575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

伊勢湾台風とテレビニュース ③竹中敬一

2017年10月17日 | Weblog
日本のテレビ界は昭和28年(1953)の2月、NHK東京テレビ局がまず、放送開始。
続いて 、同じ年の8月には民放初のテレビ局、日本テレビが開局。この後、
東京放送(TBS)の前身、ラジオ東京(KR) が昭和31年(1955)に放送を始めています。
当初、テレビは高額だったこともあって、庶民には高嶺の花。放送関係者の間では
テレビが一般家庭に普及するには、限界があると囁かれていたようです。
                             (電通 調査)

テレビの普及を早めたのは 、昭和34年(1959)4月 、皇太子ご結婚パレードを
NHKと民放局が 生中継したことです。「世紀の中継」と云われました。
テレビ受像機は一気に200万台まで普及。このお祝いムードが冷めやらぬ5ヶ月後、
伊勢湾台風が襲来しています。

CBCはTBSの系列ですが、この昭和34年の8月1日にJNN(ジャパン・二ユース・
ネットワーク)協定を結んでいます。
この協定には、ラジオ東京(現 ・東京放送)をキー局にCBCなど16局(現在は28局)
が加盟 。日本初の民放ニュース・ネットワークでした。
協定が結ばれて僅か一か月余り、伊勢湾台風報道は、この協定でその力を存分に
発揮しました。

新米の私も否応なく、放送時間ぎりぎりに追い込まれながら、台風関連のニュースを
幾つも手がけました。情報が乏しくとも、映像がなにも云わなくとも、訴える力を
持っていることを思い知らされました。
この一連の台風報道で私ばかりでなく 、皆んなのテレビニュースに対する取り組みは
以前より向上し、放送する内容も充実してきました。
私は記者クラブにも入って来ないような情報や、新聞が殆ど取り上げていないような
話題でも丹念に映像で追い続ければ、番組になると信じて、ドキュメンタリーの
道を歩むようになります。

一段落した後、現地で取材に当たったラジオニュースの先輩から色々、生々しい話を
聞かされました。
泥海の中に孤立した集落に向かう時には、どの記者も一升ビンに飲料水をつめて持って
行き、大変、喜ばれたそうです。ペットボトルのような便利なものはありませんでした。
ある記者は三重県木曽岬村(現・木曽岬町)の水没を免れた農家の屋根裏に一泊させて
もらい、取材に当たる一方、情報が入らない中、村人を集めて、最新のニュースを
伝えたことで、台風に関するデマ情報を打ち消して、皆んなを安堵させました。
愛知県海部郡飛島村で泊まり込みの取材をしていた先輩は 、ある青年に「女房が産気
づいた。何とか名古屋の病院まで運びたい。」と相談をもちかけられ、取材を中断。
上空に時々、飛来する自衛隊のヘリコプターに2時間近くも手を振り続け、やっと、
願いが叶えられたそうです。

「被災者の苦しみを思えば、2日や3日 、食べなくてもよい 」と、取材と同時に救助
活動も忘れませんでした。(その記者も今は故人です)どんなに時代が変わっても、
取材する者の心得として、しっかり受け継いでいかなければならないと思います。


「中部日本放送社報」(昭和34年11月号)
10月号に続けて11月号も伊勢湾台風を特集しています。
写真は被災町からのテレビ中継の模様。
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