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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

[わかフリ解説] 革命騒ぎ

2011-02-22 13:53:17 | 政治
中東情勢の激化が世論を刺激しておりますな。
今日も当Blog相変わらずの"わかフリ"させてもらおう。

※わかフリ = わかっているフリ

学生の頃に読んで衝撃を受けたある論文を思い出した。
ハーバードビジネスレビュー誌に「帝国は反撃する~」のような題名の米国の歴史学者の見解が載っていた。
世の中に「革命」という言葉があるが、しかし歴史を紐解くと「革命」というのは案外少ないという。
「革命」を目指したものの成功して「革命」になるものは稀で、ほとんどは失敗して「~の乱(反乱)」とか「~の蜂起」とか「~の暴動」といった形で片付けられてしまっていると。

で、革命が成功する場合とそうでない場合の違いについて調査した結果、その学者はある答えに至った。
それは、革命が成功するかどうかは「革命を推進する側」の問題ではなく、「革命される側」の問題であると。
革命の旗手の主張がどれだけ正しいかは革命が成功するかどうかに関係しておらず、革命が成功するかどうかは「体制側の落ち度」である場合がほとんどだと。(いや、それしかないという)

例えばロシア革命が成功したのは、共産主義イデオロギーが正しかったからなのではなく、ロシア皇帝が第1次大戦や内政問題に対応できなかったからだし、イラン革命が成功したのは、聖職者による政治が素晴らしかったからではなく旧体制側の汚職や内政的問題であったらしい。
(部分的に記憶間違いがあるかもしれないが・・)

なぜ革命が成功しないかというと、体制側の力が充実している時には、体制側には5つの対応方法があるからだという。

「囲い込み」「適合」「吸収」「中立化」「無効」

大衆を囲い込んで、革命を非正当化する。
資本を投入して、革命を既存体制に適合させる。
革命勢力を吸収してしまう。
革命勢力を鎮圧するなどして中立化させる。
体制側を変化させて革命目的を無効化してしまう。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

で、今回の中東情勢を見てみると、まだ進行中のものもあるが、どうも「囲い込み」「適合」「吸収」に失敗して「中立化」を試みるがこれも失敗、最後は「無効」策に出てそれも失敗するという流れになっている気がする。

今回、軍部という暴力装置を誰が握るかだという論をよく目にするが、これは「中立化」のフェーズの話で、基本的には最初の「囲い込み」「適合」の段階で勝負は決まっているようにも見える。

グローバリズムの影響を受けて経済的に優位に立ったものが実権を握ったのだが、そこから追い出された守旧派(軍部も取り残された遺物)が巻き返しに出て、そちらの方が圧倒してしまったということだろう。
結局、体制側が市場経済を導入するなどして経済成長をする時に生じる歪み(いわゆる格差問題)についての処理を間違えて、成長から取り残された人々が革命勢力として立ち上がってしまった。
体制側からすれば、マクロ観点では自分達の政策の方がより大衆に有利に働くという計算もあるだろうが、大衆側からすれば「格差問題」そのものが問題なのであり、両者が歩み寄れる点が少なかったのかもしれない。

これも市場経済の特徴で、一部の富める者と多くの貧しき者を生み出してしまうという構造が根本的に格差問題を増幅させてしまう。
格差を周知のものとしてしまうネットの影響力も無視できない。
世界的に見て超富裕国の日本においても、近年あれだけ格差問題が叫ばれたことを考えれば、途上国における格差問題がどれだけ導火線に火をつける事象か想像に難しくないだろう。

なんとなく俯瞰してみると、今回の中東情勢のお話は「独裁vs民主化」などという対立軸などではなく、「富者vs貧者」という対立軸であり、そうすると日本にとっても今回の事件は対岸の火事でもなんでもなく、自分達の今日的問題である。
日本はまだ世界的に見て福祉優良国家であるがゆえに問題は水面下に潜っているが、今後は少子高齢化で問題の顕在化が避けられない。

日本に起こる革命とはいかに・・新しい政権の樹立によって成し遂げられるのか
日本の行く先ははたして・・


[追記]

それとやっぱり、石油資源絡みの工作が裏にないとは言い切れないな。
なんか今回の中東での革命騒ぎの裏に深謀があるような気がする。
本当の狙いはリビアだったりするか。
う~ん、ありきたりな陰謀説かもしれないが。

今こそ中東への進出を

2011-02-22 09:41:19 | 政治
ブーツオンザグラウンド(河野太郎)
http://www.taro.org/2011/02/post-929.php

中東アラブ諸国の大使と夕食会。

既に本国の政変で辞表を出された大使もいる。

バーレーンのシーア派によるデモがサウジアラビア東部のシーア派に飛び火することを心配している。

ヨルダンとモロッコ以外の政権は、このジャスミン革命の影響から逃れられないだろうという意見も。

みな口をそろえるのは、これは日本外交にとっての大きなチャンスだ、と。ただ、そのためには官にしろ、民間ビジネスにしろ、ブーツオンザグラウンド、つまりアラブに来い。

失われていくアメリカの影響力に替われるのは、あるいは替わってほしいのは、日本だ。しかし、ここのところ日本の外務省はアフガニスタンとイラクとイランで手一杯。中東を見ていない、と。


ピンチはチャンス。
なぜならピンチという既成構造が崩壊する時にこそ、新しい構造を築き上げる機会(チャンス)があるからだ。

今の中東情勢で言えば、日本がリスク・テイクする条件としては、日本が新しい中東の構造についてのコンセプトを構想できるかどうかにかかっているが、日本の外務官僚にそんなことを期待するのはかわいそうだ。
彼らにそんな大きなスケールの権限がないのだから。

こういう時こそ政治家が自らの責任において、官僚を使いこなしてリスクテイクすべきだ。

河野太郎がやればいい。

派遣労働禁止は正規社員の雇用を守るための政策

2011-02-08 14:02:09 | 政治
これ正解。

派遣法改正案は「正社員の雇用」を守るためだった!?
非正社員は誰も救われない“矛盾と罠”
――国際基督教大学 八代尚宏教授インタビュー (Diamondオンライン)
http://diamond.jp/articles/-/10296

なぜ、散々反対されたにも関わらず派遣労働禁止の方向へ状況が流れたのか。

それは、

「派遣労働禁止 => 派遣社員が正社員になる」 ではなく

「派遣労働禁止 => 既存の正社員の雇用を守る」が本音だからだ。

それを見透かしている人達は黙って派遣法改正に暗黙の賛成をしただろう。

[つぶやき] 格付け

2011-01-29 08:52:12 | 政治
今、話題のブログ。

格付け(菅直人)
http://www.n-kan.jp/2002/05/post-1294.php


2002年5月31日 00:00 :  日本の国債に対するムーディーズの格付けが二段階下がった。景気回復が見込めず財政悪化に歯止めがかからないと見られた結果。日本の国債はほとんどが日本国内で消化されその多くは銀行が買っている。通常なら格付けが下がれば国債も下がるのだが銀行は資金運用先が国債以外に無いため、国債の価格が下がらないという奇妙なことになっている。外国に資金が流出し始めれば一挙に国債は暴落する恐れがある。能天気な総理や財務大臣には分かっているのだろうか。


2002年のこととはいえ、同じ人とは思えないですね。。
つまり、この文章は本人のものではなく、政策秘書か誰かの文章と思われます。
そういう国民ウケすることなら中身にかかわらず利用しようという心意気がよく見えます。
言葉に説得力がないのは昔からなわけです。

[つぶやき] 政治的な景気が悪いよね

2011-01-29 01:07:23 | 政治
消費税増税よりもシュウカツ改革が日本経済にとって重要な理由(小幡績)
http://agora-web.jp/archives/1213974.html


なぜ消費税増税が重要でないか。そもそも重要でないというより、今は増税すべきではない。その理由は景気要因ではない。日本の景気は今はいい。世界的な好況を受けて、景気はいいのだ。今が悪いというのなら、今後はさらに悪くなるだろう。財政は世界的にも日本においても、タイトにならざるを得ないし、金融も引き締めに向かうのが世界的な趨勢だ。財政危機が当然今年のテーマとなる。

だからこそ、消費税増税を、という議論が経済学者的には当然で、良識ある学者、エコノミストは消費税に賛成すると思われがちだが、私は反対だ。

理由は、政治的な“景気”が悪いことにある。

日本の税収水準は低い。対GDP比でみると世界のいわゆる成熟先進国中では最低水準だ。だから、増税の余地が有り、もちろん増税するべきだ、という議論となるだが、これは税水準が低い理由をわかっていない議論だ。

ハーバードのshleiferらの研究によれば、税収の水準は国民の政府への信頼度と相関していることが知られている。これを日本に当てはめれば、日本は政府への信頼がないから、政府は増税できないということになる。

これは現実の感覚とも非常に良く合う。実際、日本では、制度改正を伴って、増税を行ったことは戦後一度もない。要は、高度成長に伴い、名目所得水準の上昇にのっかり、所得税の累進構造を利用して増税できただけのことなのだ。消費税導入時も、引き上げ時も、ネット減税で所得税減税とセットで、しかも、減税先行で行われた。

これは国民が甘えている、という議論もできるが、それを説得できない政府に責任があると見るのが普通だろう。その理由は、政府にお金を預けてもどうせろくな使い方をしないから、増税には反対、ということなのだ。

したがって、民主党は現在は迷走しているが、当初の事業仕分けなどにより無駄を徹底排除、その後に、年金改革とあわせて消費税議論、というのは至極全うな方針だったのだ。

それがいつからか歯車が狂い、迷走に迷走を重ね、しまいには、増税するのが責任ある政府、という本末転倒は主張を論壇に広めることに成功した。

もう一度原点に帰って、信頼できる政府を構築し、歳出を大幅カットすることから初めてもらいたい。


至極全うな意見で、みな考えていることなのに、なぜこの意見が主流にならないのかが不思議である。
いわゆる悪い均衡、コーディネーションの失敗なわけだが、原因は不信なのだ。

誰かが損をしなければならない時、人間なら誰しも自分だけが貧乏くじを引くことを避けたい。
自分だけが不利になるようなことがないように回避行動をとるものだ。
自分が不利をすることは許せても、他の不利になるべき人が不利になっていなくても許せなくなる。
そして、それを皆が考える時、誰もが動けなくなる。

この場合、信頼を集めることのできるリーダーが存在すると状況を変えることができる。
最終的に自分が損をするかもしれないが、平等に納得できる形で損をすることが担保されるのであれば、損も許容できるのである。

能力の前に、信頼できる人間かどうかが重要なのだ。

まぁ、ありきたりの話ですね。

「反日」を解決する方法について考えよう。世界戦略を考える手前で

2010-10-20 11:19:34 | 政治
原因や理由を断定するのは危険だということは百も承知ですけれど、
話の単純化のために、割り切った話をします。

多くの日本人(特に若者)には想像し難いと思うけれども、
政治的混乱の大きな理由の一つは「貧困」と「不公平感」です。
貧しい人々は活路を求めて行動を起こす。
これは世の常であり、それが多少過激だからといって
貧しい人を責めるのはあまり生産的なやり方ではありません。

なぜなら、彼らが行動を起こす原理と、
彼らに論理的正当性や整合性があるかというのは関係ないことだからです。
彼らが求めるのは「人生」のようなものです。
「あなたは○○だから人生を諦めろ。」と言われて納得されますか?
それがどれだけ論理的に正しくとも、無理でしょう。

もし、周囲の全てが貧困状態であるならば窮状を訴える相手が存在しないわけで、
その場合「人生とはそんなものだ。」と思えるかもしれません。
実際、原始人はそうやって生きてきたと思います。

問題は、今が原始時代ではないということです。
我々は、否応なしに富める者が存在することを知ってしまう。
そして、富める者が楽をして富を手に入れたと考えるのは浅はかですが、
しかし、そういう側面ばかりに注目してしまうというのもまた事実です。
富の蓄積が可能になったことは経済発展の礎でもありますが、
それと同時に既得権益者を作り出してしまった。
我々は生まれながらにして、
不公平感を感じやすい世界に身を置いてしまっていると言えます。

当Blogで紹介した『超ヤバい経済学』にこんな話があります。
ある複数の地域の犯罪率を調査すると面白いことがわかったというのです。
TVの普及率と犯罪率に有意な相関が見られるのです。
(本の中では同時にTVの普及率が男女格差の解消にも影響することが述べられています。)
もちろん、TVの普及率だけで社会を語れるはずもありません。
しかし、これは非常に重要な観点を我々に提供していると思います。

私はこう思います。
TVで放映されるコンテンツが人々の行動様式を変えたのではなく、
TVが「人々と社会を繋ぐ情報の窓口」になったため、
「人々」と「社会」の関係性を変えてしまったのだと。

「人々」と「社会」の「接点」が変化してしまったために、
これまでの接点からもたらされる情報と、
今の接点からもたらされる情報との間に差異が生じ、
「人々」と「社会」の「関係」が変化してしまったのです。

その変化とは、不公平感を感じやすくなったということです。
先日取り上げた『競争と公平間』で述べられているように、
実社会は平等でもなければ公平でもありません。
人間を生物学的に見えても平等とは言い切れない要素は多々あります。
要は、知らなくてもよかった情報を知ってしまった。
パンドラの箱を開けてしまったのです。

以上をわかった上で、例えば、反日デモが頻発する中国を見てみましょう。

この件に関しては、既に多くの両国の識者が述べているように、
この「反日」は、実は「反政府」の派生です。
多くの中国人の根本にあるのは上で述べたように「貧困」と「不公平感」なのです。

中国政府は共産党政府ですが、その共産党というのは、
もとは貧しい農民達のための共産主義を唱えたところから始まっています。
都市部の富裕層を排斥し、革命を起こすことが当初の目的であるため、
共産党の権力基盤はなといっても、圧倒的多数の貧しい人々になります。
ゆえに共産党政府は「貧困」と「不公平感」をむしろ利用する側であって、
この非常に「反政府」と結びつきやすい国民感情をうまくコントロールする必要があります。
日本という仮想敵を作り上げることでなんとか回避しているのです。

しかし、中国も文化大革命の傷が癒え、目覚しい経済発展を遂げるようになると、
一部の富裕層が生まれてきます。
共産党としては皆が豊かになることを目的としているのですが、
そのためには、中国という国が豊かになるためには、
市場原理を取り込んで先行的に豊かになる人々、
もっとわかりやすくいえば格差を認めなければなりません。
これは、共産党のもともとの目的と矛盾してしまうのです。
しかしながら、それでも皆が豊かになることを目指さずにはいられません。
皆が貧しくなれば、今は反日で済んでいる騒動が反政府に向かってしまう可能性があるからです。

このため、現在の中国政府の問題意識としては、
どうやって、この内部矛盾をうまく解いていく作業を進めるか、
ソフトランディングによる政治改革をどうやって実現するのかということになるわけです。

世界的な中国のイメージというと「狡猾」「拝金主義」「自己中心的」などがありますが、
中国政府もまた、これらの人々とうまく付き合っていかなければならないのです。
一つ政治判断を誤れば、政治体制が瓦解してしまう緊張感があるのです。
日本のように総理大臣が頻繁に変わるゆるい政治運営は許されないのであり、
どうしても、強権的な姿勢を取らざるを得ません。

中国国内の政治闘争が国外にも染み出てきているというお話もありますが、
いずれにしても、中国の政治指導者は、
既得権益者ぶった態度を国民に見せるわけにはいかず、
共産的であることが求められてしまうのです。

よって、もし日本が中国に対して影響力を持ったパートナーとして
戦略的互恵関係を構築することを望むのであれば、取るべき戦略は明らかです。
中国の「貧困」と「不公平感」を解決するソリューションを示すことです。
もちろん、日本国内の問題も解決できないのに中国国内の問題に精を出すとはと
批判されることはわかっております。
しかし、これは大局的にみれば日本の問題でもあるのです。
誇りや筋の問題もわかりますが、
ここれは冷静に自分達の利益のために、どうすべきか考えてみるのがよいのではないでしょうか。

具体論が欠けているというご批判が出ることは、
想定した上でのエントリということでお許し頂きたい。

NHKスペシャル 「核を求めた日本」

2010-10-04 10:42:37 | 政治
これは外交オンチによる素人談義である

昨日放映されたNHKスペシャルは日本にとっての禁断の果実であった。
このタイミングで、この内容を放映するとは。
NHK側に何らかの意図があったと思わざるを得ない。
世界に向けた日本からの隠れたメッセージと受け取るべきだ。

スクープドキュメント
“核”を求めた日本
~被爆国の知られざる真実~ (NHK)
http://www.nhk.or.jp/special/onair/101003.html

NHKがこの件について取材を進めるキッカケになったのは、
「核密約」問題で元外務事務次官の村田良平氏にインタビューしたことだった。
村田良平氏は、インタビューの中で"日本が核保有について模索していた"と証言したのである。
村田氏は、この時癌を患っていて、インタビューの後1ヶ月でこの世を去るのだが、
死を目前にして、自身が尽くした日本という国に対して重大な置き土産をしたのだ。

当時の外務省調査課長の村田氏が核保有を検討するグループの一員として活動していたのは、
非核三原則で(それだけが理由でないけれど)ノーベル平和賞を受賞した佐藤内閣政権下での話である。
ジョンソン米大統領との首脳会談で、
ジョンソン氏が「アメリカは日本を核の傘で守る」と約束したため、この計画は流れたようだ。
日本はこの裏で、西ドイツと核保有について協議していたというから驚きである。

西ドイツ側のカウンターパーソンであるバール氏は、
この問題は大変難しい問題だからという理由ではじめTV取材を拒否したが、
死の前に収録された村田氏からのビデオレターを見て、NHKの取材に応じることにしたという。
そして、彼もその協議の存在を認めたのである。

村田氏の問題提起は、戦後の混乱する世界に対峙した外務官僚らしくとても本質的だった。

「具体的にどうすれば、核があっても意味がない世界を作れるか。」

日本のお花畑平和主義者の連中には、百万回聞かせても無駄かもしれない。


最近の尖閣問題で、安全保障の議論が日本国内で沸騰するかと思ったが、部分的にしか起きなかった。

あえて触れなかったが、ここでトンデモ論を展開しよう。

私は「核保有カード」を使ってアメリカを脅すくらいの姿勢を日本は見せてもいいと思う。
我々の意思を汲んで中国に対して圧力をかけなければ、我々は核を持つと。
アメリカから譲歩を引き出すのだ。
「もう核の傘はいらん。我々は核を持つ。」と。

こんな意見は、日本の信頼は地に落ちるといって批判されるであろう。
その一方で回復不可能なほど日本は損害を被ると。

本当にそうだろうか。
日本が「核保有カード」を持てないのは、世界の信頼が欲しいからではない。
ましては「憲法」などは全く関係ない。(改憲すればいい)

単純に、自分達で国土の防衛をする気がないだけだ。

「核を保有する」ということは、自らの手で自国防衛を果たすとう宣言に他ならない。
そんな選択を、日本ができるわけがない。

「対等な外交」「自律的な外交」というのであれば、「核保有カード」もオプションに持つべきだ。
それも出来ずして何が対等な外交だ。

念を押しておくが、私は、対等な外交を目指せというのではない。
対等以外にも目指すべき外交の形はあるはずだし、
外交のパラメータは数多くあり、軍事力以外のオプションを駆使すべきだとも考える。
私が言いたいのは、「であるならば、そうと割り切った外交を進めよ。」とうことに他ならない。

これまでの政治は外交問題を考えずともよかった。
日本の外交はガラパゴスの象徴だ。

「外交」の問題も結局は「政治」の問題なのだなぁ

2010-09-28 13:34:50 | 政治
中国で内部統制が効きにくくなっていて、
親日派の胡錦濤国家主席も四苦八苦しているというのは以前より危惧されている。
胡錦濤の後継者争いで「反日」が利用されているというのもあるだろう。

独裁国家である北朝鮮ですら、三男を後継者として指名するのに大変な苦労を要するのである。
中国が共産党1党独裁政権だからといって政権移譲が楽なわけがない。

それもそのはずで、政権という国家権力とは「暴力装置」以外の何者でもないからだ。

「暴力装置」の扱い方を誤れば、とんでもない被害を受ける可能性があることを
"独裁政権ゆえ"によく理解しているともいえる。

「政権交代」が平和なセレモニー的な受け止め方をされる日本にいて、理解しがたいのはよくわかるが、
お隣の韓国に目を向ければ、政権交代が単なるセレモニーではなく「闘争」であることを理解できるだろう。

「暴力装置」を譲る側に立って見ても、譲られる側に立って見ても、
これは本当の意味での「死活問題」であるから切実な対応を迫られる。

日本がある意味で不幸で、そしてある意味で幸福なのは、
近代において政権移行に伴う大きな闘争をほとんど経験しなかったということだ。
明治維新では劇的な政変が迅速に行われたし、終戦時は米国の手による政変が行われた。
日本人は日本人らしさをよく発揮して、それらの政変を非常にスムーズに進めることができた。
他国につけいる隙を与えなかったという点において素晴らしい政権移行であるが、
おかげで国家権力に対する日本人の問題意識が低くなったということもいえるだろう。

日本人の多くは、「国家権力」=「暴力」という本質的な問題に気づいていない。
どちらかといえば、鳩山前首相のようにお花畑的平和主義、
(核密約で有名な)若泉敬曰く、
「経済的豊かさを追い求めるばかりで、国の安全保障問題に正面から向き合わない戦後の日本。愚者の楽園。」
でのうのうと生きる人が多いような気がする。(私も含めてだが)

若泉は「安保破棄」こそ日本人の意識改革に重要と考えたそうだが、
私は「安全保障」は非常に重要な問題なれど「政治」の問題に含まれるものだとも考える。
日本人の意識を改革したければ「安保破棄」などではなく、
いつも言うように「日本における民主主義の実現」これこそ重要なのである。
安保問題は戦後民主主義の副産物であり、安保問題が戦後民主主義を生んだのではない。
安保をどうするかもふくめて政治の問題なのであるから。

やはり、この問題は「日本民主主義の問題」として捉えるのが良いと思うのである。

日本のお父さん「波平」は健在だった

2010-09-27 19:16:38 | 政治
先週末、中国人船長が釈放されたその日、
私は「たちあがれ日本」を支持する保守派の人と上等な日本酒を飲んでいた。
団塊の世代の人で、口癖のように「我々の世代の感覚からすると~・・・」を連呼する。

私の知る普段の彼は、自身の政治的発言を強調するようなタイプではない。
普段は、相手の意見をよく傾聴し、噛み砕こうと努力する人だと思う。
しかし、その彼が、何度も悔しさを顕にしながら民主党の対応に不満を漏らし、
「日本は高い教育費を払ったと思うべき」とする私に自説を押し込もうとするのだ。
酒の勢いもあるためなのは理解しているのだが、私はナショナリズムの危険性を再確認した。

普段、政治的な意識をそれほど強く持っていない人も、
ちょっとしたキッカケでナショナリズムを大きく煽られるのだと。
「国家」という相対的価値は、こうも人に同族意識と排他意識を持たせてしまうものなのだ。
為政者が「敵」を作って求心力を獲得しようと欲求に駆られるのもよくわかる。

私が思うに、この問題は日本人に「安全保障」について考えるよいキッカケになったと思っている。
(私自身はというと安全保障について詳しくもないしよくも知らないが・・)
私も民主党の対応はよくなかったと思うが、
そもそも国民的関心の中で外交・安全保障の政治的優先度が低い日本において、
そんな国民によって選ばれた民主党政権なのだから仕方がない側面もあったのではないかと思う。
普段から外交・安全保障について議論する場が多ければ、菅政権の対応も違ったのではないか。
(その場合、そもそも官政権が誕生していない可能性の方が高いが・・)

私は彼に
「日米安保についてどう考えるべきか?」
「自衛隊の在り方は?」
「日本の核保有も視野に入れて対抗すべきか?」
「社会保障を減らしてでも軍事費を拡大すべきか?」
「徴兵制は実施すべきか?」
など投げかけたが、彼の返答はあまりはっきりしなかった。
(という私自身の答えがあるわけではないが・・)

彼が言うのは

「日本はもっと毅然とした態度を持つ必要があり」
「そのための手段はとらねばならない」

という政治家答弁みたいな話である。
政治的なポジションはとらないが「けしからん」というに過ぎない。
「けしからん」ものは「いかん」というサザエさんのお父さんこと波平かと思った。
日本の保守派っぽい人にはこういう人が多いような気がする。

空気に支配されることなかれ

恋愛ベタが語る外交ほど本質を外しているものはない

2010-09-26 22:44:19 | 政治
(誰にも求められていないが)
とりあえず雑感を。

恋愛もできない人に政治家が務まるとも思えないが、外交ならなおさら思えない。

恋愛ベタの要因は「相手の気持ちがわからない。」もしくは「相手の気持ちをわかろうとしない。」

そして「相手の気持ちがわかっても、どう行動すればよいかがわからない。」

結局のところ、恋愛経験が少ないか、もしくは学習能力がないか、どちらかだ。

今回の場合は、”どちらも”かもしれない。


「ボタンの掛け違い」は恋愛でなくても人間関係上、よく起きる問題だ。

普段、我々は「ボタンの掛け違い」のような問題に、どのように対処しているのだろうか。

少し考えてみたらよいのではないだろうか。


これはあくまでも私見でしかなく、偏見かもしれないが、

民主党(とりわけ菅政権)は「人間」や「社会」というものの複雑さについてとても無理解に見える。

物事を単純化して捉えることも重要だが、民主党の政策などを見ていると

物事を単純化し過ぎているのではないかという危機感を覚える。

「多様性」なんかに対してあらゆる意味で無頓着というか、自意識過剰というか。


今回の尖閣諸島の問題についても

「彼女の男遊びの処理を失敗した彼氏」に見えた。

「男脳」で考えたら「女」のことがわからないのに、

「男脳」の存在すら気づかない彼氏みたいな。


民主党の方々には失礼極まりないかもしれないが、

まずは「意識改革」からはじめるべきなのかもしれない。


中国関連ということで、最後にいつもの孫子の言葉を。

敵を知り己を知れば百戦危うからず

彼を知らずして己を知らば一たび勝ち一たび負く

彼を知らず己を知らざれば、戦ふ毎に必ず敗る


恋愛の王道である。

無念

2010-09-14 16:34:12 | 政治
【民主党代表選】菅首相が小沢氏に圧勝 721対491(MSN産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100914/stt1009141537016-n1.htm

無念だな。
これだけの演説をしても、菅直人との格の違いを見せ付けられても、民主党員の心には届かんか。
(全ての内容に賛同するわけではないけれど)

【民主党代表選】小沢一郎前幹事長の決意表明全文(MSN産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100914/plc1009141532010-n1.htm

彼の民主主義観は、内田樹のそれと変らない。
国民に「責任」を取り戻す。
(まぁただこの内田樹の内容は、匿名でBlogを書いてる私には痛い)

法の制定について(内田樹)
http://uchida-tatsuru.blogspot.com/2010/09/blog-post_4100.html

小沢は最後まで部下に恵まれなんだな。
それが敗因だと私は思う。
小沢の下に小沢イズムを継承、乗越えるだけの若手が育たなかった。
これが理由で最後の最後まで小沢頼み。
無能な部下達のスケープゴートにされてしまった。

志とは、それを継承し、そしてそれを塗り替えるという新陳代謝が働くことによって進化する。
魂は進化する存在だ。
どのような魂も進化を止めることはできない。

逆らおうとすることはできるが、その試みは必ず失敗に終わる。
この宇宙は動くことによって存在しているからであり、
また、動かぬものは存在できないからだ。

小沢イズムを進化するものとして存在させることができなかった。
小沢の負けだ。


さて、これからどうする。

小沢後の世界、私にはまだ見えない。

年金問題の本当の問題

2010-09-13 10:24:44 | 政治
この問題は知っておくべき。

年金は経済問題じゃない(経済学101)
http://rionaoki.net/2010/09/4511


高齢化・年金問題が基本的に経済の問題ではないということだ。働ける人はたくさんいて、助けが必要な人の割合はあまり変わっていない。歳を取って働けない人を養うことは難しいことではないはずだ。


年金問題が混乱している最大の要因は、「人生観」の問題である。
「働き方」や「暮らし方」、そして「生き方」の問題なのである。

端的にいえば「老人とは何ぞや?」というお話だ。


では何故それが社会問題になるのか。それは65歳を過ぎたら働かずに年金=若い世代の稼ぎで暮らすのが当然という人が大勢いるためだ。しかしこの状況を打破するのが極めて困難であることは一番最初のグラフを見れば明らかだろう。


硬直した雇用慣行や経済成長の鈍化によって、環境制約が大きくなってきている。
日本では「老害」ばかりが問題視されるが、当の老人だってよりよく生きたいと思っている。
自分の能力や経験を活かせる場さえあれば、社会的貢献の意欲には満ち溢れている。
羽を折って黙っていろというより、彼らに自由に飛べる場を提供した方が社会にとってプラスだろう。

こんなことをいうと、「老人に鞭を打つのか?!」などと言われることもしばしばあるが、そんな少数派の意見にだけ耳を貸す必要は無い。

「日本の病」は「国民の総無責任化」

2010-09-08 14:59:41 | 政治

私は小沢を支持すると書いているわけではない。
小沢の政治理念を支持すると書いているのだ。


変わる小沢、変わらぬ小沢(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51476033.html

基本的に私は池田信夫氏の意見に賛成です。

しかし、コメント欄を見ると、どうも小沢の理念を誤解している人々が多いので、
思い余ってコメントしてしまいました。

小沢を「古い政治家」という人がいるが、
私は、それは小沢の「政治手段が古い」のであって、
小沢の「目的が古い」わけではないと思うのです。

その内容をここに転載しておきます。
(いつもの繰り返しなのだが。)


誰もがこのままではまずいと思っていながら「焼け野原」に向かうのを止められないでいる。政治の話題にはもっぱら「美徳」や「筋」などが主なテーマとして掲げられ「問題の定義」や「解決への道筋」は置き去りにされがちだ。空気の病は今日でも健在だ。

これは誰も「責任」を取ろうとしないからである。過去の負の遺産の責任は、他の誰かのものであって自分のものではない。皆がそう思うからであろう。

だが、そもそも「責任とは何だ?」という問いに誰も疑問を呈さない。あたかも国民が国家や政治に対して責任を負っていないかのような幻想が日本を覆っている。

小沢が主張するのは、そんな幻想を捨てようということに他ならないと理解している。小沢が繰り返し述べるのは、戦後民主主義が日本人の精神性に与えた影響である。民主主義国家において、政治に対する最終責任は国民が負う以外に有り得ない。よく批判されるバラマキ政策であるが、これが政治の責任であるかのような嘘をマスメディアも国民も平気で言う。しかし、であるならばどうしてバラマキ政策を実施してしまう政治家が選挙を通して選ばれてしまうのか。

小沢が言うように「国民のレベル以上の政治家は生まれない」のである。

では、どういう仕組みがなければならないか。その一つが、民度を上げる仕掛けとしての、責任の所在の明確化である。人間は自己責任をもって初めて物事に真剣に取り組むことができる。国家に対する責任も、社会に対する責任も、その構成員たる国民が負っているという現実を直視する政治、この実現こそが小沢の目的である。小沢が政権交代を目指したのも、自民党の兵站を破壊しにいったのも、官僚依存からの脱却を訴えるのも、日本に民主主義を実現するためである。
特定の政策が正しいかどうかは小沢の関心ごとではない。政治の在り方こそが小沢が問いかけている本質的な問いなのだ。

安保闘争から考える「誇り」という難しい問題

2010-09-06 10:19:10 | 政治
昨晩、ふと寝る前に手持ち無沙汰な感じがしてTVを付けた。
ザッピングしてたらNHKで放映していた「ETV特集・安保とその時代(3)」で手が止まる。
安部元首相の祖父である岸信介が総理大臣として安保改定を強行した「60年安保闘争」の話だ。

60年安保闘争は、その名の通り1960年(昭和35年)に改定された安保を巡る闘争のお話。
番組内では、ブント(共産主義者同盟)や全学連の元幹部、活動に参加した一般の主婦などが当時を振り返りコメントをしていた。
ブントの元幹部は当時を振り返り、当初は安保そのものの否定のための活動だったが、市民なども加わり活動が大きくなるにつれ、途中から論点が反権力にすり替わったところを反省点として挙げていた
よって、60年安保改定と同時に岸が辞任し、池田勇人が所得倍増計画を打ち出すと、急に安保闘争の火が小さくなっていったと。

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全共闘運動に参加した人々は、よく若者に向かってこういう。
私も何度か言われた。

最近の若者は元気がない。
我々の頃は若いときから政治的関心を持っていた。
今の日本にはデモクラシーがない。
政治的腐敗を市民レベルで解決しようとしていた。
平和ボケしたお子ちゃま。

私のようなヒネクレ者は、そんなこと言われる度に反論していた。

昔、若い人達が政治的関心を持っていたのは、他に考えることがなかったから。
そういうことを考える他に、自己アイデンティティを保つ術を持たなかったからに過ぎない。
あなた方が政治的関心を持って活動をしていたのは、
あなた方が優れていたからでも、また高次な精神性を持ち合わせていたからでも全くない。
そうではなく、単にそれ以外には選択肢がなかったというだけの話。
それを誇られても困る。

こんなことを言おうものなら、それは烈火の如く怒りだし、人格攻撃を受けるのである。
(もちろん実際にはもっと柔らかな表現を使っている。のにだ。)

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私は、全共闘運動の見方として内田樹氏の主張に納得している。
あれは遅れてやってきた「本土決戦」であったと。

全共闘運動は日本をどう変えたか?(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2008/07/06_1145.php

60年安保のときに運動を指導したのは当時20代後半から30代はじめ。つまり、1930年から35年生まれというあたりである。
敗戦のときに10歳から15歳。
国民学校で「撃ちてし止まむ」と教えられ、本土決戦に備えて竹槍の訓練をした少年たちは8月15日に「戦わない大人たち」を見て愕然とした。
彼らに軍国教育を施していた大人たちが一夜明けたら「民主ニッポン」の旗をにぎやかに振り始めたからである。
あの・・・・最後の一兵まで戦うんじゃなかったんですか。
「勝たずば断じて已むべからず」「生きて虜囚の辱を受けず」と起草した夫子ご本人が負けて「虜囚」の獄中にあるというのはどういうことなんでしょうか。
誰か説明してくれませんか。
誰も説明してくれなかった。
この「一夜にして大日本帝国の旗を下ろした先行世代」に対する「恥」の意識が60年安保闘争の底流にあると私は思う。
60年安保は反米ナショナリズムの闘争であるが、それは15年前に完遂されるべきだった「本土決戦」を幻想的なかたちで再生したものである。
ただ、その標的は今度はアメリカそのものではなく、「アメリカに迎合した日本人」たちに(具体的には戦前は満州国経営に辣腕を揮い、東条内閣の商工大臣の職にありA級戦犯として逮捕されながら、アメリカの反共戦略に乗じて総理大臣になった岸信介)向けられていた。

そして、「日本辺境論」で登場する日本人の精神的特長に由来する、この考え方である。
日本人は、反日を掲げる韓国や中国の人々に対して「現実逃避する厄介者」くらいにしか考えていないと思うが、それと同じ理由で日本人もまたこの「安保」問題を抱えていると私は考えている。
「日本人としての誇り」をどう保つかという問題を前にして矛盾を抱えているのと同じように、韓国や中国の人々も誇りの問題を解決できずにいるのだ。
どこの国も同じだ。

箱根湯本で安保について考える(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2010/02/11_0751.php

「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」という条約6条の「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するために」という一文が欺瞞的なものだと知るだけで十分だと思っていた。
誰のための「平和」なのか、何のための「安全」なのか。
ベトナムで人々が殺されているという事実は、どういう理路をたどれば「日本国の平和と安全の維持に寄与」することになるのか。
この問いに対して、私を説得できる答えをしてくれた人は安保支持派の中に誰もいなかった。
6条の文言は現実的には「極東におけるアメリカ合衆国の平和及び安全の維持に寄与するために、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」という以外の解釈の余地のないものであり、それは端的には「日本はアメリカの軍事的属国である」ということを意味していた。
それくらいのことは誰でも知っていた。
安保条約は本質的には日本がアメリカの軍事的属国として「下働き」をし、その代償として、アメリカの核の傘で「守ってもらう」という契約であった。
私たちが安保条約に反対したのは、条約「そのもの」に国際法上の整合性がないという理由からではない。
「アメリカの核の傘での日本の平和」がまったく国益に資さないという理由からではない。
国際法上には瑕疵がないのかもしれないし、軍事に投ずべき予算をアメリカに負担してもらうことはむしろ国益に資するという判断も合理的かも知れない。
「日本は戦争に負けたので、これからはアメリカの軍事的属国になる以外に選択肢がないのだ(その悲しみと恥を国民的に共有しよう)」といういちばん常識的な言葉だけが、左翼によっても、右翼によっても、誰によっても口にされなかったからである。
私たちはそのことに苛立っていたのだと思う。
安保条約は「リメンバー・安保条約」というかたちで、「国民的な恥の記憶」とともに心に刻み込まれなければならない種類の屈辱的な条約であった。
そのとき、日本はそのような屈辱的な条約を甘受しなければならないほどに国際的に弱い立場だった。
戦争に負けたのだから、それは仕方がない。
弱い国は弱い。
シンプルな事実だ。
誰かに、はっきりそう言って欲しかった。
その事実をまっすぐにみつめなければ、そこから這い上がることはできない。
だから、安保条約反対闘争が国民的規模で拡がったのだと思う。
反対闘争の目的は、ひとことで言えば、「日本は屈辱的な地位にいる」という平明な事実を「国民的常識」に登録しようという提案だった。
その事実認知からしか戦後日本の再建という遂行的事業は始まらない。
この50年は「日本はアメリカの属国である」という世界中の人々が知っている教科書的事実を、私たち日本人だけが「知らないふり」をしてきた50年間である。
もちろん「知らないふり」ができるのは、そのことを「知っている」からである。
それを意識に前景化させまいと、つねに抑圧が機能しているから「知らないふり」ができるのである。
その抑圧の機制については、これまでも何度も書いてきた。
それは敗戦後の日本人は「自分が『弱い』ということを認めることさえできないほどに弱っていた」からである。
自分の弱さを認めることができるためには、ある程度の強さが必要である。
その「強さ」が1960年の日本人にはまだ足りなかった。1970年の日本人にも足りなかった。
それはたぶん「アメリカが強すぎた」からである。
2010年の日本人は「私たちは弱い」ということを冷静な言葉で語れるほどには、それにうなずけるほどには「強く」なったであろうか。
少しはなれたのではないかと思う。
ただそれが「日本が強くなった」ことによってではなく、「アメリカが弱くなった」ことによってもたらされた望外の帰結ではなかったのかという一抹の不安がぬぐえない。

安保については『中央公論』の今月号でもインタビューに答えています。
こっちの方は「平和憲法と安保条約の同時廃棄」こそが日本国民の見果てぬ夢であるという、さらにめちゃくちゃな論を展開(読んでね)。

小沢一郎の改心

2010-09-02 11:03:43 | 政治
やはり小沢は老いたのか・・。
政権交代が実現して気が抜けたのか、それとも心臓病が彼を追い詰めているのか。
残りの人生を鑑みて、何か焦っているのではないか。
それとも私の勘違いでしかないのか。

【菅・小沢共同会見】(1)小沢氏「政治家の責任で政策決定を」(1日夕)
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100901/stt1009012140031-n1.htm


あえて立候補する決意をいたしました」

「その理由は、今日の日本の社会を見てみますと、戦後の民主主義というものは、必ずしも十分に正確に理解されないままに今日に至ったということが1つの大きな日本社会の精神的な構造の一因をなすものだとは思いますけれども


ここまでは常日頃私も同感する部分なのだが、
続きの部分について、私はその理路を理解することができないでいる。
行間が広すぎるのか、それとも論理的におかしいのか、よくわからない。


特に今日の政治経済の不透明化、危機的な状況の中で、日本の社会は卒業しても就職できない若者たちやら、あるいは自殺者が絶えません。また親殺し、子殺しの連日のニュースもございます。そういう日本の社会が崩壊しつつあるのではないかという強い認識の中で、それを立て直し、あらゆる意味で、特に経済を再生させていくためには、国民主導の、政治主導の政治を実現しなくてはいけないというのがわれわれの主張であり、昨年の総選挙において、国民の皆さんにお約束し、そして政権を委ねられたのだと思います」


「それを立て直し、あらゆる意味で、特に経済を再生させていくためには、国民主導の、政治主導の政治を実現しなくてはいけないというのがわれわれの主張であり、」
なぜこんな論理展開が可能なのかわからない。
小沢が説明しなければならないのは、「『国民主導・政治主導の政治の実現』によって実現されるものが何か?」その一点だ。


「私はそういう意味において、もっと政治家が自らの責任で政策決定を、予算の決定をすることのできるような、そういう体制をつくらなければならない。」


その根拠を聞きたいのだ。
これは私の勝手な希望なのだが、
小沢一郎から「国民主導・政治主導で経済が再生する」なんて言葉を聞きたくなかった。
そんな妥協の産物の言葉では、誰の心も掴むことはできない。

そうではないだろう。
小沢がずっと言い続けてきたのは、
国民が政治にリスク(責任)を負う仕組みを実現する必要性だろう。
「政治の責任」などと言って国民の怠惰心につけ込んで政治家の仕事を作ってきた、
そんな政治を辞めるべきだとそう言ってきたのではなかったのか。

「民主主義制度の下では国民のレベル以上の政治家は生まれない」

民度を向上させるために、国民主導・政治主導の政治が必要なのだろう。
どうした小沢一郎。