おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

台風19号の爪痕。二子玉川。

2019-10-17 19:22:44 | 世間世界
多摩川の決壊・水害が報じられています。東急「二子玉川」駅の南側。かなり以前、このブログで取り上げたことがあります。再掲します。

二子玉川園。多摩川陸閘跡2011-06-28 20:49:08 | 歴史・痕跡

 東急田園都市線・大井町線「二子玉川」駅。かつての駅名は、「二子玉川園」。
 駅名は、駅の東側にあった「二子玉川園」という遊園施設に由来しています。戦前の1922(大正11)年に「玉川第二遊園地」や「玉川プール」などが開設され、行楽地として賑わいました。(「二子」という地名そのものは神奈川県川崎市高津区にある地名。多摩川をはさんであった左岸が東京都世田谷区瀬田に編入された。東京側は「玉川」)
 太平洋戦争中はパラシュート練習場が、海軍空挺部隊や陸軍挺進連隊の訓練設備として使用されました。戦後、玉川第二遊園地は、「二子玉川園」となり、フライングコースター等の施設や映画館なども設けられ、行楽地として栄えました。
 しかし行楽施設の充実や変化という時代の流れにはついていけず、1985(昭和60)年に閉鎖されました。その跡地にスポーツ施設やナムコ・ワンダーエッグ、いぬたま・ねこたまなどのテーマパークが建設されましたが、それも廃園。
 2000年代に入って、二子玉川駅東口から二子玉川園跡地にかけて再開発計画が進行しています。東口一帯に2棟のタワーから構成される大規模な商業地域・ホテル・住宅地域が建設されることとになり、駅前はかなり整備されてきましたが、東側の地域では盛んに工事が行われています。
 さて、今回、「二子玉川園」の痕跡を探ろうと、駅の東口に。見上げるほどの大きなショッピングモール、高層ビル。明るい広々としたロータリー、大型マンションなどが立ち並んで・・・。まだまだ大型工事中のところもあって、ちょっと想像した以上の大変化。西口が高島屋などの大型店舗が多くあって、賑やかな雰囲気。それに比べてあまりにも整然としすぎているような印象を。かつて、遊園地周辺には昔ながらの商店街があったとか。まったくその面影はありませんでした。
 東西に通じる道路(多摩堤通)も広く整備されています。その道路の多摩川寄りに芝生状のものに覆われた小高い丘が続いて、その土手の草刈りの作業が行われていました。炎天下の中での作業ですので、実に大変そうです。その土手が途中で切り取られ、そこに道路が通り、両側の土手の部分を赤い煉瓦で固めた箇所が、二箇所ありました。
 実は、これが多摩川堤にある「陸閘」です(それぞれ「東」「西」と名称がついています)。
 「陸閘(りっこう、りくこう)」とは、河川等の堤防を通常時は生活のため通行出来るよう途切れさせてあり、増水時にはそれをゲート等により塞いで、暫定的に堤防の役割を果たす目的で設置された施設だそうです。津波や高潮を防ぐ海岸線の堤防・防潮堤にあるゲート(防潮扉)も同じ役割をすることから「陸閘」と呼ばれる、とか。
 扉を人力や動力で閉じる方式や木板等をはめ込む方式など様々な方式や規模のものがあるそうです。天井川のある地域や海抜ゼロメートル地帯、港湾部に多数存在し、例えば、愛知県伊勢湾岸には数多くあるとのことです。
 この多摩川のものは、赤レンガで固めて鮮やかな朱色をしています。土手の部分には桜なども植えられていて、ちょっとした散歩道・自転車ロードのようになっていました。道路に並行して東はもう少し下流まで、西側は鉄道の高架線や橋などがあるためとぎれています。土手の上を歩くと、眼下には多摩川の岸辺近くまで住宅街が広がっていました。
 江戸時代、二子(多摩川の右岸・神奈川県側)は、矢倉沢往還(大山街道・現在の246号「厚木街道」)の渡船場でした。「矢倉沢往還」は、神奈川県南足柄市の矢倉沢方面から物資を運ぶための道でしたが、丹沢の大山信仰の登山口でもあったため「大山道」とも呼ばれました。
 江戸時代、博打と商売にご利益があるとされた「大山詣り」は大流行し、二子宿には、旅籠をはじめ多くの商家が軒を揃え、大いに賑わいました。また、江戸幕府への献上用としても好まれた鮎漁も盛んに行われ(鵜飼い)ていたといいます。
 明治40(1907)年になると、渋谷から対岸(東京都側)まで玉川電気鉄道が延び、多摩川をはさんだ二子の渡し周辺は、再び行楽地として注目を集めます。近郊の人々が多摩川を訪れ、旅館に泊まって田園風景や多摩川の風情を眺めたり、屋形船で鵜飼いを楽しみながら川魚を賞味して余暇を過ごしました。旅館が建ち並び、鮎漁・鮎料理、鮎寿司を看板にしている店々が軒をつらねた様子が記録に残されています。
 行楽地として賑わう反面、下流部に位置し、東京と神奈川両府県にまたがるため断続的な堤防しかないこの辺りは、古くから水害に苦しめられていました。
 大正3(1914)年8月9月、多摩川を襲った2度の大洪水が発端となって起きたのを契機に、国の直轄による「多摩川改修工事」が行われる事になりました。大正7(1918)年から竣工され、昭和8(1933)年度に完了した工事の対象区間は、河口から二子の渡しの少し上流までの約22kmです。
 現在残る世田谷区玉川1丁目から上野毛2丁目付近の堤防もこの時築かれますが、川辺に建ち並ぶ料亭などから「眺めが悪くなる」として合意が得られず、堤防と川の間に料亭や田畑を残す形に計画を変更しました。
 しかし、川辺の料亭や渡しへむかう人馬が、この堤防を越えていくのは大変です。そこで堤防の一部を削って通路をつくり、水位が上昇した時は手動で締め切って、水が流れ出るのを防ぐ仕組みの「陸閘(りっこう)」を設置したのです。一面から見れば、堤防内の人も住居も見捨てるということに? ま、その前に避難命令が出るでしょうが。考えてみれば、治水に対する生活の知恵 ともでもいうようなもの。
 近辺の宅地開発に、交通網の発達と関東大震災後の影響が拍車をかけ、都心から多摩川沿いの住宅地へと移り住む人々は急激に増え、世田ヶ谷の人口も、大正9年から昭和35年の間に16倍以上にもふくれあがります。昭和初期の航空写真には、料亭と田畑だけだった堤防と川の間にも家々が密集し、まちが形成されている様子が写っているようです。
 現在、堤防と川の間の住宅地を洪水から守るために、多摩川側に堤防を築く計画がつくられています。(以上、「京浜河川事務所」の資料を参照しました。)


1880年代のようす。多摩川の自然堤防が広がる。


2010年代のようす。左に「二子玉川」駅。「陸閘」のある土手が道路沿いに。

・・・

 今回の水害に見舞われたところは、この堤防と多摩川の土手(堤防ではない)との間にある住宅地が中心で、この堤防の外には被害が及ばなかったようです。
 しかし、この下流付近では多摩川に設置された水門を閉めたことによる下水等の逆流があって浸水被害が生じました。
 いずれにしても、元々は河川敷、多摩川の堤防もなく、さらにその外にある堤防で仕切られた土地という条件が被害を大きくしたのでしょう。

「今昔マップ」より。
赤で囲んだところ。

 自分の住む土地が元々どういう土地であったのか、その歴史的変遷を知ることが大事だと。
 利根川の決壊も、江戸の町を守るため、また水運のために江戸時代に掘削された「利根川東遷」にその遠因があるのではないか、とも。
 本来ならそのまま南下して江戸川、中川から東京湾に注いでいた水路を90度くらい屈折させて、東に曲げたわけですから、自然の摂理からすれば無理があったのでしょう。治水事業もその視点から見直すことも必要ですね。
 その面では、キャサリン台風の教訓から、新中川を掘削したのは先見の明があったというべきです(明治から大正にかけて掘削された「荒川放水路(現荒川)」―「隅田川」の洪水を防ぐ目的―)もそうでした)が、今ではほぼ不可能でしょう。さて、どうするか? 残るは「自己責任」、では困ります。

 

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