百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

口無し瀬戸。

2016年04月18日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
今夜のNHKスペシャル「老人漂流社会~しのび寄る老後破産」。

近い未来への・・老後の生きづらさを感じました。

熊本地震関連ニュース・・避難生活を強いられる方々が、熊本・大分両県で老若男女約20万人に膨らんでいるとのこと。

他人事ではなく、地震列島日本国に暮らしている限り、いつ何時誰もが遭遇する運命となるかもしれません。

去年、出席した市の防災会議での「井戸水・湧き水の確認と近所のコミュニケーションが大事」というのが、理解できます。

今回の熊本県の現状・・5年前の東北・太平洋沿岸部の大震災と異なる様相を呈しています。

ミニ都市型の震災・被災地のように映るのです。

首都圏での直下型大震災後の避難民のことを想像すると分かり易いかもしれませんが、復興までに全国からの官民による金銭的厚意、食糧支援活動が続くと思えないのです。

・・国家破産という大変自慢となるものです。

長期間の避難生活が続くならば、他県への広域避難も考えなければ、生活が成り立たなくなるのでは?

活断層・・日本列島の地下深くそこら中に走っているようですが、どうも瀬戸内海・百島界隈には、無いようです。

瀬戸内海には、燧灘(ひうちなだ)という瀬戸内海の中の「太平洋」みたいな海が広がっています。

近くて遠い隣りの島(内海町)・・田島や横島の南側に行けば、燧灘の大きさを見渡せます。

ちょうど中学二年生の秋に修学旅行で行った大分県、熊本県を思い出しています。

西鉄の観光バスで山口県の秋吉台、福岡県の宇佐神社、福沢諭吉の生家跡、別府、九重高原のやまなみハイウェー、由布院で宿泊、翌日、阿蘇山、熊本城、水前寺公園、ブリッジストン発祥地の石橋家の久留米、大宰府、博多のコースだったかな?

修学旅行から百島に帰った数日後、自転車を船に乗せて、田島・横島をサイクリングした中学生の頃の思い出があります。

帰りの船の時刻のため、田島・横島の島内一周は出来なかったですが、燧灘を眺めることができました。

島内一周出来なかったリベンジを果たしたのは、それから約30年後・・内海大橋も出来上がり、今から10数年前のことです。

新車を買って、百島へ帰省した折り、田島・横島を∞(8の字)コースで一周ドライブしました。

燧灘を望む田島、横島の南側には、ほとんど民家もなく、ほぼ誰も住んでいないのです。

しかも、実際、考えていた以上の悪路でした。

当木島方面の横島の西端海岸部分は、常石グループが買い取ったのかな?・・という状態でした。

田島の裏側の道は、百島一周道路の海老呑地区や草木界隈の道よりも狭くて暗くて、ぼくの新車は竹藪の中を走る状態で傷だらけになりました。

これ以上進めるのか不安になって、たまたま一軒家に暮らす年老いた方がいらっしゃたので尋ねました。

多分、独りで暮らしている方だと思うのですが、とても「丁寧な言葉による説明」でした。

それが今でも・・不思議な光景として記憶に残っています。

そのまま進めるということで、阿伏兎観音が見える田島の東側まで出ました。

その阿伏兎瀬戸を「くちなし(口無し)瀬戸」とも言います。

何故、陽当たりのよい南側で暮らさないのかと考えると、燧灘からの潮風も強く、大昔には大津波に遭ったのかもしれません。

例えば、鞆の浦の沖合にある燧灘に浮かぶ走島は、大昔、大津波によって一時、無人島になったようです。

以前、キャプテンが、「百島は、何かに守られているような気がする」と言っていました。

・・同感です。

台風や大嵐が来ると、大昔から、舟は、出口がないような「口無し瀬戸」に避難していたようです。

燧灘からの避難ルート、鞆の浦から「口無し瀬戸」をずっと抜けると、桃源郷のような島が現れます。

それが、百島です。

「口無し瀬戸」・・昨今の日常ニュースから、ふと思い出した記憶の1ページです。

人生「瀬戸際」の真逆となる人生安全航路が「口無し瀬戸」なのかもしれません。