの有効性自体が保証できないのだから、過去のパラメータから完全には予測できないものが未来なのである。
という意味で、未来は本質的に「未知」であり、不確実なのである。
(どれだけ優秀なスーパーコンピュータがあっても未来は予測できませんよ。と考えてもらってよい。この発想自体を証明することはできないが)
とはいえ、では我々が努力の報われ方を、どのように考えるべきなのか、という問いについて考えておくべきであろう。
努力の報われ方を知るための手段は、「経験」と「学習」しかない。
最も力強い学習は直接的な経験から得られる。
経験のない者に「理解しろ」というのは酷というものである。
(一を聴いて10を知ることができる人は稀である。)
私達が食べることやハイハイをすること、歩くこと、意思を伝達することを学んだのは、直々の試行錯誤、つまり、ある行動をとり、その行動の結果を見て、新たにまた別の行動をとることによってである。
だが、行動の結果を観察できないときには何が起こるだろうか?
行動の結果が表れるのが遠い先のことであったり、私達の営みを含めた、より大きなシステムの遠く離れた部分であったりする場合はどうなるのだろうか。
私たち一人ひとりに「学習の視野」がある。
つまり私たちは、時間的にも空間的にも、ある一定の幅の視界の中で自身の有効性を評価するのだ。
行動の結果が自身の学習の視野を超えたところに生じる時、直接的な経験から学ぶことが不可能になる。
ここに我々の前に立ちはだかる学習ジレンマの核心がある。
私たちにとって最善の学習は経験を通じた学習なのだが、多くの場合最も重要な意思決定がもたらす結果を私たちが直接に経験できないのだ
非常に重要な意思決定は、数年あるいは数十年にもわたって続く結果をもたらす。
たとえば、今日、学校でトイレ掃除をすることの意味を感じることができるのは、20年後、親となり子供の教育について考える時かもしれない。
たとえば、基礎的な研究開発における意思決定は、その結果を表すのに10年以上かかるかもしれない。
私たちは「学習の視野」を広げること、または「学習の視野」を超える視座を獲得することはできるのだろうか。
どのような方法によって、それが可能になるのか、当Blogでは考えていきたい。
努力とは何か
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/41d467943e58f7ecfb1f4a6f09805542
努力は嘘をつかない
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/efe787789cd71820e94b2b7dc1f5e24d
NMB48城恵理子卒業 城に100点満点を贈る
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/760bd79d88a27ff5d4126989a1435dd0
コメントありがとうございます。
「AKB48批判」は当Blogの餌ですからね!(笑)
>小林よしのりさん
やりあうにしても、争点が必要ですよね。
私は、彼の考えと異なる考えを持っていますが、でも彼のAKB48ファンとしての考えについては賛同できます。
『AKB48白熱論争』を読んだ時も、1人のファンの意見として傾聴に値する考えだと思いましたね。
(小林さんだけではなく、みんなよかったですよ)
彼がAKB48について発信する内容については、いつも楽しませてもらっております。
あまり深く首をつっこまないのが吉です(笑)
コメントありがとうございます。
>残酷ショー
なるほど。
忘れてはならない視点だと思います。
人は、油断すると本質から逸脱してしまう生き物で、たまにそれに気づいては原点回帰といって気を取り直すものですよね。
何事においても、冷静さは失わないように常に自戒するべきです。
しかしながら、それと同時に重要だと思うのは、私は、残酷なのはAKB48ではなく、「現実」の方だと思うのです。
「現実」というのは、好き嫌いに関係なく、幸不幸に関係なく、否応なしに迫ってくるものです。
現実を否認するのか、受け入れるのか、私達の前には常に選択肢が突きつけられています。
もちろん無視することもできるし、誤魔化すことも可能です。
その現実を、どう受け止めて、どう理解し、どう活かすか。
これは、AKB48に関係するすべてのスタッフ、メンバー、ファンに委ねられていることなのだと思います。
「残酷ショー」と取るのか、それともそれとは異なる解釈が可能なのか。
そして、それはその時だけで終わるものでもありません。
再帰的に繰り返し突きつけられる問いです。
人それぞれに答えがあります。
今、残酷ショーだとして、ではそれは今後どうなっていくのか。
どうしていくのか。
唯一つだけ、主張したいことは、答えはいつでもアップデートできるということです。
非常に観念的なお話になってしまいましたね(笑)
小林よしりんとやりあったら面白そう。
勝手を言ってすみません(^-^;
主さんに賛成。AKBが打ち出すメッセージに、背中を押されている一人の人間として。
ただ、残酷ショーの一面からは目をそらしてはならない、と心に刻んでおこうと思います。