文芸評論家の本多秋五が逗子で親交を深めた堀田義衛について、こんなふうに書いています。
私がはじめて彼を知ったころ、彼は毎日たいてい逗子の図書館へ行って本を読んでいる、とのことであった。(略)堀田義衛はおそらく、あれらの本の逗子第一の利用者であったはずである。 (「物語戦後文学史・完結編」より)
堀田義衛が逗子に住み始めたのは昭和23年ですから、現在の逗子市立図書館とは場所も内容も全く違っていたようです。
1949年(昭和24年)に市立図書館の前身である、逗子アメリカ図書館が開館しました。
GHQの呼びかけにより着工したもので、場所はJR逗子駅前の東寄りに位置していました。建物は進駐軍のカマボコ型の兵舎を利用したことから、通称“カマボコ図書館”と呼ばれました。正式な名称は確認されていないようです。開館の際の蔵書数は6百冊で、米軍寄贈の横文字の資料ばかりでした。図書館というよりも、集会場として親しまれていました。
1956年(昭和31年)に資料が増えて手狭になったこともあり、逗子小学校の校庭で使われていなかった給食場を改築して、移転することになりました。校庭を柵で区切って図書館敷地とし、「逗子市立圖書館」の表札を下げ、図書館正門としました。 (逗子市立図書館報マーメイド通信第40号より)
現在の逗子駅前
カマボコ図書館があったのは上の写真でいうと奥の方だったのかな
私がはじめて彼を知ったころ、彼は毎日たいてい逗子の図書館へ行って本を読んでいる、とのことであった。(略)堀田義衛はおそらく、あれらの本の逗子第一の利用者であったはずである。 (「物語戦後文学史・完結編」より)
堀田義衛が逗子に住み始めたのは昭和23年ですから、現在の逗子市立図書館とは場所も内容も全く違っていたようです。
1949年(昭和24年)に市立図書館の前身である、逗子アメリカ図書館が開館しました。
GHQの呼びかけにより着工したもので、場所はJR逗子駅前の東寄りに位置していました。建物は進駐軍のカマボコ型の兵舎を利用したことから、通称“カマボコ図書館”と呼ばれました。正式な名称は確認されていないようです。開館の際の蔵書数は6百冊で、米軍寄贈の横文字の資料ばかりでした。図書館というよりも、集会場として親しまれていました。
1956年(昭和31年)に資料が増えて手狭になったこともあり、逗子小学校の校庭で使われていなかった給食場を改築して、移転することになりました。校庭を柵で区切って図書館敷地とし、「逗子市立圖書館」の表札を下げ、図書館正門としました。 (逗子市立図書館報マーメイド通信第40号より)
現在の逗子駅前
カマボコ図書館があったのは上の写真でいうと奥の方だったのかな