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575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

己が踏む落葉の音に急かれつつ  遅足

2018年02月13日 | Weblog

岐阜県多治見市といえば虎渓山・永保寺。
あるいは多治見修道院が有名です。
この句を詠んだのは岐阜県現代陶芸美術館。
世界的な建築家・磯崎新さん設計の建物。
各地の近現代の陶芸作品を収集・展示しています。
私が気に入ったのは広い敷地のなかの散歩道。
なんじゃもんじゃの林のなかを奥さんと二人。他に誰もいません。
聞こえるのは自分たちの踏む落葉の音だけです。

もう一つ、おすすめは本町オリベストリート。
美濃焼にちなんだ古田織部の名前をつけた通り。
明治から昭和にかけて陶磁器の問屋が軒をならべ栄えました。
ここには、いまも当時を偲ばす商家や蔵が残っています。
昼食は、蕎麦屋さんの「井ざわ」。
人気のお店のようで列ができるほどでした。

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人気なき冬苑の鳩「く来るく来る」   等

2018年02月12日 | Weblog
冬の公園。人気もなくさみしい時間。
作者を見つけた土鳩が近寄ってきます。

人気のない鳩が「く来るく来る」と鳴く。
その感性をいただきました、と穗實さん。

鳩といえば一番よく見かけるのが土鳩です。
鳴き声は「グルグル」「クックルー」
また雉鳩もよく見ます。
こちらは「ホーホーホー」「デーデー、ポッポー」です。

なお、日本には、このほかにも何種類か鳩がいるそうですが、
南の島など限定された所にしかいないとのことです。

                   遅足


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屋根屋根のこゑをのみこむ冬の夜  晴代

2018年02月11日 | Weblog

「屋根屋根」の表現が良いです。
凍てつく寒い夜が怒りや悲しみを
吸いこんでくれるようです、と穗實さん。

一つ一つの屋根の下に、ひとつひとつの家族。
それぞれの生活があり息遣いがあります。
喜びと悲しみを胸に眠りにつく頃です。
マンションではなく、屋根のつづく街・・・
町をすっぽりと夜の闇がのみこんでいます。

昭和を思い起こさせる景色です。
ノスタルジーを感じました。

日本のように雨の多い地域では、屋根は勾配を持ち、
壁や戸口を雨から守るために軒の出も深く、
屋根の果たす役割は重要です。
日本建築は、ヨーロッパなどの「壁の建築」に対し、
「屋根の建築」と言われているそうです。

雨はあがりましたが、冷たい風がふいています。
北陸など昔の越の国では、また雪です。
春が待ち遠しいです。
                   遅足
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湯豆腐や頑固おやじの箸使い  狗子

2018年02月10日 | Weblog

齢をとれば手先が不器用になることは避けられません。
箸より匙のほうが良いと思うようになりました。
湯豆腐などはおたまを使っています。

このおやじさんは、まだまだ若いと箸に拘っているようです。
ちょっと悲しくユーモアのある句ですね。

  白帯のすでに弱気の寒稽古

同じ作者の句。
こちらにも人間を見るやさしく哀しい目が感じられます。
自分を客観的に見つめる目。
2つの句は、自画像かもしれませんね。
                   遅足
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教科書にも載った海幸山幸神話  竹中敬一

2018年02月09日 | Weblog

私が小学校に入った昭和14年(1939)、国語の時間でまず習ったのは「サイタ
サイタサクラガ サイタ」でした。
第4期国定教科書で「さくら読本」と言われ、昭和8年から昭和15年の間に
小学校に入った児童が使用したとあります。(ウイッキベギア 調べ)
この小学国語読本の第5巻に「二つの玉」と題して、海幸山幸の神話が載って
います。
私はこの神話をなぜか今でも覚えていて、どうしても、もう一度見たいと思い、
調べていたところ、やっと、 名古屋の鶴舞図書館で その復刻版を見つけました。
私たちの世代なら誰でも知ってたこの物語、今では忘れ去られているようです。
物語は、山幸彦が兄の海幸彦と猟具をとりかえて魚を釣りに出かけましたが、
魚は釣れず、そればかりか、兄の釣り針を失ってしまいます。困り果てていると
一人の翁が現れて、山幸彦を竜宮に導き、そこで、山幸彦は海神の娘と結婚。
釣り針と二つの玉を得て、兄を降伏させたというものです。
暗い世相の時代、海幸山幸神話には竜宮や魔法の玉など夢のような話が出てきて、
それに私ばかりでなく、多くの当時の児童が引かれたのでしよう。

小学国語読本の「二つの玉」の最初の部分を引用します。

「昔、火照命(ほてりのみこと)と、火遠理命(ほをりのみこと)といふ兄弟の
神様がありました。兄の火照命は、毎日、海へ出て魚を取り、火遠理命は、
山へいって、鳥や獣をとっていらっしゃいました。」

この物語は「日本書紀」、「古事記」にも出てきますが、教科書は「古事記」の
記述をもとにしているように思います。
「古事記」では、兄は火照命(海左知毘古-うみさちびこ)、弟は火遠理命
(山左知毘古-やまさちびこ)となっています。
「日本書紀」の本文では、兄は火酢芹命(ほのすせりのみこと)、弟は彦火火出見尊
(ひこほほでみのみこと)となっています。また「日本書紀」では本文の他に
「一書に曰く」といって異説も載せています。

古筆学者で絵巻物研究家の小松茂美氏によれば、「日本書紀」は 、官撰の国史
として宮廷での講義に用いられるなど、日本初の正史として、貴族の間で広く
読まれていましたが、「古事記」の方は近世まで殆ど日の目を見なかったようです。
「古事記」は 江戸時代、本居宣長らによって研究が盛んになります。

日本の各地に残る民間説話の中から「古事記」の場合はただ一つ、「日本書紀」
ではいくつかの異説も取り入れて編纂されています。
私がこれから取り上げるのは、この「記紀」以前に日本に伝わっていた説話です。

「海幸山幸」の物語は九州の宮崎に伝わる日向(ひゅうが)神話の中に出てくる話と
されていますが、私の故郷、若狭にも古くから独自の同じような伝承が残っています。
次回からは若狭の海幸山幸物語についてお伝えします。



写真は昭和8年から昭和15年の間に小学校で使われた国定教科書
小学国語読本 第5巻「二つの玉」より



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針供養    麗

2018年02月08日 | Weblog
今日、2月8日は一年間使った針を休め、折れたり古くなった針を供養する日だそうです。こんにゃくや豆腐に、使えなくなった針を刺して神社に納めると歳時記に書いてあります。

関東では今日、関西や九州では12月8日に行われることが多いとのこと。この日は針仕事をする職人さんもお休みするのが習わしだそうです。
針に感謝し、裁縫の上達を祈る日でもあるようです。

私は言えば、ボタンが取れた時くらいしか針を持たない不器用者。
母はとても器用で日本刺繍を趣味としていました。
小さい頃、体操服にゼッケンをつけてくれた時もとても美しく縫ってありました。高校の家庭科の宿題を手伝ってくれたことも。。。

私の結婚の時には日本刺繍でふくさや帯、半襟、着物など作ってくれました。
実家には日本刺繍の材料一式が残っています。
今は針を持つこともなくなった母ですが、一針一針縫った作品には今も力がこもっている感じがします。
いつまでも大切にすることが私なりの針供養かな?


                 針供養母の背中を思い出す   麗
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鳥肌に細かなあぶく初湯かな  能登

2018年02月07日 | Weblog

鳥肌の表現が気になりましたが、
冷えた体を熱い湯船に横たえた、
気持ちの良さが良いと思いました。
細かなあぶくがからだにつくのは炭酸泉。
この場合は違うでしょうね、と穗實さん。

そうですね。寒い夜に湯船に入ると
一面に細かな泡立ち・・・
産毛についていた空気が気泡になる現象です。
やがて泡はおさまります。
炭酸泉に浸かったような爽やかさもあります。

北陸は大雪。車のなかに取り残されたヒトも。
北國の雪はおそろしい力をふるうことも。
名古屋は雪曇りで、氷点下です。

             遅足
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中日歌壇 入選

2018年02月06日 | Weblog
中日歌壇に宗匠の歌を見つけました。
小島ゆかり選です!

水底にたてし濁りをうかびくるけむりのごとし冬の真鯉は

{評}
   動画のように場面が見える、冬の真鯉らしい光景を
   うまく捉えた力ある一首

おめでとうございます!
動画のように描ける表現力を磨きたいとおもいます。郁子
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看病の末の風邪ひき一人寝る   すみ

2018年02月06日 | Weblog

家族が順番に風邪をもらってきます。
お母さんは看病に忙しい日々・・・。
やがて看病の甲斐あってみんな元気に。
やれやれと気が緩んだのでしょうか。
最後にお母さんが寝込んでしまいました。

子どもたちは学校に。お父さんは仕事に。
昼間ひとりで寝ていることに。
ちょっとサミシイ気持ちです。

「おかあさん大丈夫?」と、帰ってきた子供の声。
夕食のお手伝いをしてくれれば、うれしいのですが、
私の母は男の子ばかり3人だったので、
女の子が一人いれば・・・と思ったそうです。

インフルエンザが猛威をふるっています。
A型に罹って治ったらB型にということもあるとか。
原始的ですが、マスク、手洗い、うがいが一番効果があるとのこと。
外出から帰ったら、まず手洗いを、と気を付けています。

                     遅足
                
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手の皺に初日頂く門(カド)の内  結宇

2018年02月05日 | Weblog

門の内。門の内側。庭などのあるちょっと広い空間。
初日を拝もうと庭先へ。
両手を合わせた時、つくづくと見ました。
なんと皺の増えたこと。
皺に初日を頂く、という表現に作者が加齢を
受け入れている姿が浮かんできます。

太陽はすべてのいのちの母。崇拝の対象でした。
朝、お日様に手を合わせて、
一日の無事を祈る姿を見かけました。
なんとなく真似をしたくなったのですが、
そういえば最近、みません・・・
                 遅足

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今日は立春   遅足

2018年02月04日 | Weblog
はやいものですね。もうお正月から一ヶ月あまり。今年もあと十一ヶ月。
今朝はよく晴れていますが、寒いです。
子どものころ、立春には卵が立つという話がありました。
何回か挑戦しましたが、ついに立ちませんでした。
あの話はホントだったんでしょうかね?

   立春の太初の青の下に立つ

玉子と言えば毎朝、茹で玉子をつくります。
ふたりで一個。半分づつ。
最近は目玉焼きをしません。
ふっと思ったのですが、「目玉焼き」って随分、残酷なネーミングですね。
ほかの命を殺さないと生きていけない・・・ちょっと悲しい性です。

   あさなさな玉子2つを料理する 目玉焼きとは 残酷な名


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またひとつ歳を重ねて根白草  郁子

2018年02月03日 | Weblog

1月4日が誕生日だった私。そうだなと共感。
根白草がセリだとは知りませんでした。
根白草は春の季語とありましたが、
あまり拘らないほうが良いのでしょうか、と穗實さん。

芹は春の七草の一つ。
七草は、せり、なずな、ごぎょう、
はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ。
これらの草には胃や腸を整えるなど作用があり、
正月七日には七草粥を食べる風習が昔からあります。

この句には、歳を重ねて、とありますから新年の句ですね。
昔は、お正月がくると一つ齢を取ると言っていました。

私の母は12月も押し迫った29日生まれ。
数日後には数えの一歳になるわけです。
祖父が正直に届けたのでしょう。
「年が明けてから届けていたら・・・」と恨み言を。

「夏の七草」をご存知ですか?
あかざ、いのこづち、ひゆ、すべりひゆ、
しろつめくさ、ひめじょおん、つゆくさです。
戦時中の食糧難の時にも、食べられる植物として、
選ばれた七草です。     

        

今日は節分。子どもが小さい頃には豆まきも。
私が鬼の役。いまでは鬼も福の神もいません。
そのかわりといってはなんですが、話題は恵方巻きに。

 テーブルにそっと置かれて鬼の面  遅足
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"重箱の隅を楊枝でほじくる"ような話 ⑵   竹中敬一

2018年02月02日 | Weblog

私の高校時代の友人、永田敏雄氏によれば、江戸時代、京都で名医と謳われた
高森正因 (たかもり まさよし) の子孫が若狭小浜藩の招きで藩医として、
小浜に移り、その高森家へ永田氏の母の妹さんが嫁いでいるというのです。

司馬遼太郎が「街道をゆく」のなかで、高森某と言っているように、高森正因に
ついて調べ始めたものの資料が殆どなく、彼は想像力を働かせて小説風に
仕立てたのだという。ただ、高森家の家系図が残っていて、これが一番の
手掛かりになったようです。

永田氏によると、高森正因は妻を娶らなかったため実子はなく、姉の子を養子に
貰い受けて高森家を継がせています。その子、つまり正因の孫に当たる案立
(あんりつ) が寛保3年(1743) に初代の若狭小浜藩の藩医として、召し抱えられ、
明治2年 (1869) までの五代に至る126年間、藩医の系譜が続きました。

永田氏から教えてもらった僅かな資料「近世畸人伝・伴高蹊 著」や彼の著書
「法眼 高森正因」を参考に断片的ながら、高森正因の履歴を作ってみました。

〇 高森正因の先祖は肥後国 (熊本県)の阿蘇大宮司三家(阿蘇、村山、高森)と
云われた。
〇 「近世畸人伝」では、高森正因は紀伊の国(和歌山県)で、江戸時代の寛永
17年(1640) に生まれた、と出ているが、永田氏は肥後国で生まれ、父が
  病死して、母と妹2人と、祖父のいる紀伊の国へ移り住んだとしている。
〇 正因は紀伊の国の藩医だった祖父のもとで漢方医学を学ぶ。
〇 京都に出て、伏見街道で病院を開き、評判となり、名医と謳われた。
〇 延宝7年(1679)、正因39歳の時、12歳頃の雨森芳洲が訪ねてきて、医者の
教えてを乞う。
〇 正因47歳の時、幕府医官の最高位である法眼(ほうげん) を賜った。
〇 和歌をよくし、詠歌20首を霊元天皇に献じ、「東蘭亭」の号を賜った。
〇 享保2年(1717)、76歳で亡くなった。

さて、司馬遼太郎の「街道をゆく〜壱岐・対馬の道〜」に戻りますが、江戸中期の
対馬藩の儒者、雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう)の記述の中で『芳洲は少年のころ
医者になろうとして、伊勢の名医 高森某という師匠についた。」と、あります。
しかし、正因は伊勢の名医ではなく京(または熊本)の名医で、伊勢の名医と
いう記述は誤りであることがわかって頂けたと思います。

もっとも、「街道をゆく」の流れの中では、高森某で十分で、いちいち詮索する
必要はないかもしれません。
司馬遼太郎の場合、芳洲が住んでいた今の対馬市厳原(いずはら)を訪れた旅の中で
朝鮮外交を担う役職を勤め、朝鮮通信使の外交官として活躍したその人物像に
スポットを当てて、司馬史観を述べることに重点が置かれているわけですから。

しかし、雨森芳洲の生誕地、滋賀県長浜市高月の雨森芳洲庵で見た芳洲の略年譜にも
「芳洲12 歳の頃、伊勢の名医 高森氏に医術を学ぶ」とあるのは、矢張り訂正して
「京の名医」とするべきだと思います。

写真は障害のある息子、健の「落書き帳」より
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志村ふくみ展  麗

2018年02月01日 | Weblog
以前から興味のあった志村ふくみの展覧会。今、長久手の名都美術館で開催されています。
エッセイ「一色一生」を読んで、いつか志村さんの作品を見たいと思っていました。

初めて美術館で作品を見て、その色彩の美しさに目を見張りました。植物染料だけで染めた美しい絹糸を手織で織り上げる手仕事のひたむきさ。多いに心動かされました。
植物の命をいただくという志村さんの真摯な姿勢にも頭が下がります。
どの着物の柄も美しすぎて甲乙つけがたいのですが、今の私には「橋姫」という源氏物語にも出てくる赤の着物に心惹かれました。
とにかく一度見て頂きたいです。冬眠から覚めます。美術館を出る頃には不思議なエネルギーが満ち満ちてきました。

今年94歳の志村さんの志は娘さんにも受け継がれています。色のパワーに圧倒された一日でした。

          春近し機織りの音響きけり   麗
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