rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

太古より抱く衝動 描く呪術

2022-03-31 22:19:44 | 創作活動

シャーマニズム

ゼンタングルという、漢字を用いない写経のようなもの。
インスピレーションで区切った形の中をさらに分割して、その中に思い思いの形を描き入れていく。
それほど大きくない紙に、消せない筆記具で、間違いすら許容して、すべての線を描く。
集中して描くことに没頭することが大切なのだろう。
これらは、はがきより小さい紙に描いた。
1時間もあれば十分に描ききれる大きさ。
失敗を恐れずに、一枚一枚描ききることに心を向ける。
描いた日付やなどを添えるのもいい。
心の言葉で表さない日記ともいえそうだ。


エレメント


生命

見てみて可愛いこの花を!

2022-03-30 22:52:58 | 植物たち

アーモンドの花

なんてかわいらしいピンクの花!
昨年よりたくさん咲いた、アーモンドの花。
梅雨のある日本では、食べられる実が生るまでは難しいけれど、花だけでも十分育て甲斐のあるものだと思う。
今はまだ鉢植えだけれど、地植えにして大きな木になったなら、さぞかし見事に花を咲かせるだろう。

ところで、多分今まで気が付かないでいたように思うのが、辛夷の花の香りがあるっていうこと。
昨日、辛夷の花を間近で見ようと木の下に行ったなら、ふわんとやさしく甘くほのかに酸っぱいような香りが漂っていた。
もしかして辛夷の香り?と、幹から唐突に咲いている花の香りを嗅いでみた。
すると、まだ開ききっていない花の内側に、その甘酸っぱいようなやさしい香りが溜まっている。
ちょっと梅の香りにもにているようだ。
辛夷の木を植えて24年になるけれど、今頃意識するとは私は迂闊者だ。
けれど、遅くても気がついてよかったと思っている。

春は花が次々に咲いて、目も鼻腔も心も喜びで満たされる季節なのだ!



辛夷

「余」が指し示すものの大切さ

2022-03-27 23:54:19 | 随想たち
子供たちの生活が、窮屈になっている。
田舎では、学校の統廃合によりスクールバスで通学をする。
不審者の脅威に曝されることがない安全と、天候気温に左右されない一見快適とも思えるスクールバスだが、車中で同乗している子供同士のコミュニケーションがいつも楽しいものであろうはずはなく、気まずくなった時には苦痛の時間となる。
うまく仲直りできたら問題ないが、そうならないときにはバスに乗りたくないのは当然で、親によって送迎する代替手段が使われている。
バスや自家用車での登下校は、子供たちが自分たちで自由に使える時間を奪い、早めに登校して、放課後校庭で少し遊んでからの下校、歩きながらのおしゃべりや道端にある発見の機会を奪った。
どちらにしても子供たちは、大人の管理下から外れた時間を持てなくなるのだ。

学校においては、かつて問題視されていた昭和の詰め込み教育など生ぬるいくらいのカリキュラムが組まれ、休み時間は削られている。
それは、小学校においても例に漏れない。
授業の一環的なレクリエーションの時間は、お膳立てされた遊びで、誰もが何かに参加しなくてはならなくて、子供たちの意思はある意味軽視されている。
だれしも時には何もしたくなくて、他の人たちの遊ぶ姿を見ているだけで満足することもある。
効率優先とすれば、休み時間は余分な時間というのだろう。
けれどその自由になる時間で、友達と遊んだり、気持ちを整えたりもできるのに、その時間が削られているのだ。

どうもこの十数年、管理しようとする傾向が強まっているように思える。
箱の中に隙間なく物を効率よく詰め込めば、がたがたと揺らしても中の物がごちゃごちゃと崩れることはない。
さらにはこの中を細かく区切ればなおのこと収まりはよく、管理しやすい。
文章を作る時、余白なし、段落もつけず改行もなし、本ならば章が変わるのを明確にするために無地のページを挟み込まないとどうなるだろう。
文字で埋め尽くされた紙面は、何がどこに書いてあるのか分かりづらく、大変読みにくい。
段落、改行など、ちょっとした余白は、話のまとまりを意識したり、読むブレスを促す。
それが、読者に作品や自分との対話する余地をもたらしてくれると同時に、思いもかけない反応を引き出す場合があり、自由度が保証される。
自由は、管理者にとって厄介極まりない。

真の生きている実感は、自分が確実に何かに関与できている手ごたえで得られるのではないだろうか。
結果がすでに決められた範疇にある中での関与では、達成感は乏しい。
ある程度自由の利く余地があってこそ、満足の度合いが高い。

唐突かもしれないけれど、芸術など文化は、人間活動での余剰といえる産物。
美しい服、精緻な装飾が施された時計、2シーターのスポーツカー、三ツ星レストランなど、健康で生産するだけの生存活動には必要でないものだ。
ある思想、体制にとって、目の敵にされ排除されたのも一理ある。
しかし、ただ生きるだけでは満足できないのが人間だ。
どこかに遊ぶ感覚がないと、人の心は機能しなくなる。

つまり、余分なものに支えられて、人は生きているのだ。

人の成長過程のまだ初期段階である子供たちから、自発的に関与できる時間を奪ってはならない。
遊びの中で、見出される個々の能力、互いのクセを認め合い、譲歩し妥協する工夫と知恵、思いやりを持ち、自分と相手を知る。
人間育成に、コストカットを適用してはならない。

ちょっと長くなり文章が荒れてしまった。
備忘録としてここに留め置こう。

許すとは、愛の最上級もしくは拒絶、良くて諦め 「王様ランキング」

2022-03-26 00:52:48 | 漫画やアニメ
アニメ「王様ランキング」(もちろん原作は連載漫画)を、毎週楽しみにして家人と観ている。
可愛い童話的キャラクターで、タイトルの印象とあいまって、楽しいお気楽な冒険活劇かと思いながら観始めた。
しかし主人公は巨人属なのに人間の子供よりも小柄、そして言葉を話すことができず、力も非力の極みで、王子であっても民衆から馬鹿者扱いをされ蔑まれ詰られる、やりきれない設定だ。
それでもすねて諦めることをせずに努力を重ねる姿が痛ましく、2話くらいはストレスが溜まる回となっている。
王である父親が亡くなったのをきっかけに、物語は急激に進み始めてからは、主人公ボッチの成長と絡んでくる人々の思惑、それぞれの背景が、物語に厚みを持たせている。
「欲」は、人を突き動かすエネルギーであるけれど、過ぎるとそれは害悪でしかなくなる。
王様のボッス王の強くなりたいという望みは、力比べの域を出ると、完膚なくまで相手を打ち据えて、果てには「神」をも葬ろうと禁断の力に手を伸ばしてしまう。
その結果、後悔しても仕切れない思いが残り、周囲の人の運命を狂わせる。
気持ちを寄せる人のために良かれと思ってしていることが、だんだんと盲目的になり他人の存在は目的を遂行するための道具か障害物となり、利他的で始まったのに利己的になってしまう。
こうして増長した「欲」に蹂躙され荒廃した状況を仕切りなおすことができるのは、「裁き」でも「断罪」でもない、究極の愛の形「許し」なのだ。
エピソード1の終盤、この「許す」という言葉が、畳み掛けるように何度も出てくる。
散々な目に合ってきた人たちが、いとも簡単に「許す」行為に納得する。
感動的場面であるけれど、こんなにあっけなく「許す」ことが連続することに、なんとも言えない違和感と不信感を持ってしまったのは、自分の心が捻くれているせいなのだろうか。

今日職場で、道路での危険な追越運転や、十字路に面したコンビニなどの駐車場を信号を回避するためにショートカットする人たちの行為についてどう感じるかを話していた。
皆一様に、その行為は危険で自己中心的なもので腹立たしく、あいにくとそこに居合わせた時は不快な気分で、余裕を持った易しい運転をしにくくなるという。
そこで私は、「おなかの調子が悪く、トイレに一目散」だったのではないだろうか?
また、そう思っていたほうが諦めやすく、不愉快な気分を早く切れると応じた。
すると、皆驚いていたが、いらいらした気分での運転は荒くなったりするのでそのほうが心の健康にいいみたいだ、けれどもなかなかそうは思えにくいというらしい。
ふむ、危険ではあったが実害がなかったことであっても、「許す」のは難しいようだ。
さて、「許す」にも種類がある。
「偉大な愛の許す」と「諦めの許す」、「どうでもいい拒絶の許す」の3つが思い浮かんだ。
私が危険運転行為に対する「許す」という場合には、ほぼほぼ「どうでもいい拒絶の許す」が7割で残
り3割「諦めの許す」の混合物だ。

話は物語に戻る。
ここで出てきた「許し」は、積極的な「偉大な愛の許し」なのだ。
人の中にある「善」に期待し、そして「弱さ」を包み込む尊い慈しむ気持ちから出ている。

今回のエピソードで回収されてないが、冥府の王デスハーが、拒み続けてきた王様ランキング1位を受諾し宝を受け取りに行くシーンがあった。
王様ランキング委員会の使者が、意味深な言葉をデスハーにかける。
「自分の私欲のためにランキング1位を受けた。自分は変わらないと思っているようだが、人は変わるもの。」
「王様ランキングは、人々の幸せのためにある。」
ちなみに、これまで王様ランキング1位を獲った歴代の王たちは、宝を受け取って後姿をくらましている。
その宝とは、浦島太郎の玉手箱に類するものなのか?
これをどう捉える、われわれは試されているのか?
歴史は繰り返されるのも、このあたりに原因があるかもしれない。

「王様ランキング」は、その見た目で油断してはいけない、様々な問いを私たちに投げかけてくる。

写真の意味

2022-03-24 21:52:07 | 随想たち
ipodにたまりに溜まっていた写真のデータを、外部へと移動した。
このブログにあげてある写真もその中からのもので、私の記憶の一部でもある。
ほぼ写真とは、個人的記録、人生のエピソードを補強する記憶媒体であり、何に心を動かされたかの軌跡でもある。
その中でもとりわけ異質で、考え方によっては重要視されるものに、人生の節目である七五三や入学式、成人式、結婚式などに撮る写真がある。
これこそもっとも個人的な写真で、かつそれに掛ける費用と労力は飛び抜けているだろう。
それらの写真を日常的に見られるように飾る人もいるけれど、撮ってから仕舞いっ放しにしてみない人もいる。
ちなみに私は後者だ。
それならば必要ないのではないか?と思うけれども、年齢を重ねてきた今となっては、撮っておいたほうがいいと思える。
時間は戻れなく、ごく僅かな人にとってしか意味を持たない写真だけれど、だからこそその時々の大切な節目をそれなりに身なりを整えて写す写真は価値のあるものではないか。
フォトスタジオで大枚をはたかなくて工夫して撮るもよし、もちろん大勢専門スタッフに囲まれて気持ちよく撮るのもいいだろう。
今は、卒業から入学と区切りをつけて新しいステージに参加する節目の時、期待と同じくらいの不安を抱えた自分を、記録しておくものいいものだ。
自分の生きてきた足跡を、写真を通して振り返る素晴らしい素材となるのだから。
どんな経験も、自分の生きてきた証で、愛おしめるようになりたい希望もある。