<死生論>
先日、『源氏物語・新訳』シリーズを執筆した林望(りんぼう)さんの講演を聞いたときに、アルフォンス・デーケン先生を推奨されていたのです。
ということで、今回は、『死生論』についてであります…。
(1)、P・アリエスの死についの著作、『死と歴史』に、【 前近代にあっては、家庭をはじめとする、身近の人間関係の内に、抱え込まれていた「死」が、近代社会の訪れとともに、忌み嫌われるようになり、それにつれて、死にゆく者たちが、病院の中に、隔離されるようになった。】
と説明されている。
そういう整理の仕方は、間違ってはいないが、古代においても、中世においても、死というものは、いかにも、不可思議な、説明あたわずの出来事、だったのであるから、それだけでも、死というものを、忌わしく思う、気持ちを拭うことは、できなかったのではないか?
とはいえ、そういういまわしいものに、向かって進んでいるものとしての、『生』を肯定せざるを、得ないわけだから、というより、生がなければ、死もありえないわけであるから、生の肯定に引きずられる形での、「死の肯定的な、抱え込み。」というものが、あったであろう。
死後の世界を想定したり、死者の黄泉がえりを、想像したりするということである。
つまり、死を拒否するか、受容するかの「二者択一。」だはなく、死を意味すると同時に、迎えるという「両面性。」から、人間は、離れられないのであり、その点においては、前近代と近代に、基本的な差はないのだ。
(2)、バラモンの徒は、「輪廻転生。」を、信じています。(これはリサイクル理論であります。)
次に、キリスト教では、死んだ後、もう一度、「再度の審判。」があり、「二度死ねる。」といいます。
そして、天国か地獄行きが、決まり、戻ってこない、「一方通行。」であります。(キリストは、復活できます。)
「御釈迦さんは、死んだら、極楽とか無いと、言っているよ。」とM・N(元・中之島支店長)さんは、言ってました。
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