百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

奇跡の島 百島にて。

2024年01月21日 | 百伝。

今日は、広島にて毎年恒例となった全国都道府県別男子駅伝大会開催予定、楽しみです。

さて、様々な推定人口の論文があります。

1600年の関ヶ原の戦い、つまり徳川幕府の江戸時代が始まる頃の日本の人口は約1200万人程度だと言われています。

その後、江戸時代中期から明治になるまでは、日本の人口は推定約3000万人程度だったとの事。

1711年、福山藩が残している記録資料によれば、百島の人口は、587人。

1815年には、883人。

日本の人口約3000万人の江戸時代、百島の人口は驚くべき数字なのでは?

(資料提供 百島ふるさと文化誌)

さらに、明治時代に入ると、より詳しい人口推計となります。

1873年(明治6年)の日本の人口は約3340万人だったとの事。

1872年明治5年、百島の人口は、1624人。

移住、職業選択自由となった明治維新後、約5年間で人口が2倍に増えています。

この人口増加は、驚異的とも言えます❗

安心安全な地域を選んだ移住なのかと推測できます。

日本列島は、古代から火山列島、あるいは地震、台風、災害が多発する地域です。

ただ、その長い日本列島の中で安全地帯となるスポットが、瀬戸内海。

その瀬戸内海の山陽側中央部に位置する百島。

瀬戸内海の潮の流れは、東西からの潮の満ち引きがあります。

この瀬戸内海地域も、過去南海トラフのような大震災、大津波、巨大台風一過、何度も被災したと考えられます。

ただ百島の西側には、備後の尾道から伊予の今治まで芸予諸島(しまなみ海道)が、百島の防波堤のような役割となっています。

百島の東側には、鞆の浦から沼隈半島、口なし瀬戸沿いに南側には内海町(田島、横島)が大きな壁となり燧灘からの突風、大津波を防いでくれています。

まさしく百島は、天然要塞地、海里の食糧庫あり、飢饉とは無縁の島でした。

さて、日本の人口が1億人を超えたのは、明治維新1868年から百年後の1967年(昭和42年)だとの事。

つまり、およそ百年間で日本の人口は約3倍に増えたという事です。

小学生の頃、先生から間もなく日本の人口が1億人に達成すると教えられた事を覚えています。

昭和50年、高校卒業する頃までは、百島の人口は約2000人程度でした。

小さな百島での農業漁業を生業とする生活許容人口は、約3000人程度迄が限界と言われていました。

人口が3000人を超えると、百島から他所の土地に移住するのが当たり前でした。

時代が変わり、車社会、移動社会、高速情報社会。

人と金は、地方から益々と都市圏へ集中。

東京一極集中への弊害が続きます。

1945年昭和20年の戦後の焼け野原から、世界が驚く奇跡の経済発展を遂げた日本社会。

1990年代平成時代に入り、バブル崩壊後の「失われた30年」と呼ばれる日本経済社会。

2024年令和6年の現在、日本の人口は約1億2000万人。

日本社会は、2050年には、人口約9500万人に減少するとの予測データがあります。

人口減少時代に突入した日本社会、天地を揺さぶり動かすような大地震、大津波と突然遭遇しようとも、救われた命は生きて行かねば、全ての人生は、恐怖と驚異と期待の繰り返し。

成功社会よりも成長社会を❗

成長社会よりも安定社会を❗

防災減災、安全な治安、心休まる日本社会を❗

奇跡のような百島で考えました。

百年後、あるいは千年後には、日本の首都東京、世界のTokyoは、限界が近づいています。

日本の首都を広島県尾道市百島を中心とした備後地方へ遷都しましょう。

エーゲ海よりも、ヴェネチアよりも美しく、世界が納得するBingo❗となるでしょう。



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