おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

間宿・岩淵。小休(こやすみ)本陣。常盤貴子。岩淵の一里塚。・・・(富士から新蒲原まで。その2。)

2014-12-30 21:42:18 | 旧東海道

 すばらしく晴れ渡り、富士山の雄姿が裾野から頂上まで一望できる絶好のポイント。

橋の上からの富士山。正面右奥の河川敷が「雁堤」に囲まれた地域。

富士山の右が、「愛鷹山」の稜線。

 富士はもちろん、すぐ脇に見えていた愛鷹山からもずいぶん遠ざかってしまった。

対岸の松岡側を望む。中央の緑が「水神社」の森。

             下流(河口)方向を望む。
             中央に見える鉄橋。一番手前がJR東海道線富士川鉄橋、最下流には新幹線橋梁。

 写真を撮るには、河口付近まで移動し、東海道線鉄橋、その下流にある新幹線橋梁を入れて富士山を撮るのが絶好のビューポイントらしい。
 たとえば、

       (「公益社団法人 静岡県観光協会」HPより)

 この他、ネット上にはすてきな写真がたくさん掲載されている。

 渡りきった土手の脇にある案内版。「間宿 岩淵・渡船場跡」。

 「富士市岩淵」は、かつては富士川町という、静岡県庵原郡に属していた町だったが、2008年(平成20年)11月1日、富士市に編入合併した。

 ところで、「富士川」を境にして、電力の周波数が東は50Hz、西は60Hzと異なっている。このため、この地域は、電力の周波数、電力会社は富士市(50Hz・東京電力)とは異なり、60Hz・中部電力管轄下。したがって、現在の富士市は50Hz・東京電力地域と60Hz・中部電力地域が混在している。

 どうしてそうなっているか?

 明治時代、電気をつくる発電機が日本に輸入されたが、関東にはドイツから50Hzの発電機が、関西にはアメリカから60Hzの発電機が輸入された。以来、日本では静岡県の富士川から新潟県の糸魚川あたりを境にして、東側が50Hzの地区、西側が60Hzの地区になってしまった。
 糸魚川~富士川は「フォッサマグナ」という、本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断する「中央地溝帯」。地質学的には東北日本と西南日本の境目とされる地帯。これとは関係があるのか?

 思い出されるのが、2011年3月11日の東日本大震災。
 これによって引き起こされた東電の福島原発事故。電力不足のため、計画停電にまでなった。
 原発事故対応には、応急電源として東北電力の電源を急遽回した。ところが、富士川をはさんで西東。ヘルツがことなるため、互いに電力を融通しあえない。あの時のような大地震や大事故に見舞われ、電力不足になったときに、もっと臨機応変に東西で対処できないのか。ヘルツの統一ができないのか?

 第二次世界大戦直後、復興にあわせて商用電源周波数を統一するという構想があったが、それぞれ復興が急速に進んだことで、実現がほぼ不可能になってしまった。そして、現在の日本では、供給側にとっては、周波数を統一する必要性はほとんどないようだ。

 周波数を統一するには、一方あるいは両方の地域の発電機をすっかり交換しなければならないうえ、周波数を変更する際に停電が伴ったり、さらに周波数に依存する機器を交換するか、それに対策を施す必要がある。そのため、現実的にはほとんど不可能に近い。

 緊急時に備えて、各電力会社間では電気の相互融通を行っている。異なる周波数の電力会社間での相互融通のためには、50Hzと60Hzの周波数変換を行う周波数変換所が設けられていて、電源開発の佐久間周波数変換所、東京電力の新信濃変電所、中部電力の東清水変電所の3箇所。けれども、両周波数間で融通できる最大電力は現状100万kW(2012年現在)。

 こんな訳ありの事情があった。

 その一端として、中部電力も東電もその他の電力会社も自前の電力確保にこだわり、当面の経済効率性とあわせ、原発再稼働になりふりかまわず、必死なのだ。再び福島原発のような大事故が起こることなど想定してはいられない。

旧東海道沿いにあった「中部電力」の社屋。

 さて、橋を渡り終えたら、道路を横断して右に少し進み、すぐ左の小道(坂道)を登って行く。このあたりは、「富士川」によって形成された河岸段丘上。
 地形的に見て、左岸(東側)は河岸段丘はなくて低地が続き、かつては田畑が多くあった。
 現在は住宅街になっているが、富士川下流、河口付近の氾濫原地帯として、長い時代、水害に悩まされたようすはうかがえる。したがって、近世の東海道も「吉原宿」から西は海岸付近を避け、いくぶん高いところを進んでいく。富士川の渡船場も河口付近ではなかった。

上り坂の途中から、富士駅方向を望む。

 右手にあった「常夜燈」。

  
   「小休本陣常盤邸」。正門の柱には、「西條蒋小休」と休憩している公家の名が掲げられている。

 土日祝日のみ公開されているため、残念ながら見学出来ず。

     小休本陣常盤邸の建築
   

 常盤家は、江戸時代初期から富士川右岸の岩淵村で、渡船名主(とせんなぬし)を務めてきました。岩淵は、東海道吉原宿と蒲原(かんばら)宿の間に位置する「間宿(あいのしゅく)」で、その休憩施設「小休本陣(こやすみほんじん)」の役割も果たしていました。ところが、安政の東海地震(1854年)で全ての建物が倒壊し、その後再建されたのが現在の建物で、小休本陣の特徴がよく現れています。
 玄関を入ると奥まで通り土間が続き、さらに正面の庇(ひさし)部分も前土間になっています。部屋数も多く、部屋境は障子や襖(ふすま)で間仕切られた開放的な空間です。奥の座敷「上段の間」は、最も格式の高い部屋で、大名などの賓客(ひんきゃく)のみが休憩することができました。通り土間の奥には台所があります。

(以上、「」より)

 なお、この邸宅は、女優の常盤 貴子(ときわ たかこ)の実家である常盤家所有のもので、紀伊徳川家が休憩のため利用した小休本陣として、静岡県指定文化財に指定されている。
                

 振り返ると正面奥に富士山。昔ながらの街道筋らしい雰囲気を味わえる。
      

 案内版も充実している。


 徳川家康の命によって「富士川」開削をおこなった「角倉了以」の碑などこの周辺は見所満載のようです。

「蒲原宿」までの道のり案内。

右手に「上水道築造記念碑」を見ながらまっすぐ進むと、「岩淵の一里塚」が見えてくる。

   

 日本橋から37番目の一里塚、「岩淵一里塚」(36番目は富士川渡船中に通過)。

史跡 岩渕の一里塚

 江戸時代に築造された東海道の里塚である。
 慶長9年(1604)2月、幕府は東海道の一里毎に、5間(約9メートル)四方の塚を築いて榎を植え「一里塚」と呼び大名等の参勤交代や旅人の道程の便を図った。
 この一里塚は、起点である江戸日本橋から三十七里目にあたる。
 この地は、岩渕村と中之郷村の村境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が立並んでいた。
 また、東側の塚の榎は虫害のため昭和四二年枯死してしまった。そこで昭和四五年三月、二代目を植えたものである。

    
    西側の塚。                   東側の塚。 

 ほぼ直角に曲がる地点にあり、絶妙なポイント。通行の邪魔になるからと伐採されず、よく保存されている。

振り返って望む。
 右が東の塚。左が西の塚。東西一対で残っているのは、珍しい。

ひときわ目立つ、西の塚の古木。

 続きは、年明けに。

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