チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

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 西部邁師の論(19)。コモンセンス:チャンネル桜・瓦版

2016-06-17 15:37:10 |  西部邁師の論
      <西部邁師の論(19)。コモンセンス>

 他者の言い分を理解するにつれ、そう簡単に折り合いのつかぬ、いくつもの意見が、存在することになる。

 そして、他者理解が、価値判断を、ぜひもなく要求することに気づく。

 なぜといって、自分の精神のうちに入りこんできた、何人もの他者たちの間の優劣判断を、とりわけ他者たちを理解する以前の、自分と彼らの間のそれを下さなければ、自分が、分解してしまうからである。

 その優劣を、科学が決めてくれるというのは、『虚偽』だということは、分かっていた。

 科学は、何らかの『前提』のもとに出発し、何らかの枠組みの中に収められ、何らかの方向へと発展させられる。

 そして、その前提・枠組み・方向は、「科学以外。」の判断によって定められ、その科学以外のものが、科学の成果の優劣を、おおよそ決めるのである。

 その物事の優劣を決める肝心かなめの基準は、つまるところ、人々の間で、「長期間。」にわたって共有される、「コモン・センス。」(共同の感覚、および共同の意味)だということになる。

 そいう常識があるとしなければ、錯綜している、さまざまの感覚・意味を、整序できないのである。

 そう分かって以来、価値の多様性とか意味の差異性を、呑気に主張する人々の表情に、エゴティズム(自己中心主義)をみるようになった。

 つまり彼らは、他者の抱いている、自分のとは異なる感覚・意味・価値に、実は、何の関心もないのである。 それで、彼らの精神は、葛藤から無縁でいることができているわけだ。

 だから、彼らの唱える、個人主義や自由主義は、他者への冷酷な無関心と、隣り合わせになっている、と言わざるをえない。

 そうでないとしたら、彼らは、価値判断の問題に、いいかえれば、道徳の問題に死活の覚悟で、取り組んでいるはずである。

 あまりにも、多くのエゴティストに会ってきたせいで、他人が、私に無関心であり、私の行ったことに、馬耳東風であることについては、さしたる嫌悪は感じない。

 ただ、自分にのみ関心があるという、私自身の精神状態が、おぞましいものに思われ、いつのまにやら、「他人のことを、理解しようとしている、自分がいる。」と、考えるようになったのである。

 コモンセンスとは、何かと尋ねているうち、少なくなっているとはいえ、コモンマン(普通人)とでもいうべき人がいて、そういう人々と世間話をしているときに、「コモンセンス。」を、濃く感じ取ることができた。

 同時に、状況の最先端にいて、のるかそるかの決断をしている人々が、いわば限界状態のなかで、喘ぐように欲しているのが、古典群からの知恵であり、普通人からの『激励』であることも察しられた。










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