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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

理念の力

2011-05-24 10:09:23 | 政治

外交素人なんで適当なエントリです。

やはりアメリカ合衆国というのは「理念の国」だなと改めて感じ入った。
よって、アメリカ合衆国大統領は「理念の人」でなければならない。

理念の方向性が間違うと大変なことになるが、良くも悪くも「理念」を基本としている点は、日本にとって学ぶべき点が多い。
(理念の国を礼賛したいのではなく、学ぶべき部分があるだろうということだ。)

アメリカ大統領ともなると、在任期間に何かを成し遂げなければならないプレッシャーもあるのだろう。
むしろ、何も成し遂げないのなら、何のために大統領になったのか自問自答しなければならない。
この辺りが日本の総理大臣と大きくことなる点だ。
直接選挙で選ばれる大統領と同じ土俵で比較するわけにはいかないが、少し情けなくなる。

さて、私が改めて感じ入った理由はオバマ大統領の中東和平に向けた演説である。
イスラエルのネタニアフだけでなく、ワシントン最強と言われるイスラエル系圧力団体アメリカ・イスラエル公共問題委員会(AIPAC)に乗り込んでいって演説をぶったのである。
アメリカの人口に占めるユダヤ系は3%にあたる約600万人程度と言われるが、その組織力と資金力は他団体に比べかなり強く、政治家一人選挙で落とすくらい簡単にできてしまうらしい。
AIPACはイスラエルの第2外務省と呼ばれるほど政治的組織として機能している。
そのAIPACの総会という敵地に乗り込んでいって、イスラエルに1967年国境を守れと演説するのである。
それで、ブーイングありながらも概ね好意的な反応を掴み取ったというではありませんか。

人口動態や中東情勢の変化からイスラエルの安全保障を説き起こし、国境整備の必然性を納得させるのだ。
恐れ入るとしかいいようがない。
専門家なんかに言わせると、イスラエルとアラブ双方に美味しいことを言うだけ言って実現できずにアメリカの威信を低下させるだけではないかという意見や、最終的にはイスラエルの右翼をアメリカが力で捻じ伏せる覚悟があるのかといった意見があるが、しかし、オバマならやるかもしれん。
そう思わせる何かをこの人は持ってる。

「理念」そのものは善でもなければ悪でもない。
人類の持つ潜在的な力を存分に発揮させる潤滑油になる時もあれば、方向性を間違えば大きな損失を被ることになる時もある。
「バカとハサミは使いよう」という言葉があるけれども、「理念の力」こそ使いようではないかと思う今日この頃です。

悔しいが菅直人の術中に嵌らざるを得ない 浜岡原発議論停止

2011-05-12 18:50:54 | 政治
つぶやきを再構成してお送りします。

私は悔しい。
浜岡に関する議論をすればするほど菅直人の術中に嵌ることになるからだ。

浜岡原発の停止要請に見る、民主党の本質 - (常夏島日記)
http://j.mp/kArENx

[前略]

民主党は、目的が民意に沿うという決意をした場合には、民主的プロセスの中で法解釈を変え、あるいは情報を隠すことにためらいはない、そういう政党です。
「民意に沿う」ことを、全力で、手段を問わずやる政党、それが「民主」党です。

[中略]

いちいち関係者全員のコンセンサスを取っていては、抜本的な改革はできない。民主主義における最終目的は国民の幸せであり最終手段は国民の要請なのだから、為政者(経営者)がこれが正しいとおもうことを手段を問わずやって何が悪い。俺たちはそれで企業経営に成功してきた。とそういうわけです。

その意味において、民主党のやり方は必ずしも否定されるべきものではないわけです。むしろ、自民党的な、あらゆるところでコンセンサスをとりに行く方法が限界にぶち当たって、みんなの自由のわがまま放題を許したが故にみんなの幸せを見失って実現できなくなったからこそ民主党が政権に就いたとも言えます。


民主党が「民意」に根ざした民主主義政党だとしよう。この場合、民主党がどこを向いて「民意」を捉えようとしているかが民主党の在り様を知る上で重要だ。だが、もっと重要なのは基本的姿勢である。「民意」に対して「真摯」であろうとしているかという点である。「マネージャには根本的な素質が必要である。真摯さである。」と言ったのはドラッカーだ。

真摯さという素質を持つ者は、好かれている者よりも尊敬を集める。一流の仕事を要求し、自らにも要求する。基準を高く定め、それを守ることを期待する。何が正しいかだけを考え、誰が正しいかを考えない。真摯さよりも知的な能力を評価したりはしない。

真摯さは、とってつけるわけにはいかない。既に身につけていなければならない。ごまかしがきかない。ともに働けば、その者が真摯であるかどうかは数週間でわかる。部下たちは無知や無能、態度の悪さや頼りなさには、寛大たりうる。だが、真摯さの欠如は許さない。決して許さない。

真摯さという素質を欠く者は、いかに愛想がよく、助けになり、人付き合いがよかろうと、またいかに有能であって聡明であろうと危険である。

無能や無知が問題なのではない。なぜならそれらは何らかの形で補完できるものだからだ。しかし、真摯さの欠如は重大な問題だ。それは補うことができないものだからだ。ドラッカーが組織社会のマネージャの絶対条件として真摯さを挙げた理由は、その欠如を組織の力で無効化できないからである。

浜岡原発停止を「大英断」などと評価してる人は「英断」の意味を知らないのだから全く信用ならない。「英断」とは、大きな犠牲の上にそれでもある目的の為になされる決断を言う。それは「決断」という意味を考えればわかる。「決める」と「諦める」は同義語なのだ。諦める必要がないのであれば決める必要がない。何かを諦めなければならない状況に身を置くからこそ決める必要が出てくるのだ。よってあらゆる政治的決断には犠牲が付き物である。浜岡原発を停止することの犠牲についての説明はあったか。覚悟を持って決断をしたなら、何かを諦めたはずだろう。それは何か。

この諦めた部分の説明にこそリーダーの真摯さは如実に表れる。そこにその者の覚悟も読み取れるのだ。本気で浜岡原発を停止したいと考えたなら、どうして手続きを踏まなかったのか。手続きを踏もうとすれば潰されるからか。混乱を生むのがわかっていて緊急会見で要請しなければならなかったのは何故か。それが唯一停止を実現できる方法と思ったからか。何よりも真摯であろうとしたか。私が不感症だからなのか、菅総理にも枝野官房長官からも真摯さを読み取ることはできなかった。

小幡さんの分析があまりにも核心を突いている。
浜岡について議論しようとしている時点で、私は菅直人のスキームにはまってしまっている。
悔しいことだ。

浜岡原発 天才菅直人(小幡績)
http://agora-web.jp/archives/1324290.html

菅直人が久々に政治家として力を発揮した。

彼ほど徹底したポピュリズムを目指し、かつ人気が上がらない総理は歴史上存在しないが、政治家としての面目躍如だ。

浜岡原発の停止要請は完璧なスキームだ。これを直感で決めたのなら、やはり彼は天才であるし、日本にとって彼は天災だ。

中部電力が抵抗すればするほど、経済界の重鎮が反発すればするほど、自民党や民主党内の良識派が玄人的な批判をすればするほど、彼は英雄になる。既成勢力と戦う革命的運動家として。小泉の手法を野党的に反社会活動家として応用したらこうなる。

これが本来の彼の姿だ。国家に対する反発、アナーキズム。体制というものは破綻させるためにあるのであり、やや混乱した社会における人々の閉塞感の波に乗り、さらに混乱させて権力と戦う英雄になる。

そのスタイルは権力を持っても変わらない。

中部電力も経団連も自民党も、日本経済を真に憂い、日本政治、日本社会の公正な運営を願う人々も、実体のない不安で膨らんだ原発反対ポピュリズムの前では、彼のこのスキームにかなわない。

プロセスを踏まず、総理自身が突然会見するのは、このスキームの最重要ポイントだ。総理一人が孤独に、果敢に戦う姿を大衆に見せ付けなければならない。社説も編集員もそれは既得権益の強いものたち、大衆の敵だ。彼らの批判は彼にとっての快楽だ。

だから、浜岡だけでいい。他の原発を止めれば大衆の生活が眼に見えて苦しくなり、不満が高まる。だからこれだけで必要十分なのだ。原発の安全性などどうでもいい。スリーマイルのような人為的な単純ミスでの事故は気にしない。それは電力会社のせいだから、もう一度、自分がそれを糾弾し英雄になるチャンスが増えるだけのことだ。人々が不安なのは、地震と津波。それだけを利用するのだ。

したがって、私は彼の人気を高めるようなまともな議論は浜岡に関してはしないこととする。

菅さんは決して無能ではない。組織の長として無能なだけだ。

2011-04-14 19:44:27 | 政治
またしてもつぶやきから転載

菅さんについて。
「△△会議」「○○本部」ばかり作るとか「参与」が多すぎるとか批判が多いようです。「何も決められない」というのは確かにその通りなのですが、でも皆さんの菅さん批判を聞いていると、少し違うなと思うところがあります。ちょっとだけ語ります。(いつも通り「誰に?」って感じですが)

菅さんは決して無能ではありません。組織の長として無能なだけです。

菅さんが目指すのは「独善的な政治」ではなく「みんなで知恵を出し合えばよりよい答えが出せる」といったところです。これは一つの政治信念として決して間違ったものではないです。皆さんも平時にはそちらを求めているのではないですか。今は非常事態ですが。

ただ、想像して欲しいのですが、各分野の専門家の意見を集約して何か起こりますかね。起こらないのですねこれが。起こせると思うような人は、組織をマネジメントしたことが無い人なのでしょう。おそらく。

そもそも組織が何のためにあるか考えましょう。簡単に言ってしまうと、ある目的を達成するためですね。目的を達成するための仕組みを作るのがビジネス。そして、その仕組みを利用して組織に成果を上げさせるものがマネジメント。(多分にドラッカー的な話ですが、私はこの事をドラッカーから学んだわけではありません。)

菅さんは「答えを出すこと」が自分の役割だと思っているのかもしれませんね。だから会議や参与が多く必要になるのです。残念ですがこれは勘違いです。今求められているのは「答え」"だけ"ではありません。「組織に成果を上げさせること」"も"求められているのです。

前者は「リーダー」の役割、後者は「マネジメント」の役割です。この違い、この認識が、菅さんに致命的に欠けているものです。ただ菅さんだけを責めるのは酷ですね。多くの人がこれを理解しているとは思えません。

組織に成果を上げさせるためには意見を「集約」するだけではなく「統合」する必要があります。この統合力がマネジメントに求められる能力ですね。でも菅さんは「みんなの意見を引き出す」ことがリーダーの役割だと思い過ぎている。それ自体は間違っていないし重要、しかしそれだけでは足りないのです。

ですから、私は震災直後に、もともと菅さんのマネジメント能力は高くないと思っていたので、災害担当相にマネジメント能力の高い人をアサインし、全権大臣にするべきだと書きました。菅さんはリーダーとして「答え」を求めればよく、組織に成果を上げさせるマネジメントを急ぎ構築すべきだと。

さて、そろそろ結論にしましょう。現在の管政権の迷走ぶりは、決して菅さんの無能さからくるのではありません。菅さんの頭の中でマネジメントについての認識が希薄であるところから来るのです。しかし、それは組織の長として致命的な欠陥です。私は彼の政治信念が間違っているとは思いませんが、ただ野党向きの政治家といえるのではないかと思います。

「語るとか言いながら、結局みんなと同じ意見じゃないか?!」と思ったあなた。まだマネジメントを理解できていません。私は、菅さんが「リーダー」として不向きかどうかなんて話はしていません。私は「組織の長」として向いていないと言ったのです。この違いがわからない人は組織の長をやってはいけません。

組織の長に向いていない人が組織の長をやると、混乱を招いて社会的損失をもたらす可能性が高いです。あらゆる組織が社会的機関だからです。あらゆる組織は社会内存在なのです。

「長期被曝」と「退避」についての考え方

2011-04-12 13:16:08 | 政治
20km圏外でも場所によっては避難エリアに指定される件について、議論が混乱しないように、話を整理しておく必要がある。

まず、今回の避難は「長期被爆」を懸念してのことだ。
今、飯舘村に行ったとしても、放射線量は既に短期的な被曝を気にする必要がない程度に落ちている。
では「長期被曝」とは何か。

原発事故後の長期被曝とは、長寿命放射性核種で汚染された地域に人々が継続して生活している状況での被爆のことで、この被爆は、適切な防護措置を実施することで線量を低減できる被爆である。

原子力緊急事態時の長期被ばく状況における放射線防護の実施と課題(日本原子力研究開発機構 安全研究センター 原子力エネルギー関連施設安全評価研究ユニット)
http://jolissrch-inter.tokai-sc.jaea.go.jp/pdfdata/JAEA-Review-2010-022.pdf

まず、基本的な考え方としては下記がある。


長期被ばく状況での防護措置の導入においては、放射線による健康影響だけではなく社会的・経済的な補償に関する判断を含む多様な観点が混在しているため、状況の正確な記述と適切な対応が困難な状況である。このような状況での判断は、必ずしも科学的及び数量的な根拠だけで正当化することができない。これを正当化する一つの方法として、多様な利害関係者の合意に基づく手続き的な方法が考えられる。


「必ずしも科学的及び数量的な根拠だけで正当化することができない。」
「これを正当化する一つの方法として、多様な利害関係者の合意に基づく手続き的な方法が考えられる。」

このあたりの考え方については、当ブログの『相変わらず人の心を掴む事ができない民主党政府』あたりも参照して欲しい。

次に、あえて語るまでもないが「放射線防護の目的」については下記がある。


3. 長期的な放射線防護措置とその判断基準

3.1. 放射線防護措置の目的

原子力及び放射線緊急事態における防護措置の基本的な目的は、短時間で高線量に達するような厳しい線量率に曝されている個人の確定的影響の防止と、より低い線量率で生ずる確率的影響を可能な限り低くすることである。また、被ばくが長期にわたって継続する場合には社会活動や経済活動の常態への復帰も防護措置の目的の一部である(Hedemann, 2002)...


では、放射線を防護するとして、どのような方法があるだろうか。


3.2. 長期的な放射線防護措置の種類

原子力事故後の時間区分は、事故の発生から放射性物質の放出までの期間、放射性物質の放出から数日程度の期間、及び数週間後以降の期間に分けられる。長期被ばく状況とはこのうち事故から数週間以降の期間のことである。この段階での被ばく経路は、主に、地表面沈着核種による外部被ばく、汚染食物の経口摂取による内部被ばくに加え、地表面から大気中への再浮遊核種の吸入による内部被ばくも含まれている。これらの被ばく経路に対する防護措置には、個人に対して介入することで被ばくを防ぐもの(移転、立入制限)と線源や被ばく経路への措置により被ばくを防ぐもの(除染、飲食物摂取制限)がある。...

(1) 移転
移転とは、地表面に沈着した放射性物質による被ばくを回避するために、汚染地域の住民を非汚染地域へ移動させることである。移転と避難は同様の措置であるが、事故後の導入時期及び退避期間が異なるので、基本的に両者は異なる防護措置である。避難の場合、住民は宿泊施設や学校等の公共施設に一時的に数日間滞在するのみであるが、移転の場合、汚染地域への復帰まで数ヶ月から数年を要する。また、生涯に予想される線量によっては永年的な移転も選択肢の一つとして考えられる。移転には高い放射線回避効果を期待できるが、個人の日常生活や共同体での活動が断絶してしまうため社会的・経済的な混乱や心的なストレスを引き起こす可能性もある。

(2) 汚染地域の除染
汚染地域の除染は、一般的に浄化作業が終了すれば徐々に活動を再開できるため、地域を長期間閉鎖する立入制限や移転よりも混乱の少ない措置である。除染の目的は、汚染された土壌からの被ばくの低減、人や動物への放射性物質の移行の低減、放射性物質の再浮遊や汚染が拡大する可能性の低減である。特に、特定の社会基盤を利用する人々や汚染地域の作業者に関して比較的大きな被ばく低減効果を期待できる。

(3) 飲食物摂取制限・農業対策
事故で環境中に放出された放射性物質が飲食物に移行し、これを摂取することで内部被ばくをもたらす可能性がある。この被ばく経路に対する措置としては、汚染された飲食物の摂取を直接制限する飲食物摂取制限と、汚染された空気、土壌および飲料水から放射性物質が食物連鎖を通して移行することを制限する農業対策などがある。飲食物摂取制限は各食品に対する介入レベルを設けて汚染食品の流通や消費を禁止することで達成できるが、代替食品の供給、加工品や原材料のモニタリング、汚染食品の処分、食品生産者に対する補償等、費用を要する措置である。...


「移転」「汚染地域の除染」「飲食物摂取制限・農業対策」を組み合わせて対応していく必要があるが、先述したように「多様な利害関係者の合意に基づく手続き的な方法」を模索しなければならない。一人ひとりの都合を聞くまでする必要はないが、少なくても一人ひとりに経済的損失のない形での選択肢が与えられなければならない。

そして、政府が介入する程度の話は下記。


3.3. 放射線防護対策の計画と実施

...

3.3.3. 個々の防護措置に関する介入レベル

... ICRP は、Publication 63 の中で約 1 Sv という平均回避線量が移転に対してほとんどいつでも正当とされるレベルとして利用可能であろうと述べている(ICRP, 1991b)。この考え方の根拠については特に述べていないものの、Publication 60(ICRP, 1991a)による職業人の線量限度が 5 年で 100mSv であることを考慮すれば、生涯約 1 Sv の回避線量は生涯を 50 年とした場合の職業人の線量限度に相当し、リスクの観点から移転をほとんど常に正当とするレベルであることは理解できる。しかし、もっと低いレベルでも正当とされる場合もあるだろうし、非常に重大な事故の場合にはこのレベルよりさらに高くなるかもしれないとして、明確な指針は示されていない。移転を含む長期の対策を必要とする状況はきわめて多様であり、事故後の状況を評価できるようになった段階で利用可能な選択肢の中から最良のものを選ぶことが望ましい。しかし、公衆への情報提供と助言が遅れると不安の原因となるので、事前に指針の要綱を作成しておく必要がある。...


「移転を含む長期の対策を必要とする状況はきわめて多様であり、事故後の状況を評価できるようになった段階で利用可能な選択肢の中から最良のものを選ぶことが望ましい。」
「しかし、公衆への情報提供と助言が遅れると不安の原因となるので、事前に指針の要綱を作成しておく必要がある。」

対応が後手に回ってしまい、不安を増大させてしまったことが今回の最大の問題であろう。

相変わらず人の心を掴む事ができない民主党政府

2011-04-12 12:46:10 | 政治
飯舘村をはじめとした福島第一原発から半径20km圏外の自治体も避難の対象になった。
他の場面でも感じるのだが、ここに来て政府の対応のあり方が変わってきている気がする。
当初は組織内部の責任論や縦割り構造の硬直性などが前面に出ていたのだが、ここに来て現実を直視するようになり、本当の意味で組織全体で解決に向けて動き始めている、1ヶ月経ってこなれて来たのではないだろうか。
しかし、相変わらず政府の対応はガサツだ。

4月5日のTweetより。

(理科もよくわからないという人向け)
放射線量に関する摂取制限量についての考え方。こう考えればきっとわかりやすい。 このページから転載します。

http://bit.ly/heDjqX

食塩(塩化ナトリウム)というのは、実は危険な物質です。そのLD50(半数致死量)は、体重60kgの人だと180~210gです。もし200gの食塩をいっぺんに摂取したら、50%ぐらいの確率で死に至るでしょう。

厚生労働省は、日本人の食塩摂取量の目安を、成人で1日10g未満と定めています。1日に10gぐらいまでなら、食塩を摂取しても害はないというわけです。

塩だろうと砂糖だろうと水だろうと酸素だろうと光だろうと、多すぎれば人間に害を及ぼします。その点では放射線も同じです。「すべての物質は毒であり、毒でないものは存在しない。毒と薬の違いはその用量による」by パラケルスス(錬金術師)


放射線量率についても塩と同じ考え方をしてみませんか。気が楽になると思いますよ。

飯舘村について。

相変わらず議論が迷走しているので昨日の塩と放射線の話の補足する。基本的に行政機関の行動指針は「基準」である(その場の気分で判断されても嫌でしょ?)。ゆえに「基準」が誤っていない限り、放射線量に基づく判断に恣意性が入っているのではと疑うのは誤り。問題はそこではない。

食塩の1日の摂取量10gが安全基準としても、だからといって全員に10gまでは「摂取しろ」とは言えない。健康状態によって摂取を控えたい人もいれば、嗜好の問題で塩分が嫌いな人もいる。または、ここ数日塩分と取り過ぎたので今日は控えたい人もいるだろう。それが健康上影響のないレベルかどうかに関わらずだ。

人それぞれの考え方によって決めればよいが、こう考えたらいいと思う。あなたが誰かに料理を振舞う時「どういう料理を作ってあげたいか」という気持ちになってみることだ。健康被害がないから避難する必要がある/ないという観点ではなく、飯舘村の人たちにどうしてあげたいかで決めればいい

行政府は基準で動くべきだが、このような弾力的運用ができるのが政治だろう。なんのための政治主導なのだ。人間の心とは、そういう気持ちで動くものだ。人をマネジメントしたことのない人たちが行政府(官邸)の幹部なので理解できないのかもしれない。

こんな政府に人の心がつかめるわけがない。少し不謹慎な言い方かもしれないが、民主党政府はせっかくのチャンスを逃した。

ちなみに、織田信長は武士ゆえに塩分の濃い料理が好きだった。貴族向けの塩分の薄い京料理を不味いと罵り、田舎料理を好んだとされる。信長に憧れる人は塩分濃い料理を食べてみるのもいいだろう。

政府は震災復興に対する哲学を示せ!!

2011-04-08 18:55:34 | 政治
実に本質的な問い。
この記事が本当の話かどうかは関係がない。
ここに書かれていることは、我々に致命的に欠けているものを表している。
今こそ、日本人は本来のビジネスを理解する時だ。
この意味を理解できなければ、本当の意味での復興は有り得ない。

頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。
http://anond.hatelabo.jp/20110407001402

 知らないやつに、馬鹿みたいに「頑張って」とか「大丈夫」とか言われると、

 今は正直、消えてほしくなるよ。

 募金は嬉しいよ。で、ボランティアじゃなくて、ビジネスで、仕事として、

 町を復興に来てくれた方が、こっちも気兼ねなく色々頼めて気が楽。

 正直、ボランティアに「ありがとう」とか言うのも苦痛。」


被災者を本当に助けたいと思っているなら、被災者と支援者との間にWin-Winの関係を!
そして彼らに生き甲斐を!

声を大にして何度でも言う。

ビジネスとは、社会のニーズを事業上の機会に変換することであり、
またマネジメントとは、人の強みを生産的なものとすることである。

(ドラッカー)


政府は震災復興に対する哲学を示せ!!

安易な権力集中に関する議論は「隷従への道」

2011-04-05 13:52:05 | 政治
政府(官邸)のリーダーシップ欠如の問題について。危機管理体制としての権限集中議論を性急に進めることは危険である。この議論を安易に進めてしまうことは、過去の人類の経験を無にする如き所業だ。歴史から何も学んでいないと言わざるを得ない。

「権限」と「責任」は常に表裏一体で、組でなければならない。ドラッカーの言うように「権限を越えた責任、および責任を超えた権限は、どちらも権力の暴走(専制)を招く。」

責任を超えた権限は無責任を呼び込み、権限を越えた責任は相手の無責任を呼び込む。無責任は権限の暴走を止められない。

平時に効率のよい分権的な仕組みが、非常時の特に速度が求められる場合には適さない場合がある。このため通常は非常時に備えて、予め非常事態体制を決めておく。決めておかなかったとして、それを挽回するために性急に体制を組むことは危険だ。必ず「権限」と「責任」を組で議論しなければならない。

人は想いの外、支配されたい生き物である。

起こる結果は異なっても、その原理は同じであるという本質的な点に着目できるかどうかだ。「今の日本でそんなことは・・」と思う人はとても危ない。

「戦争」を「震災」に置き換えてご覧頂きたい。
ハイエク:従属への道


隷従への道


今後は復興のコストを何らかの形で負担せざるを得なくなる(政局化注意)

2011-04-04 20:17:46 | 政治
新しい年度になった。
そして、震災から3週間が過ぎた。
被災地の救援や復興、福島の原発事故は言うまでもないが、東電管内で発生している電力供給量不足の問題も現在も進行中の大問題だ。
ここ数日間、計画停電を回避できていることから、人々の行動もかなり落ち着きを取り戻してきているが、問題が去ったわけではない。

復興プランを練らねばならないが、忘れてはならないことは、それは決してバラ色のものにはならないことだ。
今回の震災で失われた経済的損失はボディーブローのように徐々に効いてくる。
今はまだ顕在化していない問題が山のようにあるはずだ。

(取り越し苦労はよくないが)
ただ、間違いなく覚悟しておいた方がよいことは、今後は「負担」を求められることが多くなるだろうということだ。
非被災地の人々が、今のように被災地へ与えるだけでは済まされない。
復興のコストを何らかの形で負担せざるを得なくなる。
それがまだ完全には見えていないことと、シナリオが描かれていないことが問題ではあるが、これまでの生活を続けられる保証はない。
様々な思惑が交錯する中、混乱する形で議論が交わされる可能性がある。

たとえば、電気料金がそのひとつだろう。
同じ電気料金の引き上げでも、様々な動機に基づくものがあり、一概には判断できない。
そして、これは大いに政局化されそうな話題でもある。
注意して見ていく必要がある。
泥仕合になることだけは避けたいものだ。


東電、原発危機乗り切きれる財務力が焦点に(The Wall Street Journal)
http://jp.wsj.com/Japan/Companies/node_215640


[前略]

世界最大の民間公益企業である東電は、昨年末時点の手元流動性が総額6770億円だった。また、東日本大震災後、東電は複数の銀行から総額1兆9000億円の緊急融資を受けたばかり。CLSAアジアパシフィック・マーケッツのアナリスト、ペン・ボワーズ氏は、「東電は2兆円規模の融資を受け、財務面ではあと1年は大丈夫だろう」との見方を示した。

[中略]

東電にとっての最も喫緊の問題は、燃料コストにいかに対処し、いかに迅速にそのコストを消費者に転嫁できるかだ。バンク・オブ・アメリカ・メリルリンチは調査リポートで、「東電は最終的には燃料コストの増加分を利用者に転嫁できるだろうが、それには時間差がある。燃料コストの増加分は5000億~6000億円とみられる」と指摘した。

 CLSAのボワーズ氏は、「供給元にとって懸念となりかねないカウンターパーティー・リスク認識」のために、東電は液化天然ガス(LNG)などの燃料のスポット(随時契約)確保に苦戦する可能性があるとの見方を示した。


現在、東日本大震災を機に発生した東電管内の電力の供給力不足を補うために、火力発電やガスタービンを全力で動かしているわけだが、当然ながら燃料費がかさむ。
燃料コストの増加分、つまり電気料金へ転嫁される可能性のある分は、5000億~6000億円程度と予想されているようだ。

この件に関して、電気料金の値上げ致し方なしという主張がある。
それに対して、河野太郎氏が使用済燃料再処理等積立金(2兆円超)などの積み立てを取り崩すべきだと主張している。

大臣が電力料金値上げを口走る前(河野太郎)
http://www.taro.org/2011/04/post-972.php


原子力環境整備促進・資金管理センターという天下り団体がある。専務理事は経産省の天下り、10人の評議員のうち8人は電力又は原子力村出身。

この団体に、電力業界は3兆円を超えるお金を積み立てている。そのうち使用済燃料再処理等積立金には6年間で2兆4491億円を積み立てた。この約4割は東京電力が消費者から徴収したお金だ。法律を変えれば、この積立金を福島原発の損害賠償に使うことができる。電気料金の値上げなどを大臣が口走る前にやれることはたくさんある。

これは再処理に使うお金だ云々と言うかもしれないが、これだけの事故を引き起こして、まだ新規立地を進めるのか。もんじゅのこの現状を目の当たりにして、まだ、再処理を進めるのか。絵空事を言う前に、きちんと損害賠償を行わせるべきだ。

もちろんこれに加えて、電力会社は社内に数々の引当金を積み立てている。

責任を持って、政府が電力会社の賠償能力を明確にすべきではないか。


これとは別に、計画停電を回避するために価格メカニズムを用いるという観点での電気料金引き上げがある。
これは燃料コストを負担するための料金引き上げではないので、話を混同しないようにしたい。
また、徴収した料金の使途を明確にしておく必要はある。

計画停電を回避できる 料金引き上げの目安は、3.5倍 (野口悠紀雄)
http://diamond.jp/articles/-/11673


政府は計画停電から総量規制の方向に舵を切ったが、総量規制には統制経済の色が濃く出てくる。
野口氏は「重要度の恣意的判定こそ統制権力の源」と、この1940年体制に酷似した制度に疑問符を投げかける。
この混乱の最中のどさくさに紛れて自己権益を拡大する輩も多いだろうから、国民の目をよくよく光らせておく必要があるだろう。

統制経済の復活を許してはならない (野口悠紀雄)
http://diamond.jp/articles/-/11707

物資不足も買いだめも法的な不備が問題ではない、リーダーシップの欠如の問題だ

2011-03-17 15:25:08 | 政治
ついに出た。
大げさかもしれないが、これは「国家総動員法」の復活に繋がる危険な話。

枝野長官、買いだめに「法的、強制的な対応を検討」(asahi.com)
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103170274.html

今の時点でたいしたことないと思うかもしれないが、日本社会の特徴として、社会的な協力ができない人を抑え込もうとする空気ができてしまうと怖い。
変な翼賛体勢ができてしまう前に、こういう話はやめといた方がいい。

法的な対応を考えるよりも、政府が復活シナリオを示せば済む話。
現状、消費できる量が増えるわけでもなく、供給量もさほど減っていないのだから、買いだめはいずれ止まる。
疎開騒ぎも放射線騒ぎの落ち着く10日以内におさまるだろう。
マスコミという拡声器がどれだけ騒ぐかにもよるが。
また前にも述べたが、福島原発が落ち着いても、次にマスコミはガイガーカウンターを使ってありとあらゆるところを計測して国と東電を責め続けるので、10日といえるかは微妙なところだ。

話を戻そう。
被災地へ回したい物資が入手できない、届けることができないというのは、法的な不備ではなく、政府のリーダーシップの欠如の問題だ。
マネジメント力の無さを法的な強制力で解決しようとするところに、根本的な問題を無視する姿勢があって、この姿勢そのものが今の政府の無責任さを示している。


今回の地震発生後の混乱の多くの部分が政府の「マネジメント力の無さ」これに尽きる。
現在の民主党政権幹部には「マネジメント」を理解しているメンバーがほとんどいないことが問題だ。

【追記】
全てを政府の失敗に押し付けていると勘違いされたくないので追記。

完全な市場が存在しない以上、市場は失敗するものだ。
調整機能を十分に果たすことができないことがある。
市場が調整機能を十分に果たすことができない場合、行政府が介入することによって問題の肥大化や発生を抑えることができることもある。
もちろん、介入の内容によって問題をいたずらに大きくしたり、市場の機能を損ねたりする場合もあるだろうから、介入手段や時期については慎重な検討が必要だ。

今回の場合、市場が一部で混乱しており、そのことが問題を大きくしており、政府の不作為が続けば、時間が経つにつれ被害が増大していく。
よって、政府は直ちに協力に介入すべきだ。
ただし、その方法は法律などの制定などによる強制的な介入ではなく、人々を導き、また人々を導くことによって問題を解決することを目的とした介入でなければならない。

どんな世界でも、混乱し迷走する中で希望を持つために最も重要なのは「リーダーシップ」であり、また混乱時に人々の心を最もひきつけるのもまた「リーダーシップ」である。
人間が最後の最後で頼るのは、「法律」や「恐怖」などではなく「リーダーシップ」なのである。

しかし「リーダーシップ」は天性の資質でもある。
ある程度は経験や訓練によって身につけることができるが、最後の最後は才能だ。
(これはドラッカーも自身の体験から同様のことを言っている。)
心の底から骨の髄まで「リーダーシップ」なるものを理解できるか否かは心根の問題なのだ。

自分に「リーダーシップ」がないと感じるのであれば、強烈なリーダーシップを持つ人材を災害担当大臣に任命すると同時に全行政組織を統合する災害対策統合本部の本部長に任命し、全権委任することだ。

それが総理大臣にできる最大で最高の仕事である。

民主党政府はマネジメント力を発揮せよ

2011-03-15 10:06:40 | 政治
対応が遅すぎるし、内容も不十分だ。

鉄道対象外に、東電と鉄道各社が合意 運休や区間短縮条件 (産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110315/biz11031502310001-n1.htm

今回の地震が日本経済に必要以上に大きな打撃を与えているのは、電力供給が間に合わず、首都圏の機能が復帰しないからだ。
特に問題は電車が通常通り復帰しないことだ。
こういう時こそ政治判断で「選択と集中」をすべきだ。
経済活動が停止すれば、被害は大きくなる。

こういう市場の調整機能が機能しにくくなっている異常事態の場合、今後の被害をいかに小さくするかという観点で政府が介入して、犠牲になるエリアや分野を決めて行動に移すべきだ。

原発事故についての情報管理や対策も後手後手過ぎるし、民主党政府はマネジメント能力が無さ過ぎる!
こういう自律的な調整機能が働かない異常事態こそリーダーの真価が問われる。
リーダーがマネジメント能力を発揮しないとコーディネーションの失敗があらゆるところで起きて、潜在力を発揮できないまま損失が大きくなるばかりだ!!

「国家の政策の最終責任者は国民以外に有りえない」という基本に立ち返って考えて見る

2011-03-10 17:25:07 | 政治
http://anond.hatelabo.jp/20110309013650


[前略]

以上、あくまで政治制度論からの回答ですが、結論としては、

「日本の政治制度は大枠としてはごく標準的なもの。それが上手く行かないなら、制度大枠に起因する本質的な欠陥ではなく、日本特有の事情による欠陥と考えた方が良い」

ということになると思います。(その特有の事情って何だ?という話は政治制度論の範疇を超えますので、ここでは省略させてください)

もし「ねじれ」のような問題を解消するなら、制度論から言っての解決策自体はいくつもあって、例えば

・狭義の「制度」面からの解消→イギリス流に実質的一院制にしてしまう。

(自由主義的民主国家において最も行政府が強力となる政治制度は大統領制ではありません。議院内閣制&一院制の組み合わせになります)

・運用面による解消→アメリカ流に各党が党議拘束を外し、個別の議論で成否を競う。

の2つの方法なんかは、二大政党との相性に100年以上の実績があります。日本の国会の「ねじれ」については制度の大枠の問題、運用面での政治行動の実態の問題、の双方が重なったゆえに生じているので、どちらか片方の解消だけで解決するはず、という考え方ですね。

最も前者は憲法改正が必要な点で、後者は政党の内部規定という法律で縛りにくいものである点で、実現可能性が非常に厳しいのですが。


直面している問題は、まさに「制度大枠に起因する本質的な欠陥ではなく、日本特有の事情による欠陥と考えた方が良い」なのであって、それが問題なのだからそれを考えるべきなのだ。

党議拘束を法律的に縛ることは難しいので、仕組みとして根本的に党議拘束を無意味なものに追い込まないとならない。
それで以前より当Blogで主張しているのは、「衆議院定数の100議席化」と「全国1選挙区制度の設立」である。
国民の代表を選ぶのに選挙区はいらない。
全国で1選挙区にしてこそ国会へダイレクトに国民の意見を反映できる。
実質的な首相公選制にもなる。
選挙区は参議院で考慮すればよい。
議員定数が100になって選挙区が撤廃されると、国会議員は党議拘束なんて聞いてられなくなる。
繰り返しになるので述べないが、その他いろいろなメリットがある。

このアイディアへの反論として主に「独裁のリスク」と「地方軽視」をぶつけられる。
後者は反論になっていないので、主要なテーマは「独裁のリスク」にどう意見するかだ。
基本的には参院の役割をどう定義づけるかによって決まると思う。
しかし、独裁のリスクを抑制すればするほど衆参のねじれの要因となる可能性があるので、あくまでも参院は衆議院へのブレーキの役割程度に抑えなければならない。
つまるところ、「独裁」にしても「ねじれ」にしても衆参の議員を選挙で選ぶ国民の質に依存する話なのだ。

で、いつもの当Blogの主張「国家の政策の最終責任者は国民以外に有りえない」に話が戻るのだが、民度の向上のためには、国民の意見をダイレクトに国政に反映し、責任を国民にとってもらうということが重要になる。

どこかのポイントを変えると一気に全てが変わるというお話ではなく、スパイラルしながら進化していくという王道に立ち戻るしかないのだ。

厚労省が「労働市場の流動化」に反対するわけ

2011-03-09 16:21:08 | 政治
なるほど。
そうかもしれない。

「労働市場の流動化」を阻止することは、表面上、既存の正規社員である労働者と厚労省の利害が一致しているわけか。
個人請負の労働者は何人も知っているが、彼らの年収は非常に高い。
だが、彼らをみて大企業の正社員達が個人請負に転進するかというと、その率はかなり低い。(0ではない。)
リスキーな立場にいるなら別だが、ある程度安定した立場のある人が制御の難しいリスクを背負うことは稀である。
年収が5,6倍違うとなれば話は変わるが、2倍程度では動かない人がほとんどだ。
(実際、隣で仕事をする個人請負の人が倍の年収をもらっていても転進しない人がほとんどだ。)

厚労省が「労働市場の流動化」に反対するわけ(城繁幸)
http://www.j-cast.com/kaisha/2011/03/08089876.html?p=all

厚労省は現状の雇用制度の見直しにきわめて否定的で、派遣業や有期雇用規制によって、これからも従来型の終身雇用制度を維持するとしている。その背後には恐らく、サラリーマンという従順でがっぽり天引きし放題な羊たちを、野に放つことへの恐怖があるのだろう。

仮に労働市場が流動化し、フルタイムの正社員か、従来の非正規雇用かを各人が自由に選べるようになったとする(属人給から職務給になり、転職が不利にならないとする)。

総合職サラリーマンの中には、上記の彼のように個人請負として独立し、より裁量のあるワークスタイルを選択するものが少なくないだろう。いや、もともと終身雇用の保護膜が薄い中小企業の正社員の多くは、2割近い厚生年金保険料の天引きを嫌い、雪崩を打って独立するかもしれない。

つまり、月に10万近く貢いでくれていた物言わぬ羊たちが、突如牙をむき、月1万5000円ちょっとしか老人に貢いでくれなくなってしまうわけだ。

「非正規の厚年加入条件緩和」も規定路線
となると、現行の年金制度はもはや維持不可能だから、税方式、あるいはベーシックインカム等への移行が実現性を増し、最終的には厚労省の手を離れてしまう可能性が高い。

彼らが終身雇用にしがみつく本当の理由はこれだろう。

本来なら、世代間格差を是正し、制度の持続性を維持することで年金制度への信頼性を高めるべきなのに、そういうことには一切手をつけないまま、

「サラリーマンを縛りつけて絞れるだけ絞ってやろう」
という厚労省の姿勢には、あいた口がふさがらない。

日本人を職場に縛りつけて年間30兆円以上もピンハネし続ける厚労省というのは、タコ部屋の大親分みたいなものだろう。

たぶん、彼らはこれから、非正規雇用の厚生年金加入拡大を様々な形で打ち出してくるはずだ。その裏には「もっと若いのをタコ部屋に入れたい」という狙いがあるのだということは、おぼえておいて損はない。



まずは「メア氏講義メモ全文」を読んでみよう

2011-03-09 09:43:30 | 政治
今日の朝、TVをつけたら「ゆすり発言」ばかりがクローズアップされていた。
繰り返し過去のケビン・メア氏の映像が流れ「ゆすりと言った」とか「ゴーヤの生産量は全国の生産量の1/3を占めるから発言は間違っている」とか。
沖縄県民に街角インタビューして「許せない」とか言わせてみたり。

そこで、メア氏の講義メモを読んでみた。
アメリカ側の立場で特におかしなことを言っているようには思えない。
日本のマスコミは相変わらずメディア・ヤクザだな。
どうしてこんなメディアが支持され続けるのか。
わからない。

メア氏講義メモ全文(日本語訳)(琉球新報)

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-174366-storytopic-3.html


ケビン・メア米国務省日本部長(前在沖米総領事)が昨年12月、米国務省内で大学生に対して行った講義を記録したメモの全文は以下の通り。

 私は2009年まで在沖米国総領事だった。日本にある米軍基地の半分は、沖縄にあると言われているが、その統計は米軍のみが使用している基地だ。もし日本の自衛隊と米軍が共同使用している基地を考慮すると、沖縄の基地の割合はかなり低い。議論になっている在沖米軍基地は、もともと田んぼの真ん中にあったが、今は街の中にある。沖縄人が、基地の周囲を都市化し、人口を増やしていったからだ。
 在沖米軍基地は地域の安全保障のために存在する。日米安保条約下の日本の義務は基地のために土地を提供することだ。安保の下での日米関係は不均衡で、日本にとっては有利だが、米国にとっては損失だ。米軍が攻撃された場合、日本は米国を守る義務はないが、米国は、日本の国民と財産を守らなければならない。
 集団的自衛権は、憲法問題ではなく、政策の問題だ。
 海兵隊と空軍は、1万8千人ほど沖縄に駐留している。合衆国は二つの理由で沖縄の基地を必要としている。基地が既に沖縄にあるという点と、地理的にも重要な点である。

県民は米国よりも日本に怒り

 (東アジアの地図を指し示しながら)在日米軍は、東京に司令部がある。物流中核の位置にあり、危機が発生した場合、補給と軍の調整ができる。米国の基地として最もロシアに近い三沢基地は冷戦時に重要な基地だった。岩国は韓国からたった30分だ。その上で沖縄の地理的状況は、地域の安全保障に重要である。
 沖縄はかつて独立した王国で、中国に貢ぎ物を献上していた。とはいえ、中国の一部では決してなかった。米国は1972年まで沖縄を占領していた。
 沖縄県民は、米国よりも直接日本に対し怒りを持ち不満を募らせている。民主党政権は沖縄を理解していない。日本政府はコミュニケーションの「パイプ」を沖縄に持っていない。私が沖縄県民にコンタクトを取りたいと依頼したとき、民主党の高官は「ぜひ! ぜひやってください」と言った。まだ自民党の方が、最近の民主党よりも沖縄に通じていて沖縄の懸念について理解していた。
 3分の1の人たちが、軍隊がなければより平和になると信じている。そのような人たちと話をするのは不可能だ。
 2009年の総選挙は、民主党へ力をもたらした。それは日本政府の初めての政権交代だった。鳩山氏は左派の政治家だった。民主党政権で、鳩山総理大臣だったのにもかかわらず、日本とアメリカは5月に2+2(ツー・プラス・ツー)合意を成し遂げた。
 (メア氏は教室を離れ、同僚2人が日米の経済関係について講義した。その後メア氏が戻って講義を再開し、2人は部屋から出て行った)

本土には受け入れる場所ない

 米国は、沖縄における軍事的負担を減らすため8千人の海兵隊を普天間からグアムへと移転させる。この計画は米国が、地域での安全保障や抑止力を保つための軍事的なプレゼンスを維持するものになる。ロードマップの下で、日本政府は移転に必要な資金を提供するとしているが、このことは日本側の明白な努力の証しだ。民主党政権は計画の実行を遅らせてきたが、私は現行案を履行してくれるものと確信している。東京は沖縄の県知事に伝える必要があるのだ。「お金が欲しければ、(移設案に同意し)サインしなさい」と。 ほかに海兵隊を配置する場所はない。民主党は本土での代替施設を提案したが、本土には受け入れる場所がないのだ。日本の「和(調和)」を重んずる文化は意見の一致に基づいている。合意形成は日本文化において重要なものだ。日本人はこれを「合意」と呼ぶ一方、それは「ゆすり」を意味し、彼らは「合意」の文化を「ゆすり」の手段に使っている。合意を模索するとみせかけ、できるだけお金を引き出そうとするのだ。沖縄の人々は日本政府を巧みに操り、ゆすりをかける名人である。

改憲は米国の利益にならない

 沖縄の主要産業は観光業だ。農業もあるが、主要産業は観光業だ。沖縄の人たちはゴーヤーを栽培しているが、他県の栽培量の方が多い。沖縄の人は怠惰すぎて栽培できないからだ。
 沖縄は離婚率、出生率(特に非嫡出子)、度数の高い酒を飲む沖縄文化による飲酒運転率が最も高い。

 日本に行ったら本音と建前に気を付けるべきだ。本音と建前とは、言葉と本当の考えが違うということだ。私が沖縄にいたころ、「普天間飛行場は特別に危険ではない」と話した。沖縄の人たちは、私の事務所の前で発言に抗議した。沖縄の人たちは普天間飛行場が世界で最も危険な飛行場だと主張するが、彼らはそれが本当のことではないと知っている。福岡空港や大阪伊丹空港だって同じように危険だ。
 日本の政治家はいつも本音と建前を使う。沖縄の政治家は東京での交渉で合意しても、沖縄に帰ると合意していないと主張する。日本文化があまりにも本音と建前を重視するので、駐日米国大使や担当者は真実を話すことによって常に批判される。
 米軍と自衛隊は思考方法が違う。米軍は起こり得る展開に対し準備して訓練するが、自衛隊は実際の展開を準備せずに訓練する。たいてい夜間に戦闘が起きている現代の戦争では夜間訓練は必要だが、地元の人は米軍の夜間訓練に反対する。夜間訓練は抑止力維持に不可欠だ。
 私は、日本国憲法の9条が変わるべきだと思わない。私は、そもそも9条が変えられることを疑問に思っている。もし日本が米軍を必要としないことを理由に改憲したのなら、米国にとってよくないことだ。もし改憲したら、米国は米国の利益のために日本の土地を使用することはできなくなるだろう。日本政府が現在、支払っている高いホストネーションサポート(接受国支援)は米国にとって有益だ。私たち米国は日本に関して非常によい取引を得ている。


[つぶやき] おかし過ぎる辞任劇

2011-03-08 15:26:17 | 政治
前原外務大臣辞任、呆れた(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2011/03/post-2bca.html

なぜ前原さんは辞任したのだろうか? その決断自体が単純に謎だ。
 いろいろ想像はできる。小沢さんの手前、政治資金管理の記載ミスでしたから許してねとは言い難いというのもあったかもしれない。菅政権はすでに終わっているから、泥舟から逃げるかなというのもあったかもしれない。中国様もかねて前原外務大臣を変えろというご意向だったのでそれに沿ったスジだったかもしれない。通名による献金を問題化することで、多数の議員への自爆テロ効果か。ああ、なんか理由を考えるだけくだらない。
 私にははっきりしていることがある。普天間問題から逃げたなということである。


今回の辞任劇はあまりにも馬鹿過ぎる。

こんな問題を国会の場で追及する側の知的水準もどうかと思うが、こんな問題を真に受ける側もどうかしている。

こういう問題にどう対処できるかはマネジメントにとって重要な資質で、こんな馬鹿みたいな問題を真に受ける人間はマネジメントに不向きだ。

極東ブログの言うように、実は何かを機会に辞任したかったのではないか?とさえ思う。
鳩山前首相は普天間問題を解決できずに辞めたわけですが、まさか前原氏も?
彼らしくないのでそうは考えたくないが、ちょっと勘ぐってしまう。
何か爆弾を抱えているとかね。

とにかく、この辞任劇はおかしすぎる。
日本における政変の何かの前兆ではないか?

幼児教育への集中投資が明日の日本を創る

2011-02-24 13:48:48 | 政治
既に幾人もの識者が提案しているが、日本は高等教育ではなく幼児教育に投資を集中させるべき。
これは日本の長期戦略を考える上でも最重要項目の内の1つでなければならない。
これを怠れば明日の日本はない。

幼児教育や初等教育に力を入れずに、高等教育で有能な高度人材を育成するのは、不可能に近い。
なぜなら、高等教育における"教育効果"なんてものがほとんどないからだ。

高度知識労働者にとって最も重要な能力は専門性などではなく、「思慮深い」「誠意がある」「一貫性を持っている」「信頼できる」といった基本的人格に紐づく「人間性」であり、この能力は高等教育で修練することはほぼできない。
高等教育で習得できるのは、知識や方法論だけである。

そして、最近の就活議論の中で全くもって軽視されているのが、上記の論点である。
日本企業の雇用慣行を批判するのは間違っていないが、長所を読み解かずに短所のみを強調して批判するのは辞めにすべきだ。
日本の雇用関係を破壊してアメリカ型もしくはヨーロッパ型にすればよいという短絡的な発想では、明るい未来は望めないだろう。

まずもって求められる専門性などというものは、時代の要請によって変わるものである。
この宇宙に永続性を保証してくれるものなど何もないのだ。
ゆえに、一時の繁栄を謳歌するために専門性にロックインすることほどリスクの高いことはない。
それでも短期利益を重視する大人たちは、専門性こそ反映の基礎と考えるから、若者に専門性を持つことを期待する。
「これだけは人に負けない領域を持て」「なんでもいい、自分のオリジナリティを持て」と言うのだ。
日本を覆う一つの病「差異化原理主義」である。

だが、若者は無意識的にでも直感的にこの言葉の嘘を見抜いている。
その言葉は、あくまでもそれを"今"求める人々の声であり、その人の人生を慮っている言葉ではない。
専門性を持つことほどリスクのあることはないのだから、誰しも「何の専門性を持つべきか」に思い悩むことになる。
「なんでもいいわけがない」のである。
だから受験エリートはリスクの小さい専門性である医者を目指す。

そうではないのだ。
「人間性」を磨き上げることこそ最も有用なのであり、差異化を考える必要性は低いのだ。
専門性は人間性さえあれば後から付いてくるからだ。

企業は、新しい製品、新しいビジネス、新しい産業、新しい分野に挑戦していかねばならない。
こういう変化に対応するために必要なのは専門性ではなく、人間性である。
高度知識社会において必要な能力は「人間性」である。
いや、正しく言おう。
専門性は人間性のないところに宿ったりしない。
専門性は人間性のあるところにしか存在しないのだ。
人間性のないところに、うわべだけで存在する専門性などは、時代の変化とともに廃れていく。
使い古されたら捨てられるだけだ。
向かう先は、使い捨てられる有期労働者になるだろう。

人間性こそドラッカーのいう組織社会を生き延びるために必要な能力であり、人間にとって獲得すべきより高次な能力である。

幼児教育・初等教育をさぼって、うわべだけの理解を高等教育で与えることはできない。
人格形成に強い影響を及ぼせる幼児教育にこそ、投資を集中させるべきである。

それと、何も経済合理的な理由からのみ幼児教育に投資すべきといっているわけではない。
社会的問題に対する建設的な世論の形成、治安・風紀の向上、文化的な質的向上などにも十分に効果を発揮するであろう。

幼児教育が人生に与える影響:研究結果(WIRED VISION)
http://wiredvision.jp/news/201102/2011022320.html


政府の財務状況がますます乏しくなる中で、社会にとって有効な公共への投資は何かについての判断が重要になってきている。

シカゴ大学の経済学者でノーベル賞受賞者のJames Heckman(ジェームズ・ヘックマン)氏と、ペンシルベニア大学の経済学者Flavio Cunha氏が2010年7月に発表した論文は、そのような賢い公共投資の例を挙げている。幼稚園教育だ。

[中略]

興味深いのは、この実験が「IQスコアの向上」に長期的な効果をもたらしたわけではないことだ。就学前教育を受けた子どもたちは、最初のうちは一般知能の向上を示したが、この傾向は小学2年生までに消失した。代わりに就学前教育は、さまざまな「非認知的」能力、例えば自制心や粘り強さ、気概などの特性を伸ばすのに効果があったとみられる。

われわれの社会は「頭の良さ」に価値を置く傾向が強いが、冒頭の論文を執筆したHeckman氏とCunha氏は、こういった「非認知的」な能力こそが重要であることが多いと論じる。彼らは、信頼できる人間性こそ雇用者が最も評価する特性であり、「粘り強さや信頼性、首尾一貫性は、学校の成績を予測する上で最も重要な因子」だと指摘する。

これらの有益な能力は、むろん一般知能とはほとんど関係がない。そして、それはおそらく喜ぶべきことだ。非認知的な能力はIQに比べて、はるかに順応性が高いからだ――少なくとも、早い年齢から介入を行なう場合は。幼児教育はわれわれの知能を賢くすることはないかもしれない(知能には遺伝の影響が大きい)が、われわれをより良い人間にするし、それはより重要なことなのだ。

[中略]

Cunha氏とHeckman氏は、早期教育の効果は明白であり、リスクのある幼児に教育を行なうための1ドルで、社会全体は8ドルから9ドルの「益」を得ると計算している。税金の使い方としては望ましいものと言えるだろう。

[低所得層および中所得層の学生における認知力の発達を扱った長期の研究で、子ども時代の貧困とストレスは、成人になってからの記憶力等に影響するという結果も発表されている