rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

地球の下側のミュージシャン、メン・アット・ワーク

2014-05-30 14:34:45 | 音楽たちーいろいろ


Men At Work - Down Under

世代的にそうですが、やっぱり聴いている曲は80年代の曲が多いでしょう。
仕方がありません、だって青春でしたから。
当時は若くてお金もありませんから、気に入ったアーティストのアルバムをすべて買うことなどできませんし、ラジカセの前で真剣にエアチェックしてもいい音で録音が成功するとは限りません、出会う音楽は一期一会といった感じです。
それでもアメリカでヒットしたものは、かの”ベストヒットUSA”でミュージックビデオとともに視聴できました。
このとき新鮮な驚きを伴って、私の生涯の音楽嗜好を方向付けたのでした。

このメン・アット・ワークはオーストラリアのバンドで、発表したアルバムは3枚のみ、活動期間も6年と短い。
1枚目の”Business as Usual”と次の”Cargo”の中のヒットした曲が、ここにあげてある。
ボーカルのコリン・ヘイの声が、ダイアー・ストレイツのマーク・ノップラーに似ていて好きな声質ということもあるが、曲のアレンジがユニークでいい。
”Down Under”の中南米を意識したフォークロア調に、”Who Can It Be Now?”のサックスを効かせドラムのリズムのシンプルなアレンジが、垢抜けていなくても渋みがありいい雰囲気を出している。
この2曲は、残っていく曲だと思っているのだが、いかがかな?

このブログをきっかけにして、どうぞ彼らの音楽世界に浸ってみてください。



Men At Work - Who Can It Be Now?



Men At Work - Overkill



Men At Work - It's A Mistake

外でくつろぐねこ

2014-05-29 22:12:58 | ねこ

こうすると落ち着くの


コケのじゅうたん

体調を崩してから、特にカラスが我が家の制空権をとってからというもの、ねこは昼間外に出なくなった。
今までならば、芝生の上でのんびりとくつろいだり、庭掃除をしているとどこからともなくそばにやってきた。
ねこの姿のない庭はものさみしい。
ところが今日は、気分がいいのか家人と庭で話しているとねこがひょっこり姿を見せた。
そして暑さを紛らわせるかのように、日陰のコンクリートの上に横たわる。
本当に久しぶりのことなので、ついうれしくてこの時間を楽しみたいと足元の草を抜きながらねこのそばに寄り添った。
その様子を見て家人が昨日あったことを話し出す。
夕方遅く、ねこがネズミを捕って見せに来たらしい。
ねこがネズミを捕らなくなってもう数年になる。
それを見た義母が、「いつも世話してくれた感謝と最後の挨拶を兼ねて、ネズミを捕ってきたのではないだろうか?」と言っていた。
確かに相変わらず口の中の炎症は治まっていないらしく、口からはよだれをたらしたびたび口のあたりをさすっている。
自慢の毛並みもいくらか劣ってきたようだ。
しかし幸いなことに、まだ座布団の上で熟睡している。
いつかは必ず来る別れだけれど、ねこと少しでも一緒にいたい。
だから、できるだけねこに話しかけ、やさしくマッサージをしなくては。




階段もすてがたい


緑のジャングル

歯の治療の浦島花子

2014-05-28 13:01:38 | 健康について
今月は、35年ぶりかと思われる歯の治療のため歯科医院に通っている。
虫歯で痛みがあったわけではなく、とうとう取れてしまった奥歯の詰め物を治そうと思ったからだ。
ところが、虫歯で歯が欠けてしまったと聞いて驚いた。
「虫歯とは痛いもの」という固定観念が、その可能性を奪っていたわけ。
痛みがないから神経には支障がなかったようで、虫歯の部分を削り、金属で欠けたところを補うことになる。
ひとまず治療は済み、ほかの歯のチェックをすると、上奥歯に隠れ虫歯が見つかった。
軽く削って終わりと思いきや、なかなか奥まで侵食されて深く削るようだった。
また型を取って金属を詰めるのかと思っていたが、「レジンというプラスチック素材を詰めたので、もうこの歯の治療は済みました。金属ほどの強度はないので、時たま詰め物が取れる場合があります。」と説明があり、次回のプラーク除去でひとまず完治となりそうだ。
家に帰って家人に治療の報告をすると、プラスチックを充填する治療法に驚いた。
つい最近まで、家人も歯の治療をしていたけれど、そのような方法は施術されなかったようだ。
もっとも、家人の場合は軽い虫歯とは程遠いものなので、治療方法が私と同じになるとは思えない。
また、通う歯科医院が違うところだから、治療方針に違いがあるのも仕方がない。
それにしても、35年も経てば何やかにやと変わるもの。
第一、レントゲンなど撮ることもなく、プラスチックの詰め物もなかった。
家人と虫歯と歯の治療について話をするたび、私が35年前に治療してくれた歯科医は大変上手だったと思い返す。
当時ひどい虫歯で長く通って大修繕し、ほとほといやになったので、教えてもらったブラッシング方法で丁寧に歯を磨き続け今日まで歯科とは縁が遠くいられた。
いまはもう年齢も上がってきたので、歯周病などさまざまなトラブルと無縁でいられないにしても、丁寧な歯磨きを基本とする口内ケアを心がけよう。
あとは、1年に1回の歯科検診を億劫がらないで受けたいものだ。
食いしん坊なだからというわけでなく、毎日おいしく食べられる幸せを逃してはもったいないでしょう?

奇妙な潮流がここにも行き渡っている

2014-05-26 12:05:31 | つぶやき&ぼやき
最近の子供たちは、忙しすぎる。
ほとんどどの子も忙しい。
小学生のうちからも、中学生になると強制的に、高校生でも大方の者が、一日びっしりと予定が詰まっている。
週末も忙しい、月に2回一日フリーがあればいいくらい、夏休みなどの長期休暇もあって無きがごとき状態だ。
しかも、自由な時間を持たないよう何かに所属したり予定を入れることが、学校をして奨励しているきらいがある。
百歩譲って中学はいいとしよう、しかし進学校と自称している高校でも部活動(運動部)入部を推奨し、文武両立は可能と振れまわるあたり奇異な感じを抱く。
ゆとり教育の反動で、小学生から履修内容は膨大に増えた。
学校での教育だけで、どれだけの子供が内容を理解しついていけるのか疑問なほどに。
塾や通信教育の補助ありきで中間層を底上げするのが前提となっている。
高校生になって国公立の大学に進学したい場合など、気の遠くなるような学習量をこなすのに、毎日8時を過ぎないと帰宅できないような部活動しては到底無理と思われる。
だが、このことに疑問を抱く人はあまりいないようなのだ。
中学校も高校も教師はみな口をそろえて「部活と勉強の両立はできる」「部活動をきっちりやりながらも大学はいける」という。
週1~2回の活動だったらそれもあるだろう、けれど週6日となると話は変わる。
子供たちは疲れきって、よからぬ行動にでないばかりではなく(これも狙いの一つだと思うが)、自分で考える余裕も奪われてしまっているようだ。
くわえて、スマホなどのによるゲームやなんといっても際限のないLINEが、空いた少ない時間を根こそぎ奪っていく。
部活動もそうだが、LINEなど、必ずどこかに所属したいという人の弱い心理をつき、そこから離れたり所属しないものを排斥する傾向はなんともいやらしい。
昨夜家人との会話で「付和雷同」の風潮が濃く蔓延しているのではないかとあった。
もともとその傾向が強い我が日本が、さらに増していてなんとも気味が悪い。
もはや笑って済まされないような、学校教育からの社畜養成、思考停止のロボトミー化が、定着したようだ。
なぜならば、教育現場に携わる教師の多くが、バリバリの体育会系が大多数を占めているという現状は、どう見ても偏りすぎでしょう。
一方に触れてしまうということは、片方を黙殺する可能性が高すぎる。
教育現場は、ニュートラルでなければその本来の意味や機能を果たさないと思うのだ。
多種多様な考え方が満遍なくあってこそ、バランスのとれた社会を生み出す土壌となるはずだから。
最近の振幅は幅が大きすぎて、しかもその負の遺産が厄介なところに、先行きが見えない時代である。




水戸室内管弦楽団第90回定期演奏会

2014-05-25 23:14:35 | 音楽たちークラシック
水戸室内管弦楽団第90回定期演奏会の中継をテレビで見た。
演目は、指揮者なしで「メンデルスゾーン:弦楽のための交響曲 第2番 ニ長調」、ついでフィリップ・トーンドゥルのオーボエによる「モーツァルト:オーボエ協奏曲 ハ長調 K.314」、そして小澤征爾指揮で「ベートーヴェン:交響曲 第7番 イ長調 作品92」。
今回、どの曲も長調の明るいもので、季節柄に合っていた。
メンデルスゾーンの十代初期の交響曲の習作というが、華やかな曲調はサロンなどを盛り立てるのにふさわしく、今日の演奏会の一曲目として成功していた。
モーツァルト21歳のとき作曲したオーボエ協奏曲も艶やかかつ軽やかなオーボエの音色で、演奏に合わせてこちらの心も浮き立つものだった。
オーボエのソロパートは、この水戸室内管弦楽団のオーボエ奏者でもあるフィリップ・トーンドゥルによるもので、張りのある軽快な音色が曲のある持ち味を引き立たせていたように思う。
そして、好演奏への惜しげない拍手喝さいを受けてのアンコール演奏では、アレッサンドロ・マルチェッロの「オーボエと弦楽合奏のための協奏曲 ニ短調 第2楽章」があった。
とても有名な曲で、誰もが一度は耳にしたことがあるのではないかと思っていたら、バッハがチェンバロ協奏曲として編曲しているとあり、どちらかといえばバッハで馴染んでいたのだとわかった。
マルチェッロも、形を変えて彼の曲が残っていくことを悪くは思うまい。
第1部でも十分満足のいく演奏だったが、第2部はさらに盛り上がったのだった。
小澤征爾が4ヶ月ぶりに今度はベートーベンの交響曲第7番を携えて指揮に戻ってきた。
「ベト7」という略称で「のだめカンタービレ」でもお馴染みのこの曲は、とにかく明快なリズムが曲をテンポよく引っ張っていく、古典的曲調と一線を画したものだ。
第1楽章は、それこそ「のだめ」のテーマ曲ともいえる明るくはっきりとしたリズムと覚えやすいフレーズで曲が構成されている。
第2楽章は、暗く静かでゆっくりとしたテンポが曲を占め、ここでもそれに見合ったフレーズが色合いを変えながら繰り返される。
第3楽章は、前の2つを合わせたかのような軽快で速いテンポと伸びやかで穏やかなテンポを交互に繰り返す。
第4楽章は、強く速いテンポに細かく刻むリズムが力強く歌い上げ、畳み掛ける音とともに一気にクライマックスへと駆け上がっていくのだ。
第3から第4にかけて、指揮者は疲れを振り切ってまでも、醸成された曲の雰囲気を壊さないために演奏を続行した。
おかげで聴いている者は、ベートーベンの曲の世界に酔いしれることができた。
第1部と第2部の休憩時間には、楽団員へのインタビューを放送してくれ、その中で、「ベートーベン交響曲第7番は大編成のオーケストラで演奏されることが一般的だが、小規模の室内管弦楽団でどのようになるか興味深い」「ベートーベンの演奏構成によると、フルート・オーボエ・ホルンなどの管楽器はそれぞれ各2つとあるから、ベートーベンの意図にあった楽団構成に近い」などの話があり、曲を聴くときその点も注意深く聴いてみることができた。
なるほど、もともと華やかなメリハリのある曲だけれど、シンプルに曲の真髄に近づけるような気がして、好感が持てた。
劇的作風の多いワーグナーは、この交響曲第7番を評してこう語った「舞踏の聖化」と。
踊って恍惚の状態になるようなダンスのステップを踏むかごとくのリズムが、そう言わしめたのかもしれない。
最後の第4楽章に向かっての怒涛のリズムは、やがて迎える大団円でフィナーレを飾る先導者。
演奏が終わった後のコンサートホールの興奮と熱気は、それを如実に物語っていた。
あの世で聴いていたとしたらベートーベンは、きっと満足したことだろう。