rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

レイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」

2014-11-30 22:34:14 | 本たち
久々に本を読んだ。
厚さ4センチはあろうかというレイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」、買ってしばらく積んでおいた本だ。
読みだして10行ほどでもうこの作品が並みのものではないことを期待させる力を発揮し始めた。
とはいえ、そうそう読書に時間をかけていられない状態で、4~5ページ読み進められるかどうかの日が続いた。
そのうちに雨の日が多くなり、しかも学校が休みの日ともなればなるべく子供の傍に居るようにしているので、本を手に取る機会も増えて一気に読むスピードはアップする。
ページを繰るごとにチャンドラーの作った世界に引き込まれていく。
自分があたかも1950年代アメリカのラスベガス、荒野の徒花にいて、事の成り行きを目撃しているような感覚を持つ。
目も眩むような上流階級の隔絶された別世界、排気ガスと酒や排泄物の入り混じった饐えた臭いが立ち込めるダウンタウン地を這うように生きる人々、アメリカのいや人の集まるところに必ず起こる腐敗した構造。
人は生きながらに腐って死んでゆくのをとめられない。
砂粒ほどの期待を持ち合わせてはいないのに、自らの理念に基づいてロマンを追い求める主人公に、安息のときはやってこない。
彼のロマンと理念は、違う立場から見ればただの傲慢かもしれない。
しかし、実際のところ人は理解しあうことはできないし、埋めがたい溝を不断の努力で縮めるしかないのだ。
現実は過酷だ。
ネバダの砂漠、荒野のように、何者も寄せ付けず、うたかたの夢を見て徒花を咲かすのが関の山だろう。
物事の終わりには、前にも後ろにもただただ何もありはしない。
人の死すら、風塵となって消えてしまう。
それでも、どこか絶望だけでは終わらない人のたくましさが、図太さといっていいかもしれないが、全編に一本の糸となって通っている。
これがなかったならやわなハードボイルド小説で、魅力は激減したと思うのだ。
ともかくも、二度三度読み返してみようと思える作品であることは間違いない。

豊かな自然に囲まれたオークランド

2014-11-29 23:08:36 | 街たち
「にじいろジーン 地球まるごと見聞録」ニュージーランドの北島北部にあるオークランドは、海と山を備え持つ自然豊かな大都市だ。
市内からそう遠くないマタマタという街は、羊の放牧場が主であったが、映画「ロード・オブ・ザ・リング」のホビット村の撮影が行われたことで有名になった。
そのセットは今も保存され、ホビトン・ムービー・セット・ツアーが開かれて、世界中から観光客が訪れる街となる。
フロド・バギンスの家の上にそびえる木は鉄とシリコンで作られたもので、代わることのない姿を保っている。
ホビットたちの社交の場”緑竜館”もそのままに、映画の登場人物に扮するコスチュームを借りてなりきることもでき、またノンアルコールのジンジャー・ビールでのどを潤すものよいだろう。
オークランドの港からボートで40分のところにある島ワイヘキは、ワイナリーが20箇所もあるワインの島だ。
5種類のワインをテイスティングできる「マッドブリック・ワイナリー」や、ブドウ畑の上に張られたワイヤーを滑空するエコジップ・アドベンチャーなど、楽しみも盛りだくさんだ。
オークランドから車で3時間のワイトモには、人一人がやっと通れるほどの入り口がある洞窟の中にスウェットスーツに身を包みヘルメットをかぶって浮き輪とライトを持ったなら”ブラック・ウォーター・ラフティング”冒険の始まりだ。
洞窟の中に流れる水に乗って鍾乳洞を眺めたり、3mの落差のある滝に飛び込んだりスリルと神秘を両方体験するのだ。
カウリという大きな木のあるハイキングコースに入るときは、種の保全のために靴底を消毒しなければならない。
日本でも小笠原諸島では、島の固有種を守るために同じようなことをしているとテレビで見たことがあるが、本来ならばさらされることのない病害虫を持ち込む可能性の高い人間が足を踏み入れるときのマナーだと思う。

ニュージーランドも、隔絶された環境の中で独自の進化を遂げてきた動植物の宝庫。
かつてこの地にもたらされた人災によって絶滅した動植物の生き残りが、これ以上の脅威にさらされないよう努力を惜しんではならない。
人は新たな生命を作ることはできないけれど、滅ぼすことは容易いからだ。
自然の恵みを、命のおこぼれをいただいてしか、生き物は生きられないのだから。

それにしても、家族で「ロード・オブ・ザ・リング」の大ファンだからして、ホビット村にはぜひとも訪れてみたいものだ。



花だって愛が欲しい!

2014-11-28 22:21:23 | 植物たち

愛を受けて咲いたテラコッタ色のバラ

開くばかりになった固い蕾のまま二週間以上もいたバラを、一縷の望みをかけて切花にして台所の出窓に飾った。
待てど暮らせど5日ほどその状態を堅持するバラに、咲かないで終わるかもしれないとあきらめかけた。
今まで何度も、初冬になってもがんばって咲こうと蕾をつけるバラたちがいたけれど、そのままばかりではなく切花にして部屋においても蕾のまま潰えていた。
やはり今回もだめなのか・・・それでも他の手を試してみるのも悪くないはず、そして思いついたのがバラにキスをし話しかけ優しく撫でてあげること。
3日前の夜にはじめ、翌日の昼ごろ蕾の様子が変わっているのに気がついた。
そこでまたキスをし話しかけ撫でることを繰り返していると、おととい朝には
蕾が緩み夜になると三分咲きになった。
なんと今では見事に開き気品ある姿を誇らしげに見せている。
愛、愛の力なのだろうか?
植物と動物の種を越えて愛が伝わっていく。
これは神秘だ。
力強い希望と同じほどやりきれない絶望もやってきた。
同種同属での愛の断絶。
疎になって、同属のありがたみを身に沁みるしか、それを直すことはできないのだろうか?



今日の朝日

型にはめられた子供の絵

2014-11-27 22:20:42 | つぶやき&ぼやき
児童生徒の描いた絵の展覧会を見てきた。
はじめに見た壁面は、とてもカラフルで自由に描いていた。
小さい頃からたくさんの色に囲まれ、グラフィカルなものを多く目にしてきたからなのだろうと思えた。
ところが、各ブース、つまり学校ごとを見進めていくと、奇妙な気分に捕らわれた。
見進めているはずなのに、同じところに居続けているような錯覚に陥ったのだ。
それはなぜか。
各学校、若干の違いは認められたものの、描いている主題も変わらなければ、色使いも変わらない、ものの捉え方も判で押したようだ。
主題が同じなのは学校という特性上問題はないが、色使いと捉え方が同じというのはどういうことだろう。
微妙な違いが指導者のカラーということは、その学校の子供たちの絵がそれ一色に染まっていることから窺える。
しかし、色とものの捉え方にはもっと違いと幅があってもいいのではないだろうか。
子供はまわりに引きずられやすいけれど、そこにはいわゆるお手本の存在と大人の指導が見て取れた。
だから、一見子供らしく自由奔放に描いたように思えるが、その実は個性などどこにも見当たらないものに仕上がったのだ。
時々、極めて稀にその型にはまらない絵を目にすると、かえって際立つ。
子供が小さいとき、図工の時間、絵を描くとき一定の方法で描くようにと指導があって、それにあわないと直させられるといっていた。
教師も美術の専門ではないから指導マニュアルに副って授業を進めなくてはならないもの一理あるけれど、そのとき与えたテーマ以外、自由に描かせるべきではないか。
絵とは元来自由であるもので、ましてやデザイナーでも工房に属した絵師でもないのだから、楽しんで描き、美しいものに感動できる心を養うのが図工や美術の教科の意図するところだろう。
あと考えすぎかもしれないが、教師たちの一定のノルマと評定を意識した指導のあり方と思えなくもない。
子供たちは、立身出世や生活の糧の道具でもなければ国を支えるマシーンでもない。
今回の展覧会を見て、言い知れぬ気持ちの悪さを感じたのは、単に私の思い違いであることを希望している。

フクロウ羽ばたき、キジ駆け回り

2014-11-25 22:32:45 | 生き物たち
冷たい雨が降る日だったので、中くらいの人を学校へ送迎した。
夜7時半ごろ、家に程近くなったところで、ヘッドライトに照らし出される鳥の羽ばたく姿を見た。
羽を広げた大きさは1mもあろうかという大物、風切り羽が広がっている、フクロウだ。
電柱あたりから飛び立って、すうっと弧を描くようにビニールハウスの脇にある草原めがけて降下したようだ。
フクロウがヘッドライトの光に驚いたのか、はたまた草原に潜んでいたネズミがあわてて動いたそれを狙ったのかわからないが、初めて見られたフクロウに感動ひとしきり。
ところが、中くらいの人は夜の部活動中の学校で、あるいは自転車に乗って学校からの帰り道に、幾度となくお目にかかっているそうだ。
狸にハクビシン、イノシシ、イタチ、カワセミなど、中くらいの人が目撃した物は数知れず。
ここが田舎といってしまえば終わってしまうが、都心からそう遠くもない自然がたっぷりと残っている秘境とすればいい所だといえよう。
おととい、裏の畑に生ごみを捨てに行ったところ、オスのキジがスタタタタと駆け回っていた。
なかなか悪くない環境だ。
ところで、特に何も目立ったもののないこんな田舎のしかも国道沿いでもない場所なのに、Gのストリートビューが存在する。
しかも今年の春らしい。
いやはや全く、こうもおおっぴらに開示される世の中になっているとは、恐れ入ってしまう。
不便さを忍んで静かな暮らしをしているメリットが、無神経に侵害されている。
これは便利さといっていいものではないはず。
フクロウが羽ばたき、キジが駆け回る秘境をそっとしておいて欲しいものだ。