二言瓦版

「復讐は神に所属する。」 「旧約聖書」


暇つぶしの記事、名言、珍言、コラムの批判。
株式の名言など。

面白い。

2016年10月05日 04時15分53秒 | ニ言瓦版
福島民友新聞は、コラムは、面白い。
幸田露伴の話。
知らなかった。



「明治の文豪として知られる幸田露伴は本県との縁がある。
「露伴」のペンネームは福島市から郡山市まで夜通し歩いたつらさを詠んだ俳句から付けたという

 ▼その句は「里遠しいざ露と寝ん草枕」。作家を志し、勤務先の北海道から実家の東京に戻る途中、県内入り。郡山駅から汽車に乗る旅費を節約するため歩いた。特に夜中に到着した二本松からは道の真ん中に寝転がるほど、体力と気力の限界だった。その様子を道中記の「突貫紀行」に書いている

 ▼寝転がって休んだのは、当時の奥州街道で二本松市市街地にある亀谷坂という説がある。地元ではゆかりの地をアピールするため句碑が立ち、坂の駅「露伴亭」を運営する。道中で露伴が食べたとされる餅を販売している

 ▼二本松市ではきょう約370年の伝統を誇る二本松の提灯(ちょうちん)祭りが始まる。4日は市内7町全ての太鼓台が夜中まで練り歩く。亀谷坂は太鼓台が一直線に並ぶ見どころの一つ

 ▼露伴の道中は提灯祭りの頃だ。突貫紀行に「市は祭礼のよしにて賑(にぎ)やかなれど我が心の淋(さび)しさ云(い)ふばかりなし」とある。勇壮な祭りばやしの響きは、露伴にはむなしく感じられたようだが、城下町の人にとってはかけがえのない活力の源だ。」



面白い。
人は、文豪も、苦労しているのだ。
節約して、郡山駅か。

人は、時期で、歩いているは、何か、あるのかもしれない。
人は、旅でも、その自分の内部の様相、それが、
先が、何かも、生み出す試験の結果なのかもしれない。

========

幸田露伴、調べた。
「卒業後の1878年(明治11年)、東京府第一中学(現・都立日比谷高校)正則科に入学する。尾崎紅葉や上田萬年、狩野亨吉らと同級生であった。のちに家計の事情で中退し、数え年14歳で、東京英学校(現在の青山学院大学)へ進むが、これも途中退学。東京府図書館に通うようになり、淡島寒月を知った。また兄・成常の影響で俳諧に親しみ、さらに菊地松軒の迎羲塾では、漢学、漢詩を学んだ。
数え年16歳の時、給費生として逓信省官立電信修技学校(後の逓信官吏練習所)に入り、卒業後は官職である電信技師として北海道余市に赴任。
現地の芸者衆に人気があったと伝えられるが、坪内逍遥の『小説神髄』や『当世書生気質』と出会った露伴は、文学の道へ志す情熱が芽生えたと言われる。そのせいもあり、1887年(明治20年)職を放棄し帰京[2]。この北海道から東京までの道程が『突貫紀行』の題材である。また、道中に得た句「里遠し いざ露と寝ん 草枕」から「露伴」の号を得る[3]。
免官の処分を受けたため父が始めた紙店愛々堂に勤め、一方で井原西鶴を愛読した。1889年(明治22年)、露伴は「露団々」を起草し、この作品は淡島寒月を介して『都の花』に発表された[4] 。これが山田美妙の激賞を受け、さらに『風流佛』(1889年)、下谷区の谷中天王寺をモデルとする『五重塔』(1893年)などを発表し、作家としての地位を確立する。
1894年(明治27年)、腸チフスにかかり死にかけるが、翌年に結婚。それ以降の数年で『ひげ男』(1896年)『新羽衣物語』(1897年)『椀久物語』(1899年~1900年)を発表。また当時としては画期的な都市論『一国の首都』(1899年)『水の東京』(1901年)も発表する。

1937年(昭和12年)4月28日には第1回文化勲章を授与され、帝国芸術院会員となる。1947年(昭和22年)7月30日、戦後移り住んだ千葉県市川市大字菅野(現:菅野四丁目)において、満80歳で没。墓所は池上本門寺。戒名は、露伴居士。
死後、墨田区寺島町にあった露伴が長く住んでいた民家の老朽化が進み取り壊された時に、その跡地に公園が建設される事となった。公園は1963年(昭和38年)4月24日に完成し5月上旬に開園式が行われ、「露伴公園」の名前が付けられた。」


いろいろ、当時は、大変なことだ。
人生は、仕事を放棄したとは、面白い。

何か、今、変わらないことかもしれない。
仕事は、食える仕事から、自分の好きな事、
それが、商売になるので、苦悩、いろいろ。
人生は、解らないものだ。

最初の文化勲章か、それと、池上本門寺に、墓があるのか。
何か、いろいろ、面白い人生、ドラマになる、人かもしれない。
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難しいことだ。

2016年10月05日 02時47分03秒 | ニ言瓦版
それは、下がるは。
ポンドの価値が消える、戦勝線みたいものだ。
EUにいるから、価値が合った。



「4日の外国為替市場で英ポンドがドルに対し約30年ぶり安値をつけた。英国が欧州連合(EU)単一市場へのアクセスを失う「ハードブレグジット(ハードな離脱)」に向かっているとの懸念が強まった。

ポンドは離脱を選んだ6月下旬の国民投票後の安値を更新。対ユーロでも3年ぶり安値を付けた。メイ英首相が週末に、離脱のプロセスを2017年1-3月(第1四半期)中に開始すると表明して以来、主要16通貨全てに対して下落している。交渉において金融サービス業界の保護を優先課題としない考えだと伝えられたことも不安を高めた。

ラボバンク・インターナショナルのシニア為替ストラテジスト、ジェーン・フォリー氏は「離脱のプロセスが始まりつつあり、『ハードブレグジット』になるかもしれないという現実を市場が認識した」とし、金融セクターを例外視しない政府姿勢は英国の成長と投資、雇用への懸念を深めると付け加えた。

ロンドン時間午前10時30分現在、ポンドは0.7%安の1ポンド=1.2747ドル。一時は1985年以来の安値となる1.2740ドルを付けた。対ユーロは0.4%安の1ユーロ=87.62ペンス。一時は2013年8月以来の安値まで下落した。」



ただの、小国の国の金である。
結局、ポンドが、下がれば、連鎖反応で、下がるのと、逆に上がるのは、
それは、円だろう。

まだ、ユーロも、いいが、難しいのは、ドイツの銀行の負債が、何処ので、
世界の銀行に影響するか。

価値は、ドルか、円か。
中国の金など、誰が、保有するの、怖いことだ。

世界の金は、何処に、行くのか、資源の国の金は、ありえない。

難しい局面だろうな。
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2016年10月05日 02時39分35秒 | ニ言瓦版
考えると、外交一つで、天と地。
武器かないと、それは、防衛できない。
軽率なことしたものだ、今後。
中国か、ロシアの属国になることかもしれない。



「暴言で知られるフィリピンのドゥテルテ大統領は4日、マニラで演説し、オバマ米大統領に対し「地獄に落ちろ」とののしった。また、米国がフィリピンに一部兵器の販売を拒否していることについては、ロシアと中国から購入できるとし、米国の方針をあしらった。

ドゥテルテ大統領は、米国がフィリピンを裏切ったため外交政策を再調整しているとし、いずれ「米国と決別する」と断言した。「決別」の意味するところは明確ではない。

さらに、米国や欧州連合(EU)が自身の進める麻薬撲滅対策に批判的であることについて、米国はフィリピンを後押しすべきと非難し、「オバマ氏よ、地獄に落ちろ」とした。EUに対しても「地獄はすでに満員だ。私がEUを恐れる理由などない」と述べた。同大統領の麻薬政策によって、これまでに多くの死者が出ている。

米国がフィリピンにミサイルを含む一部兵器の販売に消極的となっていることについては、ロシアと中国は兵器供給に前向きとし、「(米国が)武器を売りたくないのであれば、ロシアに頼む。ロシアは『心配することはない。フィリピンが必要とするものはすべてそろっており、供給しよう』と言っている」と語った。中国も「署名すれば、すべてを用意する」としていると言明した。」



あの海峡は、もう、中国のものだろう。
馬鹿な大統領で、自滅する。
フィリピン。

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