rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

新緑ウォッチング

2012-04-30 20:43:42 | 旅先から
旅をどう定義したらよいのだろう。
周りの景色を眺め愛で、何かしらの発見をし、心躍り開放感を得られるとするならば、家から一歩踏み出すだけでも、旅と言えなくもない。

今日は、実家への片道1時間、車窓から眺められる新緑を、心行くまで楽しんだ。
白いネコの尻尾のような花が咲くウワミズザクラ、緑黄色のクヌギ、若草色の房状の花をつけるコナラ、鮮やかな萌黄色のケヤキ、若緑のカエデ、それにさし色の八重桜の浅緋色、眩いばかりの菜の花の黄色。
全てが淡く明るい色だが、それを引き立たせるのはスギの千歳緑の濃さだ。

4月の中頃から、もやもやと枯れ木に新芽の芽吹きが目立ってくる。
5月の連休を過ぎる頃までが、若萌えの季節。
特別何処へと出向くことなく、身近な景色が色彩豊かになり、目と心を楽しませてくれる素晴しい季節。
1ヶ月に満たないこの特別な季節は、自分にとっての宝物。

人は自然の一部。
人は、自然に生かされ癒される。
新緑の緑に花々に、心を洗われた日だった。

夢のコートダジュール地方

2012-04-28 20:55:38 | 街たち
「にじいろジーン 地球まるごと見聞録」今日は、フランス:コートダジュール地方。
カンヌからニース、モナコ公国にかけての地中海沿岸の街たち。

カンヌ、ニース、モナコなどは、セレブな観光地として有名。
ニースから東に位置する小さな村々を、”鷲の巣村”と総称する。

そのうちのエズは、一番眺めのよい街。
海岸の縁の切り立った崖山に街をなしている。
昔の面影をよく残している、可愛らしい街だ。

サン・ポール・ド・ヴァンスは、芸術村。
ここにある”ラ・コロンブ・ドール”というレストランは、かつて20世紀の巨匠たちが訪れ、食事をし、その代金の代わりに作品を置いていった、古きよき芸術の時代の名残り。
ピカソやレジェ、セザールなど、名だたる芸術家たち。
いまも、多くの芸術家が、この村に起居し、制作に励んでいる。

ビオットは、ガラス工房が多い街。
なんでも、世界初の気泡入りグラスを作った村なのだという。

トゥーレット・シュル・ルーは、スミレの村。
スミレ栽培が盛んで、”ビクトリア”という品種を作っている。
その色と香りを付けた香水や石鹸が有名。
村をあげてのスミレ祭りをしている。
スミレは、香料ばかりではない。
ここでは、食用にもしている。
スミレのジャムを入れた熱々のクレープに、スミレのアイスクリームをのせて、スミレの花の砂糖漬けをトッピングした、”スミレのクレープ”がある。

ほかにも、香水の街グラースなど、特色のある村々が、コートダジュールを彩っている。

巡り歩きたい小さな村々。
紺碧の海に白い海岸、明るい灰色の岩崖、真っ青な空。
そして、季節の花々。
ミモザに夾竹桃、オリーブにオレンジ、レモン。
夢のようなコートダジュール。

ずうっと昔、花のない寒い季節に訪れたことがある。
再びこの地を訪ねられるか、今も心に夢を抱いている。


果樹も負けじと花盛り

2012-04-25 22:35:59 | 植物たち

イチゴの花


ブルーベリーの花

今、イチゴとブルーベリーの花が咲き誇っている。
華やかさはないけれど、可憐清楚な花たちだ。
受粉をもれなくして欲しいのに、蜜蜂の影は薄い。
変わりに、もこもこ丸く大きなお尻のクマバチが、時折来て蜜を吸い、花を落としていく。
グミの樹も、白い小花を隙間ないくらいに咲かせ、クマバチを一生懸命に誘っているから、花粉の運び手は大忙しだ。
今年のイチゴは、特によく咲いたから、絵筆を使って人工授粉をしてみようかと、かなり本気で考えている。

そんな、人が気を揉む視線の先には、ねこがたらんと横になり、甘い昼寝の真っ最中。
いい気なもので、もっともそれがねこの本分なのだから、その可愛い寝姿に癒してもらおう。

どうか、イチゴにブルーベリー、たくさん生って下さいよ。


ねことハナニラ

怒りも超えて

2012-04-24 23:33:57 | つぶやき&ぼやき
今日は、ぐんと気温が上がって、各地で夏日になったという。
あわてて、薄物に着替えた。
晴れ渡った空には、強めの陽射しが満ち溢れ、鳥たちは思い思いに啼き飛び交い、今までなりを潜めていた虫たちも目に付くようになる。
我が家に住まうトカゲたちは、甲羅干しに日向のコンクリートに這いつくばっていた。
ブナ、ナラ、クヌギにケヤキ、若々しく光る新芽の緑を濃くするのに懸命だ。
自然は、廻る季節に順応しようと躍起になっている。

先ごろ、痛ましい自動車の事件が相次いでいる。
使ったもの勝ちとばかりに、巨額損失に開き直る輩も居る。
原発事故は過去のこととばかり、安全確保や非常事態の対応も覚束ないうちに再稼動を強引に進める強い流れがある。
がたがたの財政問題は、あいかわらず各々の保身に振り回され、奇妙な代物を作り出し、いっそう内奥に病巣を増やしながら機能不全の道を歩んでいる。
あまりに多くの事柄で、疑問を持ち憤る心を麻痺させてしまいそうだ。

人一人の心の集積が、社会を構成しているのに、誰もがそれを忘れているようだ。
きっと誰にも備わっているだろう美徳が、小さくなって埋もれている。
超越した存在でもない限り、良心という美徳が欠如しているとは考えにくい。
性善説を信じないけれど、小さな良心の種を宿したものとしての性悪説を信じるものとして、小さな良心の種を育てなくては、人の社会は成り立たないだろう。
悪を必ず持つ人の操る言葉は、往々にして欺瞞に満ちているので、注意すべき。
大きく目を見開いて、広く見渡し、たくさんを聞く。
最良は存在しないけれど、他者との頃合を良心を通してはかり、みなが不快にならない社会を模索するしかないのでは。
神の教えも、人の手に渡るとその輝きを失う。

今が最悪の時ではないかもしれない。
しかし、最良ともいえない。
怒りを超えた、諦めの中に、良心の種を育てる土壌ができると期待している。
まだ、遅くはないかもしれない、未来を繫ぎとめることを。

桜流れて春惜しむ、川合玉堂”行く春”

2012-04-22 22:52:52 | アート




桜は、すっかり葉桜へと変貌してしまった。
庭の風溜まりには、桜の落ちた花びらが、まだ微かにその色を留めて名残尽きぬように固まっている。

河合玉堂の六曲一双の屏風絵”行く春”は、まだ散り終わらぬ桜の花びらが、川面を桜色に染めて豪奢で雅やかな一場面を描いている。
桜をこよなく愛する日本人ならば、誰もが思い描く風景ではなかろうか。
そして、日本人の死生観をそれとなく表しているとも思える。
美しくも花の儚く短い一生は、散って川となって流れ、他のものの礎となり、また命は廻っていくのだと。
西洋中東にはない、東洋的感覚。

玉堂は、明治から昭和の戦後にかけて激変する時代・価値観を体験した画家。
1916年の作である”行く春”を、玉堂はどのような面持ちで描いたのだろうか。
ただ美しいばかりではない、ぴんと張り詰めた冷涼な雰囲気の漂う桜流れるこの渓流を。