おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「蘇我」駅~「姉ヶ崎」駅。その3。「村田川」。「八幡宿」。五所。(「房総往還」をゆく。第3日目。)

2020-02-19 21:41:13 | 房総往還
                        「村田川渡船場跡」解説板。
街道をはさんで両側に緑地帯(公園)があります。

          


 この地は、南房総と結ぶ房総往還の要衝でした。古来、村田川は下総国と上総国との国境で、防衛上の必要あってか、橋が架けられなかったといわれています。このため、明治20年(1887)頃までは船による渡しがありました。この道を古くから文人客をはじめ多くの人びとが渡って行きました。水戸黄門の甲寅紀行にも自ら川を越えたを記し、また、小林一茶も渡って行きました。
 康生2年(1456)10月、千葉氏の内紛で千葉宗家胤貞父子を滅した馬加城主馬加康胤は、将軍足利義政の命を受け追討に向かった一族の東常縁(古今伝授を受けた人)の軍に敗れ、市原市八幡で敗死し首を村田川岸に晒されたと伝えられています。また1868年4月江戸城明け渡しに不満な撒兵隊は江戸を脱走し木更津方面に集結した。いったんは勢力を盛り返し、追討軍と村田川・養老川を挟み激戦を交え、敗れて木更津方面へ退却しました。今は川筋もかわり元の川は埋め立てられて公園となり、当時の姿を偲ぶよすがもありません。

 市原市北部を流れる村田川は全長20.8㎞、八幡海岸の埋め立て地を経て東京湾に注ぎ込みます。現在の村田川は河川改修で旧川筋を直したものであり、昔の村田川はもっと蛇行し、暴れ川だったようです。

          
          
          
1880年代のようす。蛇行しているようすが分かる。      2010年代のようす。現在の村田川。上に旧村田川跡の緑道(公園)。 

来た道を振り返って望む。

車のナンバーも変わる。 「袖ケ浦」に。

現在の「村田川」を渡ると、「八幡宿」の街並みに入ります。

               下流方向(東京湾)。

「県道24号線」。 

振り返って望む。右手に庚申塔などいくつか。

「八幡宿商店街」。

「八幡宿駅入口交差点」。

その先のバス停で一休み。バス停名が行く手を示す(○)。

左手に分かれる道。
 現在は、この先で交差する「大多喜街道(通称)」と合流する道のようです。

     
1880年代のようす。          2010年代のようす。

その先、用水路に架かる朱塗りの太鼓橋。

                        

「八幡宿」方向を振り返る。

「金杉川」。

                     

「五所」の町に入ります。

                      

 ・・・中世においては千葉氏の勢力下にあったが、千葉氏の勢力が次第に衰えると、里見氏などの新興勢力の伸張を許した。現在の千葉市生実町に館を構えた小弓公方足利義明も、一時期この地に拠っており、その時の御所があったとされる場所は、五所という地名として残っている。
足利 義明(あしかが よしあき)
 室町時代後期(戦国時代)の武将。足利氏の一門。第2代古河公方足利政氏の子。第3代古河公方足利高基の弟。小弓公方を自称した。
 父と兄・高基が対立すると、下野国に移って名を足利義明と改め、下総国小弓城を攻撃して千葉氏家臣を破って同城を占拠する。そして、「小弓公方」を自称して古河公方と対立した。
 天文7年(1538年)、義明は軍を起こして下総国国府台に出陣し、北条氏綱と決戦を行った(第一次国府台合戦)。一時は晴氏・氏綱軍に対して優勢だったが、次第に劣勢となる。義明は氏綱軍に突撃するが、その反攻に遭って戦死した。 (この項、「Wikipedia」参照)

御所跡はこの先にあるようですが。

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