おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

鉄道第二連隊。ハミングロード。(京成「大久保」駅~JR「津田沼」駅。その1。)

2014-07-10 19:48:19 | 鉄道遺跡

 千葉にあった「鉄道第一連隊」。「鉄道第二連隊」は、津田沼に置かれていました。そして、「千葉」から「津田沼」まで軍用線路がつながっていました。演習用の線路。

 「津田沼~大久保~三山~高津~犢橋(こてはし)~宮野木~園生~千葉」間の約16.7㎞。軌間600ミリメートルの軽便鉄道でした。
 この廃線跡は、全線にわたって「マラソン道路」として整備された緑道・歩道になっているようです。

明治後半。
 赤い線が「軍用鐵道線」。赤い○が国鉄を挟んで「材料廠倉庫」「鐵道兵営」。

昭和初期。
 「鉄道第二連隊」作業場から倉庫への引き込み線が敷設されている。←が国鉄線をまたぐ跨線橋(現新京成線の跨線橋として活用)。もともとの演習線は、材料廠から松戸方向に向かっていた。

昭和20年代。戦後。
 「新京成線」になっている。↓大久保からの線路は道路となっている。新京成・「新津田沼」駅が現在と異なることに注意。現在と異なって、この辺りは、ほぼ直線になっている。←が国鉄を越える跨線橋。

昭和40年頃。
 「しんつだぬま」駅が「ふじさきだい」駅―1953年(昭和28年)から1968年(昭和43年)―になり、大きく西にカーブして国鉄津田沼駅に寄って「しんつだぬま」駅が開設されている。
 旧材料廠・倉庫施設一帯の再開発ともあわせて、改めて路線変更したものと思われる(初代「新津田沼」駅があった位置付近に戻った)。

現在(以上、「今昔マップ」より)。

 新京成線が京成津田沼を出てからくねくねと曲がっているのは、いろいろ訳ありのようです。・・・

 今回、京成大久保駅からJR津田沼駅まで「ハミングロード」を歩いてみました。約4㎞の道のり。
 暑い日差しの下、頭上を緑に覆われてある道。けっこう歩き甲斐がありました。



 習志野には明治から多くの軍関係施設が置かれ、一大軍都を築いていました。戦後は軍用地は掘り起こされて畑地となり、
軍用施設は一般住宅、学校等に改造されました。
 このハミングロードも専用鉄道の跡地が今日、市民の施設として活用されているのです。

まだまだ北東に「ハミングロード」は続きますが、このあたりから津田沼方向へ向かいました(「大久保駅」下車)。

 駅前は、「公共駐輪場」になっています。
 

しばらく進むと、本格的な遊歩道に。そこに案内板がありました。

 ・・・津田沼に置かれた鉄道第三大隊は、大正7年(1918年)に、「鉄道第二連隊」に昇格し、この演習線や昭和7年(1932年)頃までに敷設が完了したといわれる津田沼―松戸間の演習線で、鉄道の敷設、撤去、修理の訓練や機関車の運転訓練を行いました。
 戦後、演習線の跡は津田沼―松戸間がほぼ新京成線になりましたが、津田沼―千葉間は、だ合い部分が道路となっています。 
 平成20年3月 習志野市教育委員会

 
 写真は、軽便鉄道の機関車運転演習と敷設演習。昭和4年頃の路線図。


 右が自動車道路、左が歩行者用道路。その間に両側を古木に覆われた線路跡が続きます。特に痕跡は見当たりません。以前のレポートを拝見すると、いくつか陸軍などと刻まれた「境界標」があったようですが。

ほぼ直線の道。

南側(左側)は、住宅や畑がありますが、一段と低い位置になっています。線路は、小高い台地の南端をたどるようにして通っていたようです。

赤い線が「ハミングロード」旧線路。

南を望む。畑の向こうには京成線。

北西を望む。田園風景が広がります。

「習志野署」手前で、広い道路から左の住宅街に入って行きます。

道が狭くなって、草木に覆われてしまいます(「習志野署」裏手)。

 大きな境界標。表面の字はまったく不明。



さらにたどっていくと、

これはJR境界標。
 「ハミングロード」?は、ここまで。旧線路跡は、線路を越えていくことになる。フェンスの向こうの線路はJR線。

 ここからJR津田沼駅方向に歩いて行きます。

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