rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

美しい車

2022-08-28 22:56:30 | モノたち

ロータスヨーロッパ スペシャル

私の試験のために、いろいろ協力してくれた家人にも気分転換が必要だった。
神頼みっぱなしでは恐れ多いので、一昨日にお礼と報告も兼ねて鹿島神宮と息栖神社へ参拝しに行った。
そのあと、家人の大好きなスーパーカーを展示してあるサーキットの狼ミュージアムへ足を延ばした。
そんなに遠い場所ではないけれど、なかなか訪れる機会を作れないでいた。
とうとう展示スペースに足を踏み入れられた家人は、スーパーカーと同じ空間にいる喜びでもうすっかり少年のような面持ちだ。
家人は、憧れ続けたランボルギーニーミウラ、ランボルギーニーカウンタック、ランチャストラトス、マセラッティカムシンを間近で見て、その隣で写真に納まり、私に説明をして、大いに楽しんでいた。
車好きにもいろんなタイプがあるが、家人はそのスペックよりも、ひたすら造形を重視するタイプだ。
それは、絵を描いている性なのだろうか、私にも共感できるところだ。
私が好きな車は、エレガントな形の車で、特にここに挙げた3車種だ。
自分が運転する、同乗するというイメージはなく、ただ美しい車と感じている。
車は実用品といえるけれど、実用品には機能美と実用を超えた美しさが宿ることがある。
この3車種は、それに当たると思うのだ。
最近の車には、美しいと感じるものにお目にかかれない。
衝突安全性やコスト重視など制約が多いのかもしれないが、後世に残る美しい車、名車が登場するのはもうないのであろうか。
自動車産業が厳しい時代になってきていても、ただ用途を果たすだけのもので終始しする、そっけないものになって欲しくない。
美は、人の生活に潤いを与えるものと思えるからだ。


日産 パンサー


スバル360


本当のスタートライン

2022-08-26 23:10:43 | 学び
公認心理師の資格試験に合格できた。
ネットに発表された合格者番号を見るときには、さすがにちょっと緊張した。
何度も確認をしたけれど、やはり合格通知書が届くまでは、なんか半信半疑でもある。

さて、この試験を受ける経緯を記そう。
今の職は、教育支援関係で、昨年度で5年勤務したことになる。
これは、公認心理師の受験資格の中に現任者枠というのがあるのだが、これをちょうど満たす最低経験年数にあたる。
たしか一昨年だったか私は、この条件を満たしそうなことを知った複数の知人に、この資格試験の受験を勧められた。
とても責任のある資格を得るための試験をむやみやたらに人に勧めることはあまりないだろうから、そこは私をよく思ってくれてのこととありがたく受け取って、挑戦してみようと心に決めた。
傍から観れば、還暦が手の届くようなほぼ素人の無謀な挑戦と思えなくもない。
けれど、未来ある人たちに、こうしてもがきながら努力して生きている大人の姿を見てもらい、そこから何か思うことが一つでもあれば、それはとても価値のある挑戦と考えた。
だから、関わりのあった子供たちには、そのいきさつと勉強の進捗状況を含め伝えて、ヘタレおばさんが挫けないように応援して欲しいと応援を取り付けた。
そして、この現任者受験ができる最終試験が、今年の7月に行なわれ、私にとって最初で最後の受験機会であった。
半ば強引、泣き落としとも言えるかもしれない応援を支えとして、1年半の受験勉強、4時間に及ぶ試験をやり果せたのだ。
こうしてどうにか合格をもぎ取ったようだが、果たしてこれで勉強から開放されたわけではない。
実はここからがスタートなのだ。
ほぼ現場の、実地経験しかない私は、論理的支柱が非常に弱い。
また、今の職場での経験しかないのも、私を不安にさせる要因でもある。
世界を広げなくてはならない。
どんなに学び、経験を積んでも、これで万全になることはないものだけれど、自分の未熟さが対応する人に不安を与えるのはよくないだろう。
人の心が穏やかで過ごしていける手伝いをよりよくできるために、さらに学びを深めていきたい。

もっとも、私自身が自分を大切にするためにも、芸術への情熱を絶やさないように、心を躍らせながらささやかなものでいいから創り続けるのはいうまでもない。

北大路魯山人のテイスト、春風萬里荘

2022-08-23 23:35:29 | アート

茶室「夢境庵」へ続く門構え

茨城県陶芸美術館のあと、久しぶりに春風萬里荘を訪れた。
北大路魯山人が、鎌倉に江戸時代中期以降の豪農の古民家を改築して住居としていたものだ。
厩だった場所を洋風にアレンジした応接室の床は、年輪の面を上向きにして、まるで石畳のように隙間なく敷き詰めてあり、しっかりとした中にもどことなく温もりがあって、私が凄く気に入っているところ。
茶室は、魯山人自ら設計したとかで、簡素な心地よい空間だ。
特にこの二つが、初めてここを訪れた十代後半の時に、自分の家を作るならぜひともこの要素を取り入れたいと憧れとなった。
そして、どこかで見たことのある浴室風景だが、この浴槽と壁と床のタイルは、北大路魯山人が作った陶板なのだという。
壁の二面は擦りガラスの窓となっていて、日中にお風呂に入ると気持ちがよさそうだ。
また、土間の廊下から脱衣所に入ったドアのすぐ横には、もう一つのドアが付いていて、その向こう側には急な階段があり、養蚕をする二階へと続いていた。
となると、もう真っ黒くろすけがいるしかないだろう。
こんなふうに、ゆっくりと想像をめぐらしながらいられる、趣味に生きた北大路魯山人らしいいい場所だと思う。


木の切り口を利用した床材を、石畳風に


「となりのトトロ」に出てくるサツキたちの家の五右衛門風呂によく似ている


茨城県陶芸美術館「井上雅之 描くように造る」

2022-08-22 22:50:46 | アート




秋めく空を感じる昨日、茨城県陶芸美術館で開催されている展覧会「井上雅之 描くように造る」に足を運んだ。
緑豊かな広い敷地にある美術館は高台にあり、なかなか気持ちの良いロケーションだ。
芸術に向き合うための心のウォーミングアップに、最適な環境と思えた。
この展覧会は、井上雅之氏の40年に及ぶ芸術活動を振り返えられるもので、作家の変遷がわかりやすく展示され、どのようにイメージを精錬していったのか、興味深く見ることができた。
初期の作品は、陶芸、つまり器やろくろという伝統と固定概念の世界で模索している、まだ捕らわれた狭い世界の印象が否めない。
しかし、あるときから、その呪縛をとこうという兆しが見える。
そこからは、ただひたすらに己の根源にあるこだわりに忠実に、粘土という細胞壁を積み重ねていくようになる。
まるで、白蝋化した生き物の形骸、腑分けされ解体されたあとの脊髄や肋骨のようなそれらは、死を超越した存在のようにある。
きっと、粘土のセルを積み重ね増殖する行為に、えもいわれぬ喜びを見出しているのだろう。
私は、その繰り返す行為の陶酔感を支持したい。
倦むことを知らぬかのような子供が繰り返す遊びは、それによって満足と共に自分の中に経験を落とし込む機能がある。
大人になった日常の中にも、その快感を伴った行為はしばしば顔を出すけれど、どうしてそうなのか気にとめる人は少ない。
彼の作品を見ると、人のプリミティブな感覚が昇華されていて、芸術の大切な一面を再認させてくれた。
そして、概ね実用に用いられる陶芸を、こうしてここまで非実用な素材としてふんだんに使ったパワーが痛快、いやむしろ呪術の領域に入り込んでいるように感じられた。
たとえるならば、縄文スピリットとでもいえようか。

追:ほとんどの展覧会は、撮影禁止。
  そのなかで、撮影許可とは、たいへんうれしかった。
  作者と、美術館に感謝いたしたい。








二匹のヤモちゃん

2022-08-17 22:57:49 | 生き物たち
このところ毎日のように、キッチンの北窓にヤモちゃんがやってくる。
でも、なんか違和感がある。
どことなく小ぶりになった?と感じた次の日には、あれ?元の大きさ????という具合に、私の不確かな記憶力を試すかのようなことが起こるのだ。
「もう、しょうがないな~ポンコツだからかな?」と、自分に言い聞かせていたら、なんと今日、相変わらずのヤモちゃん来訪のところにもう一匹ススススとガラスを渡っていく白い影がある。
ヤモちゃんが、大きくなったり縮んでいたわけではなく、来訪者が交替していただけのことだったとはっきりわかった。
どちらともいえないけれど、ともかく仲間がいたんだね!と、ただ単純に嬉しい。
そういえば、先来のヤモちゃん尻尾が、とても機嫌が良さそうに左右に振る珍しい様子があったのは、つまりそうゆうこと?なのだろうか。
まあ、機嫌が良いと判断したのは人間の思い込みで、実は他のヤモちゃんを威嚇していたのかもしれない。
私としては、二匹のヤモちゃんを見られたことは、確実にちょっと嬉しい出来事となった。