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 西部邁師の論(26)。ルネッサンス:チャンネル桜・瓦版、(売国)朝日新聞・NHKの解体を!

2016-07-04 10:35:50 |  西部邁師の論
      <西部邁師の論(26)。ルネッサンス>

宗教からの『離反』と宗教への『欣求』は、現代まで続いているといえます。

 14世紀から16世紀にかけての時期を中心に、イタリアが主舞台となって、古代のギリシャ・ローマの文化にルネッサンス(再生)をもたらそうとする活動がヨーロッパ諸国において展開された。

 中世ヨーロッパのカソリック主義という宗教的規範やゲルマン主義という社会的規範が、ルネッサンスにおいて拒絶されたとみるのが通説である…。

 ホイジンガのように、ルネッサンスに中世的なものの延長(つまり「中世の秋。」)とみる見方もあるが、一般には、ルネッサンスにおいて「人間と自然。」の再発見が行われたのであり、その意味で、ルネッサンスは『近代』の曙に当たると考えられている。

 この通説は、しばしば人間とその社会に関する低俗な理解をもたらしている。

 つまり「人間の再発見。」とは「うるわしき人間性の再確認。」のことにほかならぬとされ、従ってルネッサンスの最大の意義は「人間性の礼賛。」としてのヒューマニズムを押し出した点にあるとする、それがルネッサンスにたいする通俗の理解なのである。

 「自然の再発見。」についてもしかりであって、人間性の一部である「合理性。」を礼賛するという視点に立って、ルネッサンスに科学的精神の誕生を見るという通俗の見解が罷り通っている。

 こうしたルネッサンス論の泰斗(つまり権威者)として普通、ヤコブ・ブルクハルトの名が挙げられる。

 しかし彼の『イタリア・ルネッサンスの文化』をこの文脈に位置付けるのは、滑稽きわまる所業というしかない。

 「そうだ、われわれイタリア人は特に無信仰で邪悪である、とあからさまに述べているマキャヴェッツリのような思想家。」が「ルネッサンス文化の頂点における国民の政治的不幸は、その非常な風紀退廃と結びついている。」と見抜いていた、とブルクハルトにはわかっていたのである。

 《人間の美徳と背徳が、そして社会の調和と混乱が、それぞれ平衡を求めて渦巻いていた》というのがブルクハルトのルネッサンス解釈なのだ。

 その解釈にして正しければ、そこに人間礼賛や社会進歩のモデルを見出すのは間違いだということになる。 

 この種のモデルを使って「暗黒の中世から光明の近代へ。」といったような歴史的段階の区分けを行い、その分水嶺がルネッサンスであるとみなしてきた、それが我が国の多くの知識人における歴史観であった。

 そんな歴史観は詐話も同然であると、そろそろ知るべきではないのか?

 ブルクハルトによれば、「ルネッサンス人。」は「宗教的な罪の意識。」を持たず、それゆえに「宗教的な救済の必要。」を認めない。

 いや表立ってのそうした反宗教的な言動の背後で、「真の宗教制への強い衝動。」がうごめいていた。

 それがルネッサン期であった。

 この宗教からの離反と宗教への欣求は現代にまで続いているといえよう。

 その証拠に、この科学技術が絶頂に達した時代に、宗教的なファンダメンタル(根本)を求める動きが熱を帯びつつある。

 かの「アルカイーダ。」とて、その言葉の意味は、(武力的な)『基地』ということよりも、(宗教的な)『基本』ということなのである。



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