rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

辛夷は、中くらいの人の為の記念樹。

2011-04-03 23:43:14 | 植物たち
辛夷。
蕾を寒気から守る為に、ビロードのような細かい毛で覆われたガクをもつ。
寒さが本格的に緩み始めるのを見計らって、3月下旬頃に、おずおずとそのビロードのコートを開いて、白い花びらを空に差し出す。
花は、ほのかに甘い香りをそっと空気に乗せる。
まだ、枯れ野の山に白い花をつけた辛夷が、ところどころに春の到来を知らせ、日を追うごとに目を凝らしてみると、銀色がかった新芽をつけた木々が見つけられるだろう。
これから、里山から順に、新緑の季節を迎える。

中くらいの人が、無事に生まれたことを記念して、強く大きく凛とした人になって欲しいとの願いを込め、庭に植えた。
どうやら辛夷は、中くらいの人の成長を見守りながら、共に大きく育っている。
これから、10年後20年後には、どのくらい大きく育っているのだろうか。

未来なんて、平穏な日々なんて、約束されていない。
悪夢のような明日も、もちろん知る由もない。
今まで、今ある幸せは奇跡なのだから、感謝して暮らしていこうと、時折肝に銘じてきた。
「生きているだけ丸儲け」とは、よく言ったものだとも思いながら。
しかし、「生きているだけ」には、どんな状態で生きているだけなのかが問題になってくる。
人は、弱い生き物だから、最低限健康だけは保障されたい。
その健康が保障されず、脅かされるだけであっては、希望を抱くことは困難だ。
「風の谷のナウシカ」ではないが、地球が化学物質や人工元素の放射能によって汚染され、住める土地を失い、汚染物質によって引き起こされる病気によって苦しむ人が増え、清浄の土地を求めて争いが起こるのではないかと不安になる。

今だけを謳歌するには、人は増えすぎ、手にした文明は人の手に余る制御できない巨大な力を持っている。
目先の利便性を追求すると、取り返しがつかなく途方もない負の遺産が累積していく。
すでに、利益と利便性だけを優先する時代は、プロメーテウスがくれた「火」ではない物を手にしたときに終わりを迎えていたのだろう。

我々は、今となっては誰しも汚物を抱えるよう運命付けられてしまった。
人としての因果応報だ。
地球上のすべての生き物も、この人の業を負わされている。
生態系の頂点に君臨する人は、他の生き物にも追わされた自らの業を蓄積して、その責めを負っていくしかない。
我々の子々孫々に至るまで、未来永劫。
せめてその負債をこれ以上増やさないように、ちっぽけな人類の英知を振り絞って、希望の持てる未来を築く努力を払おう。
広い宇宙には、生命の存在する星があるにしても、この命溢れる青く美しい地球を、たまたま生まれ出た人が荒らしていいはずがないのだから。

もしも、この辛夷と会話ができたならどうだろうか?
「聞き耳頭巾」があって、木々や鳥たちの呟きが聞こえたなら、彼らはなんと言っているのだろうか?
人にとっていいことばかりは言っていないに違いない。
人には感知できないことを感じて、悲鳴や呻き声がこだましているようならば、「聞き耳頭巾」は人にとって苦痛のものでしかない。
「知る」「真実を知る」ことは、心地よいことばかりではない。
特に現在は、耳に心に痛い事が多いだろう。

この、今年の辛夷を眺めながら、去年とは明らかに違う思いを抱いたのであった。
大切な中くらいの人の幸せを願いながら。

不滅の輝きを手にしたファン・エイク兄弟「ゲントの祭壇画」

2011-04-03 00:30:49 | アート


今日の「美の巨人」は、ファン・エイク兄弟の「ゲントの祭壇画」。
ベルギーのゲントにある聖バーフ大聖堂の祭壇画だ。
15世紀初頭、油彩画の技法を確立させ、しかも他に追随を許さないファン・エイクの特権的技法を編み出した。
フランドル派のファン・デル・ウェイデンやハンス・メムリンクも、素晴しい技量の画家だが、先人のファン・エイクを凌ぐには至っていない。
デューラーやクラナッハも、油彩の技法ではやはり足元に及ばない。

「絵画の宝石」とは、もっともな表現の仕方だ。
描かれた宝石が光り輝いているのは言うまでもなく、どこをとっても全て緻密に描ききり、画面全体が光り輝いている。
この絵を20センチ四方で切り取って模写をしようと試みたら、何年かけたらそれらしくできるのか、見当すらつかない。
この時代はさることながら印象派以前まで、画家は工房制を引いて制作にあたっていた。
工房の職人も、その特性を生かし分業についていた。
親方は、その制作工程で、重要な構図と下絵や仕上げの決め所を受け持ち、職人たちは絵の具や支持体、金を施す金細工などをそれぞれ受け持っていた。
それでも、この完成度に到達するには、気の遠くなるような時間と労力を費やしたであろうと、眩暈すら起こる。

以前ゲントを訪れ、この祭壇画をこの目で見たことがある。
薄暗い聖堂の中でも、燦然と光を放っていた。
あまりの神々しさに、絵の持つ力に打たれて心が震えるのを感じた。
それは、子供のときにテレビで見た、「フランダースの犬」の主人公ネロが、アントワープの大聖堂にあるルーベンスの「十字架降架」を見たときのような具合だと、互いの心境が思わず重なったぐらいに。
すっかり、あの物語が、当時の幼子の心に刷り込まれているのだ。
だから、小さいときには、白と黒だけで表現しきれる画家は一流と固く信じていた。
もちろん、まったくそれが当てはまらないわけではないが。

「画家の中の画家」のうちの一角を、間違いなくこのフェン・エイク兄弟は占めるであろうと、誰も納得するに違いない。