おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「未明の闘争」(保坂和志)講談社

2015-01-04 11:51:44 | 読書無限
 幽冥の世界のお話。小説の冒頭から3行目の一文。
「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」??? 主語と述語のぶれ。こうした表現は随所に。語り手と主人公(登場人物)の意図的な不一致をはかっているところも。

 と、パソコンに打っていると、TEL。中年の女性の声で、「もしもし森ですけど先ほど来ていただいた」「どちらにおかけですか?」「何だ、間違えた」と電話口にいるだろう人に向かって言って、そのまま電話が切れた。
 これもまたこの小説の冒頭にある、夜明け前の「ピンポーン」、その後二度は鳴らなかった玄関先のベルの出来事と、とついかぶった。

 正月早々、はたして先ほどの電話の主はいったい誰か? 登録された電話番号のようだったが、・・・。

 池袋駅「ビックリガード五叉路」を取り巻く店舗の変遷や名称、信号が変わって交差点を行き交うたくさんの多くの人々のそれぞれの、事細かな描写。9年前の夢の鮮明な内容でありながら、内容は現在時点(執筆時点)。いきなり読者を引きずり込む手法(技法)は、手慣れたものとしか思えない、たぶん鼻につき、抵抗を持つ読者もいるだろう。すでに「未明の」という表題で種明かしがされていることも含めて。しかし、「闘争」とは何か? ここに作者の真骨頂がある。作家としてよりも人間としての。

 実は、たまたま、分厚い大判の「小島信夫短編集成⑧ 暮坂 こよなく愛した」(水声社)に載せられた小島信夫の最晩年の短編小説群を、並行して読んでいる。

 すると、文学上の師・弟子の関係であった両者の文学的「雰囲気」(あえてこういう)の醸し出す世界が広がっていく。



 生前、特に晩年の小島信夫の文章(執筆した小説を本人があえて「文章」という)は、たゆとうままにものし、編集者に校正を許さなかった、という。あたかもそうであるかのような「書き出し」。かつて書いた「カフカ的世界」でもあるか。

 いな、むしろ作者が初期の頃から追い続けている(こだわり続けている)「閾(いき)」の世界の具象化(言語化、文章化)。
 その通奏低音として、一人ひとりのネコたちとの出会いと生活、そして死、鎮魂曲を響かせている。今回は幼少期のイヌとの出会いと別れも語られているが・・・。

 さて、「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、

「閾」とは、
 広義にはやっと意識される境界刺激のこと。厳密には刺激を量的ないし質的に変化させた場合,ある特定の反応がそれとは異なった反応へと (またはある経験がそれとは異なった経験へと) 転換する,その境目の刺激尺度上の点のこと,ないしはこのような反応の転換の現象をさす。

と記されている。

 まさに「分明(ふんみょう)」ならざる「閾」への「闘い」が存在する。いいかえれば「未明の闘争」ということになるか。
 作者の常日頃の人生観、即ち、時空間的な世界、さらには森羅万象ことごとくを自在に行き来する、という存在感、世界観でもあろうか。それを物語世界に写し取った作品であった。

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