rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

あえて見過ごされているー「死に至る病」岡田尊司著ーより

2020-11-29 12:02:26 | 随想たち
Víkingur Ólafsson – Bach: Concerto in D Minor, BWV 974 - 2. Adagio


コロナウイルスによって、生命の危機、感染の恐怖、生活の崩壊、経済の停滞など、連日連夜報道されている。
差し迫った目前の問題だ。
もちろん、それらをわが身の脅威と捕らえている。
しかし、センセーショナルでもなく、あまり身近に感じられていないかもしれないことに、その実大きな不安がある。
そのことに問題提起している本が、岡田尊司「死に至る病」だ。
副題に、”あなたを蝕む愛着障害の脅威”がついていて、そのまま本の内容を説明している。
子供と関わることが増えた自分にとって、必要に迫られた面は否めないが、様々な本を読み学ぶようになった。
自己の体験と内面、また関わる子供たちの様子や背景などから、岡田尊司の著す愛着問題に焦点を当てた本の数々は、かなりの説得力を持つものと思えた。
おそらく、岡田尊司に私淑しているといえよう。
かなり乱暴な言い方で好まないのだが、所謂発達障害、ある精神疾患の根源的要因に、愛着に問題を抱えている場合が多い。
人が成長する中で、土台となる心と体を育む時期に、適切かつ十分な愛情を注がれながら世話を受けることの大切さを説いている。
それは、何も母親だけが負う責任ではなくて、子供を取り囲む大人たちを含んでいる。
もし、子供がそれらを受け取ることに恵まれなかったならば、将来に大きな負債を抱えて生きていかなければならなくなる。
子供の生来の特性で、過敏だったり落ち着きがなかったり反応が薄かったりしても、少しでも早く大人が気づいて特性に見合った対応支援が出来たなら、子供の困り感も軽減し、成長とともに発達の凹凸がならされていくだろう。
そうなるためには、子供を注意して見守る存在がいなくてはならないのだ。
しかし、ここで辛いのは、養育する大人も心に問題を抱えて不安定だったり、経済や環境的に苦境に立たされて余裕がない場合、この役割をこなすことが出来ないということだ。
出来るなら、子供の両親、肉親が、愛情を持って養育することが一番望ましい。
けれど、この不安定な時勢にあっては、なおさらそうも行って入られない。
人は、大きなつながりの中で生きる社会的動物ゆえに、どこかひとつどうにかすれば何とかなるものではないからだ。
子供を大切に育てていくためには、そのものだけではなく、養育者のまたひとつ外側から考え合わせて支援をしていく必要があるだろう。
このためには、息の長い外部のかかわりがなくては成立しない。
核家族化が進み、兄弟のいる人も格段に減った今、頼れる身内はいない場合も多い。
土地に定着して何代も住み続けることも減ってきたから、隣人との関わりも希薄だ。
そこで、住む地域の公的機関がその代役を担うしかなくなってくる。
もし、移動するならば、その個人のデータをそっくりそのままタグ付けして、ちょうどいいマイナンバーシステム、他の地域に移り住み、そこの支援機関が引き継ぐようになるだろう。
これは監視システムの様相を呈していて、なんとも居心地の悪いものだが、身内か近所か公的機関か、見守り支援する場所が変わったと捉えるしかない。
いずれにしても大切なことは、他に依存しなければ生きて成長できない子供を、いかにその子がよく生きていくための用意を整えてあげられるかにかかっている。
ある程度の強さと柔軟性を備えた心を育むために、大人は先に生まれてこの社会を作ってきた責任を負って、子供たちの育成に当たらなくてはないだろう。
実のところ地味なこの取り組みは、薄々気がついている大人たちにとって、面倒で何のうまみも目立った効果も得られなく、黙殺されている。
俯瞰的長期視野を持って当たらなくてはならない人の育成教育を疎かにしては、人間の文化的営みを否定するのに。
もちろん、国も滅ぶ。
どうか、この「死に至る病」を軽んじないでもらいたい。



暖かさに釣られて 晩秋の夕日

2020-11-22 22:32:55 | 旅先から





涸沼と筑波山

今日も晴れて暖かかった。
元小さい人に食料などを差し入れに出かけた帰り道、ふとヒマラヤ松のことを思い出し、涸沼湖畔にある親沢公園に立ち寄った。
この公園には予約制でキャンプも出来るスペースがあり、暖かくて穏やかなこの連休を、絶好のコンディションに恵まれたキャンパーたちが、ゆったりとした時間を楽しんでいた。
本命のヒマラヤ松の松ぼっくりを探すも、崩れた欠片を目にしたばかりで、お目当てのものは見つからない。
あまりにそれにこだわっていると、せっかくの夕日の美しさをも逃してしまうので、湖畔へと気持ちを切り替える。
刻一刻と変わる夕日の美しさに圧倒されながら、シャッターを切り、もちろん肉眼でもしっかりと心に刻み込んだ。
暖かくやさしい光の移ろいは、すべてのものを美へと盛りたてる。
しかし、この美しさは、誰にでも等しく開かれているけれど、自ら強く主張しない、受け取ろうと心を向けたものだけが受け取ることの出来るものだ。
たち現れては儚く消える、この流れ往く美しさに、流れ星を見るときと同じような心持になって、きゅうっと胸が痛くなる。
切ないから、こうして時を切り取ってみるしか出来ないけれども。










シダーローズ

もっと富士 山梨旅行

2020-11-21 22:41:18 | 旅先から

山梨県立美術館にて ヘンリー・ムーア


ボテロ


ボテロ やっぱりこのアングルからも


もみじ


バラもよし


河口湖からの富士


中ノ倉峠展望台へ続く道


その黄葉


忍野八海の水草


その揺らめき

11月15日から一泊二日で、山梨へ行った。
この上なく最高のコンディションの天候に恵まれ、初めての山梨を堪能することが出来た。
なるべく人のいないところを目指し、この地ならではの自然の造形に触れてきた。
旅のよさは、自分の暮らす場所との違いを見つけ出したり、その土地の風土により形作られる様々なものを感じ取ったりと、発見の面白さではないだろうか。
何も遠くへ行くことばかりが旅ではなくて、近くでも感受性をフルに働かせて驚きを見出そう。
その驚きが、心を豊かにし、生き生きと生きていく資源となるのだ。

「育てなおし」の重要性 その2

2020-11-19 23:06:45 | 随想たち
賛否両論、最近の説では、三歳まで少なくとも一人の養育者によって十分に手間と愛情をかけて育てる「三歳児神話」が必ずしも重要ではない、とある。
時間よりも、関わり方の質が重要だという。
たしかに、これに否を唱える者は少ないだろう。
でも、三歳児まではやはり人間形成の土台を成す上で、重要なことには変わりはないようだ。
「三つ子の魂百まで」とことわざにあるように、昔より経験的にそれまでの育児が大切なことを諭している。
しかし、そうならなかったとき、不安定な心を抱え生きづらさに喘ぐ子供たちは、様々な形をとってその窮状を表出させるのだ。

そこで、育てなおしの支援が必要となる。
では「育てなおし」は、いつごろまで有効だろうか。
あくまでも経験からの予想なのだが、女性は初潮を迎える少し前の9~13歳くらいまでならば、育てなおしの働きかけはかなり有効。
それ以降だと、個人傾向で他者に依存度が高い、または注目行動を頻繁に起こすタイプ、所謂感情発散型は、初潮開始後1年くらい、14歳あたりまでは育てなおしを開始してもリカバリーが50%ほど可能を見ている。
しかし、年齢が上がるに従い、育てなおしに伴う言葉かけは、受け入れが困難となる。
男性の場合は、精通を迎える少し前の11~15歳くらいまでならば、女性と同じようなことが言えるだろう。
また、育てなおしが浸透するために必要なものがある。
子供たちの言葉の能力がどの程度開発獲得されているかによって、支援の労力、時間が比例し、成果も大きく左右される。
つまり、知的な能力の状態によるところが大きい。
もし知的能力に困難を抱える場合、早い段階での支援開始が鍵となる。
言葉かけもさることながら、こまやかな愛情を繰り返し受け渡すことで、安心感を定着させ、経験値を積んで様々なシーンに対応できる要素を養うのだ。
学校教育における学習の獲得も、もちろん大切なのは言うまでもない。
人を作り上げていくのは、実に多くの要因が密接に関係している。
育てなおしに限るわけではなく、人を育てていくにあたって、多くの人と様々な機関が助け合い連携していくことが、この世界の流れの中にありことさら必要となっているようだ。

乱暴で雑な考察で、まだまだ精査の余地がありすぎるけれど、備忘録としてここに記そう。