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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

「反日」を解決する方法について考えよう。世界戦略を考える手前で

2010-10-20 11:19:34 | 政治
原因や理由を断定するのは危険だということは百も承知ですけれど、
話の単純化のために、割り切った話をします。

多くの日本人(特に若者)には想像し難いと思うけれども、
政治的混乱の大きな理由の一つは「貧困」と「不公平感」です。
貧しい人々は活路を求めて行動を起こす。
これは世の常であり、それが多少過激だからといって
貧しい人を責めるのはあまり生産的なやり方ではありません。

なぜなら、彼らが行動を起こす原理と、
彼らに論理的正当性や整合性があるかというのは関係ないことだからです。
彼らが求めるのは「人生」のようなものです。
「あなたは○○だから人生を諦めろ。」と言われて納得されますか?
それがどれだけ論理的に正しくとも、無理でしょう。

もし、周囲の全てが貧困状態であるならば窮状を訴える相手が存在しないわけで、
その場合「人生とはそんなものだ。」と思えるかもしれません。
実際、原始人はそうやって生きてきたと思います。

問題は、今が原始時代ではないということです。
我々は、否応なしに富める者が存在することを知ってしまう。
そして、富める者が楽をして富を手に入れたと考えるのは浅はかですが、
しかし、そういう側面ばかりに注目してしまうというのもまた事実です。
富の蓄積が可能になったことは経済発展の礎でもありますが、
それと同時に既得権益者を作り出してしまった。
我々は生まれながらにして、
不公平感を感じやすい世界に身を置いてしまっていると言えます。

当Blogで紹介した『超ヤバい経済学』にこんな話があります。
ある複数の地域の犯罪率を調査すると面白いことがわかったというのです。
TVの普及率と犯罪率に有意な相関が見られるのです。
(本の中では同時にTVの普及率が男女格差の解消にも影響することが述べられています。)
もちろん、TVの普及率だけで社会を語れるはずもありません。
しかし、これは非常に重要な観点を我々に提供していると思います。

私はこう思います。
TVで放映されるコンテンツが人々の行動様式を変えたのではなく、
TVが「人々と社会を繋ぐ情報の窓口」になったため、
「人々」と「社会」の関係性を変えてしまったのだと。

「人々」と「社会」の「接点」が変化してしまったために、
これまでの接点からもたらされる情報と、
今の接点からもたらされる情報との間に差異が生じ、
「人々」と「社会」の「関係」が変化してしまったのです。

その変化とは、不公平感を感じやすくなったということです。
先日取り上げた『競争と公平間』で述べられているように、
実社会は平等でもなければ公平でもありません。
人間を生物学的に見えても平等とは言い切れない要素は多々あります。
要は、知らなくてもよかった情報を知ってしまった。
パンドラの箱を開けてしまったのです。

以上をわかった上で、例えば、反日デモが頻発する中国を見てみましょう。

この件に関しては、既に多くの両国の識者が述べているように、
この「反日」は、実は「反政府」の派生です。
多くの中国人の根本にあるのは上で述べたように「貧困」と「不公平感」なのです。

中国政府は共産党政府ですが、その共産党というのは、
もとは貧しい農民達のための共産主義を唱えたところから始まっています。
都市部の富裕層を排斥し、革命を起こすことが当初の目的であるため、
共産党の権力基盤はなといっても、圧倒的多数の貧しい人々になります。
ゆえに共産党政府は「貧困」と「不公平感」をむしろ利用する側であって、
この非常に「反政府」と結びつきやすい国民感情をうまくコントロールする必要があります。
日本という仮想敵を作り上げることでなんとか回避しているのです。

しかし、中国も文化大革命の傷が癒え、目覚しい経済発展を遂げるようになると、
一部の富裕層が生まれてきます。
共産党としては皆が豊かになることを目的としているのですが、
そのためには、中国という国が豊かになるためには、
市場原理を取り込んで先行的に豊かになる人々、
もっとわかりやすくいえば格差を認めなければなりません。
これは、共産党のもともとの目的と矛盾してしまうのです。
しかしながら、それでも皆が豊かになることを目指さずにはいられません。
皆が貧しくなれば、今は反日で済んでいる騒動が反政府に向かってしまう可能性があるからです。

このため、現在の中国政府の問題意識としては、
どうやって、この内部矛盾をうまく解いていく作業を進めるか、
ソフトランディングによる政治改革をどうやって実現するのかということになるわけです。

世界的な中国のイメージというと「狡猾」「拝金主義」「自己中心的」などがありますが、
中国政府もまた、これらの人々とうまく付き合っていかなければならないのです。
一つ政治判断を誤れば、政治体制が瓦解してしまう緊張感があるのです。
日本のように総理大臣が頻繁に変わるゆるい政治運営は許されないのであり、
どうしても、強権的な姿勢を取らざるを得ません。

中国国内の政治闘争が国外にも染み出てきているというお話もありますが、
いずれにしても、中国の政治指導者は、
既得権益者ぶった態度を国民に見せるわけにはいかず、
共産的であることが求められてしまうのです。

よって、もし日本が中国に対して影響力を持ったパートナーとして
戦略的互恵関係を構築することを望むのであれば、取るべき戦略は明らかです。
中国の「貧困」と「不公平感」を解決するソリューションを示すことです。
もちろん、日本国内の問題も解決できないのに中国国内の問題に精を出すとはと
批判されることはわかっております。
しかし、これは大局的にみれば日本の問題でもあるのです。
誇りや筋の問題もわかりますが、
ここれは冷静に自分達の利益のために、どうすべきか考えてみるのがよいのではないでしょうか。

具体論が欠けているというご批判が出ることは、
想定した上でのエントリということでお許し頂きたい。

『競争と公平感』 市場との付き合い方を知らない日本人

2010-10-20 00:47:22 | TV・書籍
『競争と公平感』(大竹 文雄 (著) )

本書は「週刊東洋経済」2010年上期 経済書・政治書ベスト2位にランクインしている。
評価を得るに値する本なのは間違いない。
特に、第1章の「競争嫌いの日本人」の中で語られている
日本人が「市場」や「国による再分配」をどう考えているかというくだりは、
今後様々なところで引き合いに出される事になるであろう。
(実際、いろんなところで耳にする)

だが、私はこの本を読み終えて紹介予定本としてスタックに積んだのだが、
どうにも筆を進めることができず、実際にこうしてエントリ化するのに非常に時間がかかった。
なぜかというと、この本で取り扱っている「公平」というテーマがあまりに壮大過ぎるからである。
「公平」に関する自分の立ち位置を明らかにすることができるかどうかが悩みだった。
著者が思い切って自説を並び立ててくれれば、まだ私の意見も表明しやすいのだが、
この本は、著者の誠実さがよく出ており、「公平」について無理な解答を用意していない。
それがこの本の良さでもあり、悪さでもある。

ただ、「公平」の問題がやっかいなのは、壮大というだけでなく日本における今日的なテーマであるという点だ。
難しいからといって避けて通ることもできない問題なのである。
議論を躊躇して踏みとどまるよりも、一歩踏み出すことによって得るものの方が大きい。
そんな動機で、今日このエントリを書くことができた。
「公平」に関する議論はこれからも永遠に続くのかもしれないが、
だからこそ皆で話し始めることに意味があるともいえる。
そのキッカケとして、この本は大変役に立つことだろう。

では、内容について少し触れたい。
この本のハイライトは、前述したように第1章にある。

まず、
日本人は、社会主義国家よりも、市場を信用していない。
しかし、それと同時に、
日本人は、アメリカ人よりも、国による再分配も信用していない。
つまるところ、
日本人は、格差を嫌い、格差が発生しない仕組みによって貧困を抑止することが重要だと考えている。

これには、幾つか予想できる理由がある。
まず、
日本人は、人生における成功は、努力に依存するのではなく、運やコネに依存すると考えている。
自分の胸に手を当てて考えて欲しい。
多くの日本人は、成功とは、自分の力とは関係ない他の要素で決まるのだと考えているのだ。
そして、
日本人の多くは、勤労努力をすれば貧困を避けることはできると考えている。
要は、日本人の頭の中では、貧困と怠惰が結びついていて、国による再分配は怠け者を助けることになるのだ。

果たして日本人のこの考え方は正しいのだろうか。
著者は、日本人の市場競争に関する無理解が、この誤まった考えを導くと示唆している。
つまるところ、多くの日本人は、市場と市場との付き合い方を知らないのだ。
(日本が置かれている状況にも理解が足りないということもいえる)
この原因としては、日本の学校教育の問題や、文化的背景も影響していると思われるが、
この本では「公平」に関して多角的に説明しているので是非参照されたい。

私自身、この問題についてどう考えるかというと、
基本的には「負担と利益の関係が見えにくい」というところに
「運やコネ」や「貧者の怠惰」といった思い込みの原因があると思う。
「負担と利益の関係」が見えないために、「公平な負担」を実感することができないのだ。
しかし、これは歴史的に見れば、むしろ責任を分散するための知恵であったとも思え、
一概に「見える化」や「オープン化」が日本における解決に直結するとは言い難い。

やはり、陳腐な言い方になってしまうが、
市場経済の発達とともに、日本人の意識も変わっていかなければならない部分があったのだが、
意識の方に変わらずに残ってしまった部分が多いのではないか。
日本人が構築したシステムがなまじ素晴らしかっただけに、
意識の変革を必要とせずともある水準までの経済発展が可能であった。
これ自体は成功なのだが、しかし、この成功体験が今日の行き詰まりの原因となってしまった。
そうなると、本の紹介といいつつ当Blogの主張と結びついてしまうのだが、
戦後民主主義の功罪ということにならないか。

続きは、この本の内容からはずれてしまうのでやめにしておこう。