おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武「太田」駅~「福居」駅。その3。(「日光例幣使街道」。第3日目)

2018-07-20 21:47:38 | 日光例幣使街道
      (18:03)左手にある「宝性寺(堀込薬師)の門前には、「八木節元祖 堀込源太翁の碑」。                 
  

八木節について
 

「八木節」の概要について、百科事典では以下のように説明されています。
「世界大百科事典・平凡社」
 民謡。栃木県足利郡御厨町字八木(現、足利市)から出た名称。江戸時代に例幣使街道にあたってた旧八木宿でおこなわれた盆踊りで、もと越後の「新保広大寺くずし」の口説節が土着したもので、八木宿に近い山辺村堀込(現、足利市)に、通称堀込源太(本名 渡辺源太郎)という馬方の美声がこれをひろめたといわれる。
 大正の中期以降レコードによって全国的なものとなった。はじめ樽(たる)を縦にしてその鏡や胴をたたいて篠(しの)笛などを伴奏としたが、後には大鼓(おおかわ)や鉦(かね)などを加え、にぎやかな陽気なものとなった。なお、群馬県佐波郡玉村町には、古来「横樽音頭」と「縦樽音頭」が盆踊歌としておこなわれ、ことに縦樽音頭は源太の八木節の影響をうけて、八木節というようになった。なお、現在おこなわれる花笠踊りは明治初年に振り付けられたもの。
 歌詞は国定忠治や五郎正宗、鈴木主人(もんど)などが有名。その歌い出しは「アアー、さても一座の皆様方よ、わしのようなる三角野郎が、四角四面の櫓(やぐら)の上で、音頭とるとははばかりながら、しばし御免を蒙りまして、何か一言読み上げまする、文句違いや仮名間違いは、平にその儀はお許しなされ、許しなされば文句にかかるオーイサネ」 というのではじまる。

 このように八木節ルーツになったのは「新保広大寺くずし」であると考えられております。
 新保広大寺は、正式名を鶴嶺山新保広大寺といい新潟県十日町市に実在する曹洞宗の寺院です。「新保広大寺節」の発生は明らかではありませんが、寺領をめぐる紛争等が背景になって、寺の和尚と広大寺門前通りにあった豆腐屋の未亡人を題材にした戯れ唄としてつくられたようであります。
 「新保広大寺節」は瞽女唄として各地に伝わり、江戸時代の五大流行唄の筆頭と言われるほどになり、各地の民謡の発生にも関わるようになりました。
 「新保広大寺節」は各地に伝わると、元唄がアレンジされたり、その地の歌に唄いやすいところが取り入れられたりと、様々に変化し、「新保広大寺くずし」となります。
 江戸時代末、この「新保広大寺くずし」を日光例幣使街道の宿場として栄えた上州新田郡木崎宿へ越後より売られてきた遊女「おさよまたはおゆき」という女達が、望郷にかられ唄い、それが木崎節となり八木節へと変化していったと言われています。また一方、木崎より二つ先の宿場である八木宿でも遊女を中心に唄われていたと言われています。明治末期木崎と足利市を行き来する馬方らによって栃木県足利市に伝えられ、大正の始め、やはり馬方の堀込生まれの堀込源太(本名渡辺源太郎)が節回しなどを工夫し八木節を完成させたと言われています。
(以上HPより)

 「八木節」を全国的に広めた人物が八木宿近くに住む「堀込源太(本名 渡辺源太郎)」であることは間違いないようですが、発祥の地となると、群馬・木崎宿と栃木・八木宿との間で、本家争いがあるようです。
 いずれにしても上州、野州の国境付近、「日光例幣使街道」の宿場でのはやり歌で、それも宿場の、越後から売られてきた女「飯盛り女」たちの間で望郷の想いを込めて歌われていたものが「堀込源太」によって全国的に広まった、ということのようです。

堀込源太(1872~1943)
 源太は本名を渡辺源太郎といい、1872年(明治5年)1月29日、梁田郡堀米村(現在の堀込町)82番地で、源五郎の長男として生まれました。生家は貧しい小作農家だったので、源太は学校に行かないで、少年のころは子守り(小さい子どものめんどうを見みること)などをしていましたが、やがて家の仕事を手伝って働きました。父親の源五郎も芸事(「おどり」や「うた」)には理解があったので、源太も早くから芸事への関心を持っていたようです。源太は盆踊唄(盆踊りの時に神楽、神をまつるための音楽やおどり)なども上手で、のちに地方の劇団にも参加することになります。
 源太は18才の時結婚し、20才の頃、荷馬車引きになり、葛生の石灰を運びました。
 源太はこの道のとちゅう、荷物がからになると、かいばおけ(うまにえさをやるためのおけ)をたたいて、馬子唄や盆踊唄を唄いました。生まれつききれいな声の持ち主であったところから、彼が唄いながら通ると、道のそばの機織娘たちは一斉に手を休めて、聞きほれたということです。そして、いろいろな所の盆踊り大会などへ出場しては優勝をして、そのうち源太の名前は近くの村や町に広がっていったのです。記憶力(ものを覚える力)がすばらしく、同じ唄を2,3回聞けば必ず覚えてしまったといわれています。また、好きな唄を自分流に唄いやすいようにしていました。
 1907年(明治40年)8月15日の夜、源太が中心となり、上加子(いまの久保田町)で、盆踊り大会を開いたことがありました。このとき、テンポの早い源太の唄に人気が集まり、これがレコード吹き込み(レコードを作ること)のきっかけになったとのことです。
 源太の八木節がレコードとして売り出されたのは大正3年のことですが、当時の人々の気持ちに合うところがあったのでしょう。源太の八木節は多くの人のうわさになり、大変親しまれました。やがて、ラジオ放送の番組でも流れ、大正7年5月には浅草六区の萬盛館で、名人会のひとりとして出演することになりました。この時、源太は「足利音頭八木節」の題名を使っていました。そして神戸の吉原興業といっしょに各地をまわって唄うことになるのですが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で仕事がまったく出来なくなりました。彼が52才の時でした。
 東京から足利にもどった源太は堀米宝性寺まえに住まいを決めて、もう一度活躍する日を待ちましたが、彼の出番は失なわれたままでした。折りにふれて九州、北海道に招かれて出演することはあっても、もはや一番活躍したころの人気はなく、妻沼方面や、赤城山麓周辺(赤城山のふもと)の町村などで公演するだけでした。そして昭和18年12月18日、71才でその生涯を終えました。「芸は身を助ける(何かにすぐれた力を持っていると、生きていくための助けになる)」と言いますが、民謡歌手として全国にその名を知られるようになったのは、やはり源太がまれな才能に恵まれていたからでしょう。

(この項、「足利市立教育研究所」HPより。子ども向けの解説です。)

「例幣使街道」という標識。

「足利学校」等の史跡は北へ行った足利市街地へ。

(18:17)「ようこそ八木節のふるさとへ」。

「八木宿」。現在は「福居町」の一部となっています。

 (18:22)「八木宿」交差点の左角が「八木宿本陣跡」。「ライフスポット テラヤマ」(寺山商店)となっています。


                         

「例幣使そば荒川屋」天保7年(1837)創業、180年というお店。
                                         残念ながら開店時間を過ぎています。

(18:24)「八木節会館」。

 その前に「八木宿」という標識と判読不能な古びた解説板。
 

八木宿
 日光例幣使街道の8番目の宿場。宿場の周りに8本の松があったことより八木の地名が付いた。八木節ゆかりの地である。
 1845年時点では96戸542人で、例幣使街道の宿場町の中ではごく小規模なものであった。本陣・脇本陣は設置されていた。本陣は寺山家がつとめ、屋号は千代本を名乗った。しかし公家諸大名の宿泊は稀であったとされる。一般庶民階級は、公家諸大名が宿泊する宿場町を避ける傾向があったことから、一般旅行者を主たる対象とする宿場町であったとされる。
(「Wikipedia」より)

 宿内には当時の面影はほとんど見当たりません。左手に木々に囲まれた、曰くありげな建物。「島岡印刷所」。女郎屋跡と言われているらしいが。


                  

通りをはさんだ前の家の門。

広大な空き地と奥に古びた家。

左手に「母衣(ほろ)輪神社という変わった名前の神社。
 母衣(ほろ)は、日本の武士の道具の1つ。矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、後には旗指物の一種ともなった。

 「母衣輪神社」の創建は上古と推定され、倭建命が東国征討の砌りに、この地に駐屯され武具(母衣)を奉納し、天地地祗を祀り武運を祈願した神跡と言い伝えられる。八木宿の鎮守として特に例幣使参向に当たっては、その尊崇を集めた。

(18:29)右手に堂々とした商家。「こばた」とあり、たばこの販売所でもあったようです。


               

                      

 今回はここまで。ホームから赤レンガの建物が見えます。



                              

国登録有形文化財(建造物)トチセン(旧足利織物)
赤レンガ捺染工場

赤レンガサラン工場
 レンガ造の外壁と木造の内部軸組みからなる広大な工場棟です。
 建築面積は1,587平方メートルあり、6連ののこぎり屋根が連続してかけられ、大規模な工場内部の空間をつくりだしています。
 頂部まで立ちのぼる柱型と重厚な軒蛇腹とで縁取る妻壁の意匠や、出入口や窓などの大きな開口部を一石のまぐさ石で支える手法に特色があります。
 サラン工場同様、大正時代初期に設立された足利織物会社の輸出綿織物の生産を目的とした足利で最初の近代工業で、大規模な赤レンガ工場建築群としては、唯一現存している建物です。
※通常非公開となっております
HPより)


1880年代のようす。「母衣輪社」の名が。


2010年代のようす。上方に「国道50号線足利バイパス」。
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