二言瓦版

「復讐は神に所属する。」 「旧約聖書」


暇つぶしの記事、名言、珍言、コラムの批判。
株式の名言など。

寂しい

2014年05月19日 07時39分02秒 | ニ言瓦版
残念だ。
相撲界を復活させた人。



「大相撲の元大関魁傑で、日本相撲協会の前理事長として不祥事に揺れた相撲界を立て直した前放駒親方の西森輝門(にしもり・てるゆき)さんが18日、死去した。
66歳だった。都内のゴルフ練習場で倒れ、搬送先の病院で死亡が確認された。告別式は24日午前10時、東京都中野区中央2の33の3宝仙寺。

 審判部長、巡業部長などの要職を務め、2010年8月に野球賭博問題で辞任した武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)の後、理事長に就任した。11年2月に八百長問題が発覚すると、春場所開催を中止するなどして解決に奔走。公益財団法人化に向けては、年寄名跡改革などにも取り組んだ。

 山口県岩国市出身。1975年初場所後に大関に昇進。1度は平幕まで陥落したが、77年初場所後、2度目の大関に昇進。79年初場所限りで現役を引退し、放駒親方として横綱大乃国を育てた。




結局、もし、彼が、いなかったら、相撲界は、存在も危ない。

相撲界は、いい人材をつくり、消えていくのかもしれない。
昔の部屋の教えが、生きていたのかもしれない。

八百長のない、真剣勝負。
だから、大関陥落して、まだ、大関。
これが、力がないと、負け越して、勝つと、復活。
普通のことである。

勝つ勝負の相撲が、正しい。

御冥福をいります。


===========

魁傑の相撲界に入る過程か、面白い。

「山口県岩国市に生まれ、小学校3年生まで岩国市で過ごし、その後は日本大学文理学部に進学するまで下関市で過ごした。下関市立日新中学校時代に柔道を始め、山口県立下関中央工業高等学校では柔道部の主将になった。講道館で行なわれた紅白試合で6人抜きを達成して講道館3段と銀盃が与えられるなどの実績を挙げ、特待生として日大に進学した。一方、その素質を見た後援者の薦めで、花籠親方(前3・大ノ海)がスカウトに動き、1年生の夏休み前に本人を部屋に呼び出し、「相撲部屋に入門する時は、花籠部屋以外には入りません。」なる誓約書を書かせた。本人は相撲取りになる気など更々無く、ならない花籠部屋に入る事も無いという気持ちで書いたが、この誓約書で花籠親方が両親を口説き落とし、青森県警の稽古のアルバイトから帰った本人を相撲取りになる様説得した結果、嫌々ながら相撲取りになる事を受け入れ、日大を1年で中退して花籠部屋に入門し、1966年(昭和41年)9月場所で初土俵を踏んだ。

初めて番付に載った11月場所では、序ノ口を7戦全勝で優勝し、翌1967年(昭和42年)1月場所では、序二段で6勝1敗の好成績で、3月場所には三段目に上がった。しかしどうしても相撲に馴染めない為、その年の8月末に部屋を脱走して従兄弟の家に隠れたものの、すぐに追っ手に発見され、部屋に連れ戻された。今度こそ相撲取りを辞める決心を固め、親方に「辞めさせてください」と挨拶したが、「大勢の反対を押し切って相撲取りになったのに、1年で辞めるなら、その人たちに「もう辞めました」と挨拶して来い」と言われ、今更柔道界に戻ることも出来ないと諦め、部屋に残る事にした。三段目でも7戦全勝を記録し、1968年(昭和43年)3月場所で幕下に昇進したが、そこから少し伸び悩み、十両昇進は1970年(昭和45年)1月場所まで11場所を要した。その場所では、場所の直前に風邪を引いた事もあって4勝11敗と大きく負け越し、2場所幕下に下がって再び十両に返り咲いた。またこの年、花籠部屋に輪島が入門してきた。

当初は本名の西森(番付では森は木冠に冫人で書かれた)を名乗っていたが、十両に昇進すると花錦という四股名に改名した。しかし本人は、花錦は自分には合わないとして嫌っていた。後に改名することになった際に女将さんによって魁傑と命名されると(実際には、本人の昼寝中に新しい四股名を女将から複数提示され、寝ぼけながらも別の候補を選んだが、昼寝から覚めると魁傑に決まっていた[1])。最初は戸惑ったものの、これが昔中国で活躍した武将の名であることを知って大いに気に入ったと言う。

1971年(昭和46年)9月場所に新入幕、この場所は7勝8敗と負け越すが幕内にとどまり、11月場所は千秋楽まで8勝6敗と勝ち越していた。千秋楽の日、病床の父親から珍しく応援の電話が入り、電話を切って10分後に母親から「お父さんが死んだ。」との電話を受け、気持ちの整理が付かないまま土俵に上がったものの、黒姫山の強烈なぶちかましに突き飛ばされた。すぐに郷里に戻り、葬儀を行ったが、その時葬儀場に並んだ山口県知事や岩国市長、後援会長や相撲協会などからの花輪が並ぶ盛大な葬式を出せたのを見て、初めて「父親に薦められて相撲取りになったからこそ、これだけ盛大な葬式を出して恩返しする事が出来た。相撲取りになって良かった。」と感じ、以後は相撲に熱が入るようになった。

続く1972年(昭和47年)1月場所は7勝8敗に終わったが、3月場所は絶好調で、横綱・北の富士とこの場所大関獲りとなる関脇・長谷川らを倒して12勝3敗、長谷川との優勝決定戦では作戦にはまって負けて初優勝はお預けとなった。この頃から輪島、貴ノ花らと並んで「阿佐ヶ谷トリオ」として注目され、特に魁傑は、そのまじめな性格と朴訥とした優しいお兄さん的な顔立ちが女学生に受けて絶大な人気を博した。

1972年5月場所は新三役となる小結に昇進して11勝を挙げ、輪島・貴ノ花・三重ノ海らと共に次代を担う大関候補として「貴輪三魁」と称された。また、この場所のエピソードとして、9日目に大関・大麒麟との取組でマゲを引っ張られ反則勝ちとなった一番がある。その後二年間は三役に定着し、何度も二桁の成績を挙げて大関目前とされながら、なかなか壁を越えられなかったが、1974年(昭和49年)11月場所には西張出小結で12勝3敗、輪島の援護射撃もあって相星で並んだ、決定戦で弱いと評判の横綱・北の湖との優勝決定戦で一方的に突き出して初優勝[2]。翌1975年(昭和50年)1月場所でも11勝4敗の好成績を収め、3場所通算で30勝15敗+優勝1回の好成績により大関に推挙された。なおその2場所前の1974年9月場所で魁傑は7勝8敗と負け越している。年6場所制以降、大関昇進力士で大関昇進前3場所間に負け越しの場所があるのは他に若羽黒がいる。

2度の大関昇進[編集]

新大関となった1975年3月場所は11勝4敗、翌5月場所は12勝3敗でこの場所は優勝した北の湖を千秋楽に撃破して2敗とした。優勝1点差で準優勝となり、綱取り場所となった7月場所は8勝7敗と不調。肘の故障で得意の攻めが出せず、続く9月場所、11月場所は2場所連続で6勝9敗と負け越して大関から陥落した。1976年(昭和51年)1月場所は10勝以上で大関特例復帰となったが結局7勝8敗と負け越し。同年5月場所には平幕の前頭6枚目まで下がったが、10勝5敗と敢闘賞を受賞した。

しかし9月場所では前頭4枚目で14勝1敗を挙げて2度目の優勝(元大関の平幕優勝は史上初)、11月場所には関脇に復帰して11勝4敗、1977年1月場所も11勝4敗の好成績を収め、3場所通算で36勝9敗の好成績により若三杉と共に大関推挙を受けた。本来大関推挙を伝える使者が来るのは1度きりのところ、返り咲きとなる魁傑にも使者が送られた。当時魁傑本人はその時「一度大関の名を汚しちゃったので、(口上で)何と言えばいいのかなあ」と言っていたらしい。なお、現行の「大関は2場所連続負け越しで関脇に陥落、直後の場所で10勝すれば即復帰できる」という制度ができて以降、大関陥落の翌場所に10勝を挙げられず後に大関復活を果たし、さらに2度も大関推挙を受けた力士は、現在まで魁傑ただ1人のみである。

しかしながら大関に戻ってから2場所連続で8勝7敗の成績が続き、その上またしても肘の故障に悩まされ、1977年7月場所で6勝9敗と負け越し、9月場所も5勝10敗と連続して負け越してしまい再び大関から転落。大関から関脇へ2度も陥落した力士は当時魁傑が史上初めてで、1977年11月場所で再び大関特例復帰を目指したが、6勝9敗と又しても負け越し。その後魁傑は3度目の大関昇進(2度の大関復活)を目指すも、1978年(昭和53年)5月場所で小結に復帰するのが精一杯に終わり、好成績を挙げる事は殆ど無くなった(ほか貴ノ浪と栃東も2度大関陥落、その内栃東が史上初の2度大関特例復帰を果たした)。大関再陥落後も魁傑は横綱や大関との名勝負を繰り広げたが、1979年(昭和54年)1月場所11日目でついに現役引退を表明した(4勝7敗、引退当日の不戦敗は除外)。初土俵以来一度の休場もなく、引退発表の席では「13年間、精一杯にやって来て、悔いは無い。」と笑顔で語った。

印象に残る取組として、引退する前年の1978年3月場所7日目、大関旭國との対戦で水入り、再水入りでも勝負がつかず、両者に休憩時間を与える為に当日の結びの一番(北の湖敏満 - 青葉山弘年戦)を先に行った後、10分後改めて取り直し。その取り直しの一番もまた三度目の水入りとなる寸前に掬い投げで勝ち、合計10分19秒にわたる大熱戦の一番がある。ちなみに魁傑はこの一番の前日の6日目、大関若三杉とも水入りの相撲を取っており(この時は敗戦)、旭國も膵臓炎で場所前に退院したばかりであった。

度重なる負傷により、好不調の波が激しかった。特に左肘の状態がひどく、このために大関から2度陥落したがその負傷さえなければ横綱になっていたという評価は現在でもある。「休場は負けだ」との名言を残し(「試合放棄だ」と言ったこともある)、不調で黒星が続いても決して休まず戦う姿はファンの人気を集め、誠実な土俵態度とあいまって力士の手本と評され名大関と呼ばれた。また腰が高いという欠点もあって、相撲解説者・玉の海梅吉は、四股名をもじって「魁傑は未解決だね」と言っていた。どうやら強弱の差が激しく、強みと弱みが表裏一体であるといった意味だったらしい。同郷である元首相の佐藤栄作が、現役時代の後援会長を務めていた。」



花籠親方(前3・大ノ海)氏は、凄い、人の見る目がある人だった。
「輪島・貴ノ花・三重ノ海らと共に次代を担う大関候補として「貴輪三魁」」

初代の貴乃花、初代の若乃花と、あの世で、相撲の話しているかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする