ゆとりの大罪
http://anond.hatelabo.jp/20111024123904
私は、このリンク先の文章を読んで、「ゆとり」の何が悪いのかさっぱりわからない。
この文章の中で語られている要点を整理してみる。
・当人は「お菓子を買って来て」という言葉通りに要求を受け取った。
・ロールケーキはお菓子だから要求通りのはずである。
・しかし、要求を出した側は、お菓子にロールケーキが含まれるとは考えていない。
つまり、要求者と被要求者は「お菓子」という定義を共有していない。
片方はお菓子にロールケーキは含まれないと考えていて、もう片方はお菓子に関する制限はないと思っている。
お互いに共有している定義が異なるのだから、問題が起きてもおかしくない。
この話の問題点はこうだ。
(1) 「大事なお客さんへ持っていくお土産用のお菓子」に関する暗黙の了解を共有していない。
(2) わからなければ要求者かもしくは第3者に質問するなり相談するなりして確認すればよいが、当人はその必要性に気づけなかった。
(3) なぜなら「お菓子を買って来て」のメッセージに含意があるとは思わなかったから。
(4) (1)に戻る。
被要求者からすれば、「"適切なお菓子"というものがあれば、先に言ってくれればよいのに」という気持ちだろう。
要求事項に含めてくれれば問題は起きなかったかもしれない。
「○○を買いなさい」かもしくは「△△を買ってはいけません」かだ。
被要求者の立場からすると「言ってくれればできた。」と言いたいかもしれない。
事実、言わなければわからないことも数多くある。
しかし、要求者の立場からすると、いちいち全てのことを言わなければならなかったら、それは自分でやることと変わらないのだ。
そもそも分業とは、お互いに役割を分担することである。
相手の役割の全てについて自分が管理していたら分業の意味が無い。
自分の分身として育てるという目的以外で、自分と同じように相手を管理するのはコストの面からいって意味が無い。
相手に任せる部分がないと分業が成立しないのだ。
だが、分業をするにあたってお互いに安心して任せることのできる関係でないと、分業もままならない。
どうやって分業を実現するかといったところで、水平分業やら垂直統合やらという話が出てくるのだが、面倒なので説明を省略する。
要は、日本的組織によくあるのが価値基準を濃密に共有することで、コミュニケーション・コストを低減させ、意思疎通を図り分業を可能とするのだ。
すり合わせアーキテクチャと呼んだりする。
だから、この場合の根本的問題は、価値基準を共有していない、これに尽きるのだ。
では、なぜ価値基準を共有していないのか。
もしくは、価値基準を共有しなければいけないと思っていないのか。
(価値基準を共有していなくても、価値基準を共有しなければと思っていれば、何か理解すべきことがあるかもしれないと思える)
その理由が「ゆとり」ならば、「ゆとり」が原因だろうが、おそらく違う。
すみませんが、疲れて眠いのでまた今度にします。