69年前の日本人の「アメリカ・ショック。」は、アメリカの量と力の物質文明に対して、日本人が、あまりに非文明であったからこそ、起こった、いわば、「文明ショック。」で、ありました。
それに対して、今、アメリカ人が、日本人から受けているショックは、今まで、文明という立場から、低く見下していた、日本には、アメリカ人の誇りである文明以上の、何かがある、ありそうだということに気付いた、「ショック。」であるということです。
いいかえると、日本の文明の根底にある『文化』というものの力を不気味に感じたということで、「文化ショック。」(カルチャー・ショック)と言うべき、ショックを感じている、ということです。
考えてみると、こういった例は、世界の文明の歴史、始まって以来、かってなかった「歴史的に、未曾有(みぞうゆう??)。」のことで、あるからです。
◇、むずかしい『文化』の認識
世界の歴史で、たしかに「歴史的な事件。」では、あったが、あとから見ると、歴史性のない、単なる、歴史的徒(あだ)花であった、と思われることが多々あります。 かってのナチズム、ファシズム、スターリン主義が、その例です。
今日の「日本ブーム。」が、歴史の徒花になるおそれも、多分にあります。
その理由は、文明の問題と違って、文化の問題は、当の日本人側が、よほどしっかりしないと、何が、本当の文化なのか?、日本の本当の良さなのか?、甚だ、分かりにくい、ということにあります。
文明についてなら、工業力、生産力、技術力、国民所得等々、いろいろ、これを、他と比較する、ものさしがあります。 だが、『文化』となると、そういう、簡単な比較の、ものさしがありません。
また、当の『文化』なるものの、実体も、つかみにくいわけです。 何故なら、文化とは、何より、『もの』よりも、その地域に住む人々の「生活習慣。」の問題であり、風俗伝統の中に、言わずかたらずに潜んでいる、人間の知恵(インテリジェンス)であって、それを「これが、文化だ。」という形で、明確につかみ出すことは、甚だ難しいことであるからです。
とくに、今日の日本のように、その生活慣習も近代化(アメリカ化)され、風俗も様式化し、伝統も、新旧渾然としているところでは、旧い後進地域での文化発掘のようには、簡単にいかないわけです。
いいかえると、「文化の認識。」は、日本人にとっての「自己認識。」の問題に、ほかならないわけですが、その自己認識が、今日の日本人には、極めて難しいということです。
だから、アメリカ人が、日本人から、「カルチャー・ショック。」を受けているといって、いい気になっていると、ウソの文化を、本当の文化と、思い違いするかもしれない。
やっぱり、日本人は、偉いと威張ったところで、日本人のどこが、偉いか分からないと、「空威張り。」に終わってしまうわけであります。
以上
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