rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

イチゴの苗を買って植えようかどうか、今も悩んでいる。

2011-03-31 01:19:28 | 植物たち
小さい人が、「イチゴをたくさん作って、ジャム作りがしたい」と2月のはじめ頃に言っていた。
例年自生と化しているイチゴ畑の雑草や落ち葉を、せっせと掃除していた。
もう少し暖かくなってから、苗を買って来ようと話していた。
先日、ホームセンターに行ったときにイチゴの苗をどうしようかと迷った。
小さい人が喜んでイチゴの世話をし収穫する姿は、とても魅力的だ。
小さい人にとっても、家族みんなにしても、幸せを与えてくれるに違いない。
しかし、拭い切れない不安が、イチゴの苗を買うことを押し止める。
果たして、成長期にある小さい人たちが育てたイチゴを食べても大丈夫なのかと。
もう人生の半分を過ぎ、子を産むことのない世代は、残りの寿命を滑空するだけでよい。
未来が長いであろう小さい人たちが、リスクの軽減や回避をしないでいいものだろうか?
高だかイチゴかもしれないけれど、気が重いのだ。
自家用の長ネギを畑から抜いてくるときも、足取りが重い。
できることならば、あたりを満たし巡りまわっているこの空気すら撥ね退けたい。
すでに、自分が生まれる以前から世界に散らばっているもの、もとより自分も芯から清浄ではない。
様々な化学物質にも、髪の毛の先から爪、体細胞の一個一個に至るまで、影響を受けているだろうし、小さい人も同様だ。
どうしようもない現実だが、理性ではなく感覚が拒絶を示している。
プランターには、ブルーベリーの木が新芽をほころばせ、ラズベリーが鮮やかな緑の葉を開いている。
小さい人たちが、鳥たちと我先に熟した実を取り合うはずの果樹たち。
生命の力に輝く浮き立つ季節なのに、灰色のフィルターが、果樹の恵みと不安な自分の仕切りを作っている。
連日の災害の報道と不安な空気を察しておびえる小さい人に、「大丈夫、気にすることはないよ。」と自信を持って言えないことが、とても情けない。
確かに、知らなければいいことは世にはたくさんある。
不安に怯えて暮らすよりは、偽りでも安心した生活のほうが、個人の心の為にも、社会の安定もためにもいい場合がある。
正確な最新のデーターを分析して、理論的に判断できる立場でも、もちろん能力を備えているわけではないが、非科学的感覚が危機感を訴えている。
いつ人の寿命の終わりが来るか、誰も知ることはできない。
今かもしれないし、10日後かもしれない、90歳まで生きるかもしれない。
自分は諦めるしかないが、未来を保障されるべき小さい人たちのことは、なかなか割り切ることができない。
親心・・・といって仕方がない、どうにもならない感情だ。
だから、イチゴの苗を買って植えることを、いまだに躊躇っているのだ。

逃避それとも自己防衛?美しいもの、楽しいことを考えること。

2011-03-30 01:46:24 | つぶやき&ぼやき
晴れて陽射しが燦々と降り注ぐ暖かい今日。
中くらいの人の通学用自転車を買うために、一家そろって出かけた。
このあたりは、通学距離が長いので、自転車通学が普及している。
大型量販店には、売約済みの紙が張られた自転車が、何十台と並んでいた。
店頭に並べられているものから、中くらいの人にちょうどいい自転車を、見つけられた。
そして、この通学用自転車と、滅多に食べることのないマックのバーガーを義父母に買ってもらう。
中くらいの人は、帰るなり乗り心地を確かめるために、庭を自転車でぐるぐる回っていた。
その姿を、みんなで喜ばしく見守っていた。
それから、みんなでチキンバーガーとポテトを美味しく食べた。
家族が、新しい学生生活を送る中くらいの人を心から祝福していた。

午後は、植物に水をあげ、ビオラの花がらを摘み取り、猫を撫でながら、命輝く辺りを見回していると、どこからともなく悲しみが心に沁み込んで来た。
言い知れぬ不安と憂鬱が、悲しみが、心を侵食するのをさせまいと、料理をしようと思った。
豚汁、材料の皮を剥いて切りる、ごぼう・ニンジン・豚肉・ジャガイモ・油揚げ・長ネギ・こんにゃく・豆腐。
作業をしていると、頭が空っぽになる。
出来上がった温かい汁をみんなで食べると、今生きていることを実感できる。

また、こんなときには、受動的にできる。、テレビの美術番組や旅行番組がいい。
それは、書棚から画集や写真集を取り出したり、音楽CDをかけたりすることが、なかなかできないからだ。
珈琲マグカップを片手に、美しい絵や景色が映し出される画面を観ていると、悲しみを幾分洗い流してくれる。
美しいものは、悲しみの心を洗浄し、癒しと喜びを与えてくれる。

ただ、後ろ向きになっていては、何も始まらない。
単純な楽観主義者ではなく、慎重な楽観主義者に。
刹那的な快楽主義者ではなく、美意識を持った快楽主義者に。
いついかなるときも、「愛」が、すべての存在を照らし出すことが何よりも重要なことなのだ。
その背後には、救いようのない絶望と孤独と悲観をきちんと待機させて。

心が痛い、忍んで涙する人々がなんと多いことか。

2011-03-29 00:12:02 | つぶやき&ぼやき
連日、激甚災害に見舞われた被災地の様子が各報道によって目に触れ耳にする。
困難に立ち向かい、必死で力を尽くす人たちがいる。
生存者の捜索、遺体回収、瓦礫の撤去、インフラの整備、被災者の支援とケア・・・
現在も進行している原発事故の収拾は、被害が拡大し、その影響の永続化を少しでも小さくすべく、命がけで現場の作業に当たる方々は、日本と世界の命運を背負わされている。
被災者の方はもちろんのこと、救助支援にあたられている方も、その心に深い悲しみで傷をつくっている。
表には見せないその心の痛みと涙が、大気を震わせ世界にまで伝わり、悲しみの見えない雨を降らせているだろう。
彼らを癒せるのは、時間と人のいたわりと慈しみしかない。
「大丈夫」この言葉が、被災した方にとって心を癒す特効薬だという。
「頑張って」とは、言葉を向けられた人に負担をかける一面がある。
「大丈夫」、なんとも心もとなく無責任なようだが、「きっとなんとかなる」というニュアンスに前向きな明るさを感じて、人の心の負担や不安を取り除いてくれる作用があるのかもしれない。

「エストレリータ」(小さな星)マヌエル・マリア・ポンセ作曲は、甘いメロディーと歌詞の歌曲だ。
おそらく多くの人が一度は聞いたことがある、とても有名な曲。
「小さな星」は、どこからでも見守っている天使のような存在で、愛する人にこの思いを伝えて欲しいと願う歌だ。
悲しむ人たちにとっての「小さな星」とは我々で、悲しむ人たちを大きな愛で包み込む使命を誰もが担っている。
「悲しむ人」と「その愛する人」と「他の人(我々)」は、世界の一部・分子を構成する三位一体。
それらを結合させる電子が,愛だ。
大いなる愛で、世界に広がっている悲しみを癒せないものかと、痛む心で考える。
美しく切ない「エストレリータ」よ、少しでもいいから、悲しむ人たちを癒しておくれ。

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白地に青の絵付け、ぼってりとした量感の陶器が好き…の妄想

2011-03-27 22:51:17 | 趣味たち
土産品の安物ではあるが、オランダの風車を描いたデルフト焼きのプレートを、このたびの震災で粉砕の憂き目に会った。
思い出をのせた陶器のプレート。
仕方のないこととはいえ、他の物で、代わりにすることはできない。

白地に青の絵付けした、ぼってりと量感のある陶器が好きだ。
ずっしりと重さのある陶器は、温かみを感じさせてくれるから。
白地は、乳白色がかっているとなおのこと好み。

日本のものでは、砥部焼き。
外国のものでは、デルフト焼き、マジョルカ焼き、近年のメーカーでデンマークのダンスクDANSK。

「捨てられない人」は、我が家のテーウルウェアをこの陶器たちで揃えたいと、ただ夢想する。
いつの日にか、アトリエ兼居住空間のある家を持てたなら、迷わず白地に青の絵付けを施してある陶器たちを、その家に住まわせよう。
お茶の時間が、食事の時間が、この陶器たちによって美しく演出されるだろうから。

そうだ、多彩な色使いではあるが、フランスの陶器メーカー・ジアンGienもポイントで組み入れたい。
Oiseaux de Paradis 極楽鳥シリーズを朝食の時に、カフェオレボールとプレートのセットで。
ジアンは、思い出が詰まっている。
旅先の、小さな陶器店で店先に積み重なって売っていた。
割れ物で旅の途中もあって、一枚だけサラダ・ケーキプレートを購入した。
フランスの田舎の旅の思い出。

これらの陶器たちは、きっと日々の生活に潤いと美をもたらしてくれるだろうから。
欲張りな願いだが、もちろんそれらの陶器の産地を訪れて、旅の思い出を付け加えて。



奔放な幻想のエロティシズム、ゾンネンシュターンの真空劇場

2011-03-27 01:03:48 | アート


彼は、自ら「月の精の画家」と称したという。
月の光の導きによって、プリミティブでエロティックなインスピレーションを得たのであろうか、どことなく温度を感じない絵を描いた。
赤などの暖色を使っても、暖かさを感じない。
青などの寒色で描いても、冷たいとは思わない。
真空の劇場の中で、粛々とドラマを行っているかのようだ。

ゾンネンシュターンを知ったのは、澁澤龍彦の「幻想の彼方へ」によって。
そのとき投げられた糸には、目には見えないがしっかりとしたフックがついていた。
彼の真空劇場の永久パスポートを手に入れ、時折ふらりと立ち寄る観客の一員となった。

劇場に架かるドラマは、登場人物?の容貌にもかかわらずに、悪夢的ではない、むしろ喜劇よりである。
大衆劇場で行われる身振り手ぶりよろしいサイレントドラマ、映画の黎明期の楽団付で弁士のいない活劇のような、ユーモアを映し出すドラマが展開される。
そこの入場券を手にしたものは、静かな観客として取り込まれるだろう。
幼い頃に味わった、甘美で深遠なエロティシズムを思い出し、懐かしむ為に。