rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

愛惜、アレッポの石鹸

2015-01-30 15:44:30 | 随想たち
中くらいの人が小さかったころ、若干アトピー性皮膚炎の兆候が見られたため、使用する石鹸を選ぶ必要に迫られた。
たまたまテレビを見ていたならば、無添加低刺激性の天然素材オリーブオイルでできた石鹸、そのときはマルセイユ石鹸、を知る。
ただし、そのマルセイユ石鹸、とても高価にして近くで簡単に買えそうもなく、ネット通販も一般化していなかったことから、諦めの対象でしかなかった。
ややあってから生協を始め、商品カタログに「アレッポの石鹸」を見てこれだとばかり買い求める。
マルセイユ石鹸ではないけれど、シリアの古都アレッポで古来より伝わる製法で手作りされるオリーブオイル100%の「アレッポの石鹸」、生協を利用するころにはこれもテレビで情報を得ていた。
レンガを半分にしたようなごろんと厚みのある大振りな石鹸で、外側の色は砂漠の砂のような灰色がかった黄褐色、そしてどの石鹸にも刻印のような模様が押されている。
写真で見る石鹸の切断面はオリーブグリーンなのに、たぶん外側するときに酸化されたかで黄褐色になったのだろう。
いざ使ってみると、濡れるとすぐに溶け出して軟らかくなるため置き場所を選ぶが、皮脂を取りすぎることがなくて肌は潤いを保ちなかなか具合が良い。
これならば毎日石鹸を使用しても、かさかさと乾燥し痒くならないですむ。
新陳代謝の旺盛な小さな子供の肌を清潔に保つに、相応しい石鹸だ。
それから中くらいの人が小学校に上がるくらいまで、アレッポの石鹸のお世話になった。

そして、今シリアは内戦とISILと空爆によって壊滅的状態になっている。
アレッポの数千年における歴史的遺産も、瓦礫と化した。
もはやアレッポの石鹸を作れる状況ではない。
我が家にあと1個、アレッポの石鹸が残っている。
それを見るたびに心が痛む。
人々が営々と築いてきた歴史が、伝統が、あっけなく葬り去られることを。
なぜに人は争い、破壊し、殺し合うのだろう。
アレッポの石鹸は、アレッポの町を造っていた石と同じ色をしている。
私は、ここに残る1個の石鹸が、アレッポの墓標のように感じるのだ。
どうかこれ以上、町を人を壊すのを止めて欲しい。
オリーブを栽培し、その実から抽出する油を使い伝統的製法を受け継ぎ作る石鹸が、再び世に出回ることを切に願う。
そして人々に笑顔が戻ることを祈って止まない。

猫の足跡

2015-01-29 22:59:50 | ねこ
洗濯物を干そうと台の上に洗濯籠を置こうとしたなら、猫の足跡がついていた。
たぶんどこかの猫のものだ、昨夜、寒さをしのごうとこの台の上に乗ったときついたのだろう。
それを見て、きゅうっと寂しさがこみ上げてきた。
足元がぬかるむときには、あのねこもよくこの台に上がっていたのを思い出したから。
あとは、陽のあたる古い母屋の縁側に寒い朝などちょこんと座って暖を取る姿が、今なお網膜に焼き付く。
いや、枯れた芝生の上にも、井戸の側にも、そうだ、ねこはいたる所にその足跡を残していった。
まだ寂しさは癒えないが、ねこがいたときの幸福感はあちらこちらに刻み付けられた。
猫の足跡、何か特別な気持ちを与えてくれるものだ。

箱より中身

2015-01-28 23:17:26 | つぶやき&ぼやき
いやはや、昨日から今日への気温の急降下には堪えた。
しかも昨夜の雨が朝に雪へと変わって、あっという間の雪景色。
忙しいことその3時間後には、雪雲が晴れて照り付ける日光で雪の痕跡は跡形もなく消えた。
それでいて時折雪がちらちらと舞ってみたり、夜は満天の星空とあわただしい空模様の一日。

さて、話は変わって。
少子高齢化、過疎が進行しているこの地域では、小学校中学校の統廃合が推し進められている。
新規の土地に明るく広くきれいな校舎を建て、通学バスを運行する。
それには莫大な費用がかかるが、それよりも耐震工事と人件費よりも経費削減になるのだろう。
しかし、それが子供たちのためになると思えないのが残念だ。
百歩譲って、子供が激減している現状において学校の統合はいいだろう。
でも、立派過ぎる校舎は無駄ではないだろうか。
たしかに、学校は災害時の避難場所としての機能を持つ。
快適な環境で勉学に励むもよろしい。
けれど、箱がよければそれで良いわけはないはず。
子供は心を持った生き物、何より指導者の充実が先決だ。
人件費は何よりかかるのは先刻承知だが、これを削っては限られた人数の指導者に過分な責任と労働を押し付け、指導者の余裕を奪い、ひいては子供たちにそのツケが回ってしまう。
教育に効率を求めてはいけない。
どうも最近、すべてに効率化を求め優先させすぎているように見受けられる。
人は工業製品ではないのに、妙なところで管理したがっているらしい。
また、過疎化が進んで税収が上がる見込みなどこれっぽちもないなか、予算は膨らむ一方も解せない。
未来永劫、拡大発展するなどとあまりにも楽天的ではあるまいか。
これは、地方だけに限らないのは誰しもが思い当たること。
ただ、さすがに考え直すときであると思うのである。


この冬はしばしばみっちりとした雨が降る

2015-01-27 23:01:15 | 空・雲・星・太陽たち
今夜も雨が降っている。
しかも、昨日に引き続き温かな雨。
冬にしばしば雨が降るなんて、珍しいかもしれない。
そういえば、まだ水道の凍結もない。
でも明日から強い寒気が南下してきて、いまどきらしい気温になるという。
もっとも、北海道でも雨が降ったのだから、今回の暖かさが特別だったのは言うまでもないけれど。
さて、また全身に力を入れて寒さに立ち向かっていこうか。
大げさと思うかもしれないが、田舎生活は屋内と屋外の境が曖昧で、頻繁に外へ出て行くしかないのだ。

オバサンは畑へ大根、白菜、長ねぎをとりに

2015-01-26 22:39:37 | 食べ物たち
寒さが緩んだら、畑へGO!
じゃないと土も野菜も凍っていて、抜くのに骨が折れるんだ。
長靴を履いて手にはナイフで畑へずんずんと進んでいく。
まずは長ねぎ、ねぎの周りの土を掘り、しっかりと両手でねぎを掴んでちょっとゆすりながら真上へ引き抜いた。
ときどきねぎを掴んだところで千切れてしまいやっちまった感のバツの悪さを隠すため、土をかぶせて再生を待つというかお茶を濁す。
首尾よく抜けたねぎは、外側の汚れた皮を取り除き根を切って処理すれば、見栄えよさがアップする。
次は、大根。
大根を引き抜くのは造作もないこと、わずかに残ったはの部分をしっかりと掴み、えいやっと引き抜く。
長くすらりとした大根ばかりではなく、足を恥ずかしそうに組んだ物や、内股蟹股の物など、地下にはいろんな表情の大根が隠れている。
さて今時期の大根、地表に出ている部分は凍って溶けての繰り返しで細胞壁が壊れておいしくないけれど、埋まっている部分は真っ白でみずみずしく甘味があっておいしい。
もちろん葉もほとんど枯れているから、迷うことなくその場で切り捨て根の部分だけを井戸場へもって行ききれいに洗ってあげると、輝く白さの大根様になる。
最後に白菜。
すぐ隣にある親戚の畑へ白菜を拝借に、寒風に耐え繭のようにじっとたたずむ白菜の乾いて張り付いた葉をぺりぺりとはがし、虫食いの葉もついでに剥いて、地下に食い込む根から切り取る。
すると、あら新鮮、きれいな黄緑色と白の美しい白菜が立ち現れでるではないか。
なかには白菜の中心に向かって進行している虫の存在を示す穴もあいているけれど、それだけ安全でおいしい証拠なのだと考えて見なかったことにする。
ずっしりと水分の重みを感じながら、収穫の喜びとともに、長ねぎや大根たちを抱えて足取り軽く家に戻る。

そして今晩は、とれたての野菜を使って豚汁だ。
たまたま暖かい晩だけれど、体の芯から温まる冬野菜たっぷりの豚汁は、冬のご馳走。
野菜の命を自分の命へと転換するダイナミズムに、気持ちもふるふる高揚するのは、畑へ行って自分でとってきたからなおさらなのだろう。
ちょっとした野生への回帰の瞬間かしらんね。