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現在の鳴海宿には、当時のものは寺院以外は残っていないようですが、2009(平成21)年、高札場が復元されました。本町交差点を右折したところにあります。
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東海道 鳴海宿高札場(復元)
東海道鳴海宿では、江戸時代、宿場の中央にあたる東海道と鳴海駅前通りの交差点東北角に大きな屋ね付きの高札場が作られ、高札が掲示されていました(ここより南に約70mの場所)。
この高札場の図面や絵図などは残されていませんが、東海道宿村大概帳によると、高さ2間2尺、長さ3間、幅1間との記述が残されています(1間:約180m、1尺:約30㎝)。また、当時の高札8枚が名古屋市博物館に保管されています。宿場間の駄賃や人足賃を示した高札は、宿場町ならではのもので、当時の様子をうかがい知ることができます。
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《右の高札》
慶応4年(1868年)に出された「外国人への乱暴禁止」の高札。鎖国政策を廃し外国との交流を進める明治新政府の方針が読み取れる高札。
覚
今般王政御一新ニ付朝廷之御條理ヲ追ヒ外国御交際之儀被仰出諸事於朝廷直チニ御取扱被為成万国之公法ヲ以条約御履行 被為在候ニ付而ハ全国之人民叡旨ヲ奉戴シ心得違無之様被仰付候 自今以後猥リニ外国人ヲ殺害シ或ハ不心得ノ所業イタシ候モノハ朝命ニ悖リ御国難ヲ醸成シ候而巳ナラス一旦御交際被仰出候各国ニ対シ皇国之御威信モ不相立次第甚以不届至極之儀ニ付其罪之軽重ニ随ヒ士列之モノト雖モ削士籍至当之典刑ニ被所候条銘々奉朝命猥リニ暴行之所業無之様被仰出候事
三月 太政官
右之通被仰出之訖
弥堅可相守者也
名古屋縣
【訳文】
覚
この度王政復古となったので朝廷の筋道に従い外国と交流を表明された。諸々の事は朝廷が直接取り上げられ国際法を以って条約を実行されるので全国民は朝廷のお考えを謹んで戴き心得違いの無い様命ぜられた。今後みだりに外国人を殺したり不心得な事をした者は朝廷の命に反し国難を生み出すだけでなく、国交を始めた各国に対し天皇が治める国としての威信も立たない事となり大変不届き千万である。よってその罪の軽重に従い士族の者であっても身分を剥奪し、罪相当の刑罰に処せられるので銘々朝廷の命令を戴きみだりに乱暴な行為の無いようにと命令をなされた。
三月 太政官(だじょうかん)
右の通り仰せ出があったので、厳守すること。
名古屋県
《左の高札》
慶応4年(1868年)に出された「徒党・強訴・逃散を禁ずる高札」。この高札は、明治初年、今の内閣に相当する「太政官」が出したもので、新政府の方針のひとつを示したもの。
徒党・強訴・逃散を禁ずる高札
定
何事によらすよろしからさる事に
大勢申合候をととうととなへ
ととうしてしいてねかひ事
くわたつるをこうそといひ
あるひハ申合せ
居町居村をたちのき候を
てうさんと申す
堅く御法度たり
若右類之義これあらハ
早々其筋の役所へ申出へし
御ほふひ下さるへく事
慶応四年三月
太政官
右之通被仰出之訖
弥堅可相守もの也
名古屋縣
【訳文】
定
どんな内容のことであっても、よくないことに集団で企みをすることを「徒党(ととう)」といい徒党してお上(かみ)に要求を出そうとすることを「強訴(ごうそ)」という
さらにまた、相談して居住地を立ち去ることを「逃散(ちょうさん)」という
これらは堅く禁止する
もしも、右にあげたことが有ったならばすぐに関係の役所へ知らせよ 知らせたものにはご褒美をくださるであろう
慶応四年(1868)三月
太政官(だじょうかん)
右の通り仰せ出があったので厳守すること
名古屋県*
*(慶応四年の時点では、まだ尾張藩家老名で書かれていたものが、明治四年の廃藩置県で名古屋県が出来たのでその部分のみ書き換えられたものと推定されます)
(
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通りを挟んで高札場の反対側には、最古の芭蕉供養塔がある「誓願寺」があります。
東海道に戻った左側に「本陣跡」碑。
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鳴海宿本陣跡
鳴海は、江戸時代東海道五十三次の宿駅の一つとして栄えた。
宿駅には、一般の旅人用の旅籠屋とは別に、勅使・公家・大小名など身分の高い人が、公的に宿泊する本陣が置かれた。
鳴海宿の本陣は、ここにあり、幕末のころ、そのおよその規模は間口39m・奥行51m・建坪235坪・総畳数159畳であった。
なお、天保14年(1843)の調査によれば、宿駅内には、家数847軒・人口3643人・旅籠68軒(全体の8%)と記録され、当時の繁栄ぶりが推測される。また、予備の脇本陣は、2軒あった。
名古屋市教育委員会
通りの向かい側には、
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「作町」交差点を右折します。
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しばらく進むと、右手に「丹下町常夜燈」。
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丹下町常夜灯
鳴海宿の西の入口丹下町に建てられた常夜灯である。
表に「秋葉大権現」右に「寛政四年--」左に「新馬中」裏には「願主重因」と彫られている。
寛政4年(1792)、篤志家の寄進により設置されたものである。
旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した火防神として大切な存在であった。
平部の常夜灯と共に、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重である。
名古屋市教育委員会
一段高くなった歩道を歩きます。
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鳴海潟に面した丘陵の海岸に近い斜面にあります。面積はあまり広くありませんが、厚さ70㌢の貝層のうち、下層はハイガイの生育
が悪く、上層は生育のよい貝ばかりです。遺物は縄文前期の土器ですが、下層からは、やや厚い縄文のある土器とともに薄手の細線文
土器を出すのに、上層では爪形文・羽状縄文をもつ土器を主体として、すべての点で上下二層の間に相違があります。市内に残る唯一の縄文式貝塚で、見つかった土器は「鉾ノ木式」と名付けられています。
「山王山」交差点を横断して、「天白橋」方向へ向かいます。
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橋を渡ると、「緑区」から「南区」へ。
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歩道には「東海道」のタイル。 道路際には「東海道」の標柱。
その先に「大きく細長い古地図(絵図)」。
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現在地。
熱田宿付近。
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前方にこんもりと茂った大木。「笠寺一里塚」。
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笠寺一里塚
一里塚は、慶長9年(1604)幕府が主要街道を整備し、江戸(東京)日本橋を起点に、道程一里(約4km)ごとに道の両側に塚を築き、榎などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、荷物その他の運賃計算の基準にもなった。
ここは江戸から88里のところにあり、名古屋市内を通る旧東海道唯一の一里塚で、現在、東側だけが現存している。
12時少し前になり、ベンチもあるのでここで昼食休憩。
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