おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR高崎駅~前橋駅。その7。交水堰。比刀根橋。前橋空襲追悼碑。詩碑。・・・(「利根川を歩く。第6回目。)

2021-11-14 21:52:13 | 利根川を歩く

「記念館」を出て、「広瀬川」を上流に向かって歩きます。早瀬になっています。

「交水堰」。

広瀬川のこの辺りは、江戸時代に水運のための『広瀬河岸』があったところで、のちに水利の『十五本堰』が設けられました。

製糸業が大発展した明治時代には、水車や工業用水に利用され、大正時代に入って現在の形に改修されこの名で呼ばれました。「糸のまち」の王子をしのばせるこの堰は、今わたしたちのまち前橋を代表する魅力的景観のひとつとして親しまれております。

    

「弁天通り商店街」アーケード。

広瀬川に架かる「比刀根橋」。

比刀根橋の舗道の縁石には、今も昭和20(1945)年8月5日の「前橋空襲」の傷が遺されているそうです。

8月5日は前橋空襲の日です。前橋のまちは破壊と殺戮を出発点として出来上がっているんです - 猫のキキとヒゲおじさんのあんじゃあない毎日 (goo.ne.jp)

さんが先日、当ブログを訪問され、初めて知りました。この橋のそばに慰霊碑がある、とのこと。以下、ブログの一部を借用されていただきます。

・・・

広瀬川の比刀根橋の袂にある前橋空襲戦没者慰霊碑です。今日の午前9時からここで前橋空襲で犠牲になった皆さんの慰霊祭が開かれます。
そうなんです、1945年8月5日の夜の、このまちは米軍の大規模な空襲に見舞われたんです。72年前のことなんです。
この慰霊碑のある場所には、地域住民が共同で使う大規模な防空壕がつくられていました。そして、空襲時にそこに逃げ込んだほとんどの住民が死んでしまったのです。

比刀根橋の舗道の縁石には、今も空襲の傷が遺されています。

当時を知る人の話では、米軍の爆撃部隊は前橋上空に到達すると、円を描くように編隊飛行をし、照明弾を投下したそうです。前橋のまちは、真昼間のような明るさになったと言われています。

それから、焼夷弾の投下がはじまったそうです。
空襲のときにはまだ渋川のまちで暮らしていた青井食堂のおかみさんの話では、「八幡山の上から見てたんよ、前橋の空が真っ赤になって、燃え上がっているのを…」、渋川からも見えたんですね。
比刀根橋に近い愛宕神社の境内には、比刀根橋の回収の時に取り除かれた縁石の一部が保存されています。空襲の傷跡が残っているんです。
このお社の西隣に『柳座』という劇場があったんです。ここで直派若柳流美登利会は始まりました。伯母さんの初舞台もこの劇場なんです。

・・・

※小生が偶然撮った「比刀根橋」。写真からは確認することはできませんでした。中央左側の縁石にあるようです。

前橋空襲追悼碑。

比刀根橋北側(旧「比刀根橋防空壕」跡地) 建立:前橋市戦災被爆者遺族会

(この項、「」HPより)

前橋駅に向かいます。詩碑をいくつか紹介。

 

河畔の歩道が工事中のため、掘り返されたり、煉瓦が積まれたり、・・・。

             

朔太郎の詩句が刻まれた煉瓦も整備中。

 

            

「絹の橋」。

     

前橋は、江戸時代から「糸のまち」として発展し、横浜開港後は「前橋シルク」の産地として世界にその名を轟かせた。この広瀬川添いにも製糸工場が立ち並び、多くの女工さんたちが働き、この橋を渡って町でくつろいだ。「糸のまち前橋」が彷彿としてしのばれる大切な橋である。

この橋は、明治年間に木橋として架設された。その後、大正年間にコンクリートによる改修が行われ、この度日本で初めての「世界詩人会議」が当地前橋市で開催されるにあたり、装飾をほどこした改修工事を行い、それまで無名であったものを「絹の橋」と命名してその歴史を後世に伝えるものである。

両毛線・前橋駅。


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