rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

「ピカソとその時代」と「国宝展」

2022-10-30 23:06:34 | 展覧会など

ピカソ 踊るシレノス


ピカソ 雄鶏

この二つの展覧会も、10月22日にイッタラ展を見たときに行ったもの。
国立西洋美術館において「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」(2023年1月22日まで)は、かなり充実した作品が展示されていた。
ピカソの作品も青の時代から晩年にかけてと幅広く、影響を受けたセザンヌの数点、特に目を引いたのがクレーの質の高い作品の多さだ。
また、キュビズムのブラック、フォービズムのマティス、ジャコメッティもあって、じっくり堪能したい上質な展覧会だった。
今のスマートフォンは展覧会の照明でも、フラッシュなしでよく撮れるためだろうか、数点を除いて撮影可だった。
これからは、このように撮影したものをSNSやブログで紹介下ならば、集客に良い変化をもたらしそうだ。

東京国立博物館が、開館150年記念で「国宝展」を12月11日まで開催している。
会期中は展示換えがあるため、自分が見たいものがいつ展示されているかを調べるか、または全4期来館するようだ。
開催されて初めての週末だったからか、とにかく混んでいてじっくり見ていられなかった。
たいてい静かにゆっくり思いのまま見られる国立博物館が、私の知るところなので、今回みたいなのはもう遠慮しよう。
落ち着かない雰囲気の中では、作品とじっくり向き合うことはかなわない。
本館の重厚で静かな空間こそ、国宝と向き合う儀式的な場だと思うからだ。


クレー 雄山羊


クレー 3掛ける3の十字


国立博物館


2022年10月22日 イッタラ展

2022-10-24 22:51:06 | 展覧会など




渋谷Bunkamuraザ・ミュージアムで9月17日から11月10日まで開催されている、”イッタラ展 フィンランドガラスのきらめき”を観た。
1881年にイッタラ村で創設されてよりの大回顧展で、生活に根ざしたテーブルウェアから一歩豊かさに歩みを進め美しさを求めた理念が、展示されている数々のガラス製品から感じ取れる。
様々なデザイナーが生み出すデザインは、シンプルさの中に彼らの生きているフィンランドの風土が確実に反映されていた。
凍てつく土地、氷、雪、水、森、地衣類、生き物たち、そして光。
特に光を、ガラスの器を透過してその台の上に織り成す光の綾の繊細な複雑さや、射し込んだ光がその器の中にあたかも物質であるかのように固定化され、極北に近い土地に生きる人が切望する光を見事に結晶化させている。
私は、イッタラのガラスに時折ある気泡が好きだ。
唯一我が家にあるガラスの器にも、小さな気泡が存在している。
壊れなければ、未来永劫存在し続けるこの小さな気泡は、不均一で制御しきれない偶然というままならなさを、イレギュラーという面白さではないだろうか。
あえてこれをよしとするのは、日本的感覚なのかもしれないと思い、私の頭の隅に居座り続けている。
もし、イッタラの職人たちが、この気泡を愛しているのだとしたら、どう愛しているのか聞いてみたいものだ。



いい感じの秋晴れは忙しい

2022-10-16 22:57:59 | 日記
ちょっと動くとまだ汗ばむけれど、爽やかな秋晴れの日は、とにかく忙しい。
布団を干して、カバー類の洗濯、いつもの掃除に窓掃除と床の雑巾がけ、なんと言ってもとうとう夏物をしまえそうな気温になったからの衣替えと、一日中動き回っていた。
合間にラズベリーの収穫、畑の見回り、プランターの植物に水遣りも忘れてはいけない。
試験勉強で後回しになっていた細かな掃除までは、とてもとても行き着かなかったけれど、これからの楽しみである流星群の具合をチェックしやすいように窓を綺麗にできたことが一番の収穫だ。
しかし、心理の学習をする時間を、まったくといっていいほど確保できなくて気持ちが焦る。
そんな私を見た家人は、慰めの言葉をかけてきた。
時には家の中をすっきり綺麗にすると、掃除をしなくちゃいけない気持ちがひとまず落ち着いて気分も良くなるから、勉強に身が入るよと。
いやいや、綺麗なところとそうでないところがはっきりするし、何しろ物だらけで片付かないのは変わっていないから、相変わらずだよと思うけれど、そこは家人の気持ちをありがたく頂戴した。
結局、手元足元ばかり見ていては視野が狭くなるので、大抵いいことにはならない。
4時ごろに外へ出てラズベリーを摘んでいた時、周りの景色を見回し、空を見上げると、美しい世界が広がっていた。
傾き黄色みを帯びた陽を浴びたラズベリーの実は、きらきらと赤い粒を光らせて、精巧な細工を施された宝石のようだった。
囚われが一概に良くないわけではないけれど、囚われて辛い時にはそこから注意をそらすのが必要だ。
私の場合、今日のラズベリーと景色が、そうであったといえるだろう。

そのままな、贅沢貧乏

2022-10-15 23:08:39 | 随想たち
毎度のごとく不親切、視覚に訴える画像がない。
もう食べちゃったからね。
地域で付き合いのある方から、つまり生産者さんより三つ葉を頂いた。
多分スーパーで買えばそこそこのお値段がするはずで、自分で買ったことがないから皆目見当が付かない。
その三つ葉を、贅沢にも一袋分を二人分の澄まし汁に使いきってしまう。
三つ葉の香りが立ち上る、澄まし汁は絶品だ。
しかも今日はシメジも加わって、さらに味に奥行きが出ていた。
三つ葉は2cmくらいに切り、それを卵で閉じて、しょうゆ仕立ての澄まし汁として頂くのだ。
もうそれだけで満足度が、爆上がり。
後は炊き立ての白飯と、佃煮やふりかけで十分におなかも心も満たされた。
この澄まし汁があるときは、かえってその方が味を邪魔しないということもあるけれど、我が家の家計が厳しいのが4割、加齢で消化に負担がかかるものを受け付けにくくなった3割というのがホントの内訳だ。
けれども、様々な人の好意によって頂ける三つ葉やレンコンだけでなく、家人が丹精こめて育てているブルーベリーにラズベリー、一枚田でとれるお米など、実に豊かな恵みに囲まれている。
存在の土台となる大地を直に感じながら、自分の味覚を喜ばせ、血肉となり、心も満たす。
概ね世間一般の判断からすると、いわゆる貧乏、低所得という立ち居地ではあるが、生き物としての贅沢を得ている。
貧者の負け惜しみと捉えられなくもないけれど、何を持って自分の生き方、幸せ、満足を決めるかの価値観によるだろう。
しかし、それにしても物価の上昇と社会制度の変更には、ほとほと打撃を受けている。
自分のできるまじめな労働をして得ている収入では、望まないダイエット生活、医療機関を受診するのに二の足を踏むことが、加速していく。
もう人生半分以上いった世代の諦めは、まだ仕方がないにしても、未来をたくさん持っている若い人たちの絶望感は、ほぼ病的な域に達していそうだ。
こんな悲しいことはない。
若い人たちの自助努力を当てにするのはお門違いで、もう自分は引退して余生をなどと思っている人生の諸先輩たちが率先して未来を良くする行動を起こさないと、この国は、世界はデストピアと化してしまう。
だから、非力な自分ではあるけれど、生きるに値する世界になるように、手の届くところから働きかけをしていこう。
もっとも、既に挫けそうになっているくらい、力不足を実感しているのであった。

2022年10月2日 空の日と戦闘機

2022-10-06 23:32:34 | ドライブ&写真






よく晴れて暑い日、買い物へ言った帰り道、ぶらりと茨城空港へ寄ってみた。
なにやら賑やかだと思ったら、イベントを開催しているらしい。
好んでイベントの類には行かないけれど、偶然をわざわざ避けたりはしないから、人の多いほうへ向かっていった。
時間的にもうイベント終了間近で、テナントの後片付けもほぼ終わりになっていた。
そこからさらに空港施設よりのところに人がまだ流れている。
滑走路方面に何かあるようだ。
おお、戦闘機、しかも現役のものがあるではないか。
きりりと姿勢のいい自衛隊の方々もいて、ところによっては戦闘機のパイロットからサインをもらったり、一緒に写真を撮っている人もいる。
この尖鋭なフォルムの戦闘機は、Fー2だと思うが、非常に美しく設計されている。
いくら見ていても飽きないくらい素晴らしい。
けれど、これは美術品ではない。
刀剣や銃も、殺傷を目的にした道具ではあるが、なぜか過剰なほど美意識を感じるものがある。
装飾を施すだけではなく、その究極のバランスを求めたデザインがあるのだ。
何故、そこにそこまでの美を持たせたのか?
破壊と創造を象徴するウロボロスのごとく、そうすることによって魂のバランスをとろうとする人間の足掻きと思える。
私は、この美しき魔神たちに見えるたびに、アンビバレントな様に心が締め付けられるのであった。