おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その3。ジグザクな道筋。「滑川家住宅母屋・長屋門」。椎柴駅。野尻町交差点。利根水郷ライン。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

2024-06-13 19:32:08 | 銚子往還

銚子市立椎柴小学校。

見事な槙の生垣。

右左折します。

             

  

桝形のような形状の道筋ですが、

かつては利根川沿いの道だったので、それと関連があるか、と。

庭一面に「かきつばた」。

バス停「野尻」。

※「野尻」は、野尻河岸に多くの河岸問屋が存在し、舟運で栄えた集落でした。

左手に大きな長屋門が見えてきます。

「滑川家住宅母屋・長屋門」。

滑川家住宅主屋

滑川家は所蔵している「家系譜」によると、応仁の乱(1467~1477)の時滑川内匠助がこの地に住み始めたと伝えられています。江戸時代に入り代々「藤兵衛」を名乗り、名主として海運業に従事していました。
主屋は木造瓦葺き2階建てで、主体部、座敷部、玄関(旧帳場)部から成り立っており、1873年(明治6)に建築されたことが確認できます。滑川家は江戸時代末期には日本橋牡蠣殻町に出店を構えており、座敷部は加賀藩前田家の下屋敷(現東京都板橋区加賀)建物を買い受け、移築したといわれています。座敷部の室内意匠と仕様は、上級武家住宅風の造りとなっています。

滑川家住宅長屋門

長屋門は、梁間3間、桁行8間半の木造平屋建て、屋根は寄棟造、桟瓦瓦葺きで背面西寄りの部分に幅1間の下家が付いています。建築年代は、天保年間(1830-1844)の飢饉の時に「救い普請」として建てられたといわれています。

多くの河岸問屋が存在していた野尻河岸において、舟運で栄えた集落の往時の様子を示す貴重な建物であると同時に、旧銚子街道に面しており、街路景観の重要な構成要因になっています。

 

来た道(「佐原銚子街道」)を振り返る。

バス停「椎柴駅」。

「椎柴駅」は、利根川歩きの初日、その帰途に利用した駅です。

 「椎柴駅」。

「国道356号(利根水郷ライン)」に合流します。

「野尻町交差点」。

               利根川沿いに進んできた国道を振り返る。

この付近の今昔。

                           (現在)西北からの黄色い線が旧街道。

利根川河川敷が広がる。

                           (1880年代)

野尻河岸があり、集落が形成されている。

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