rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

まさしく「きかんしゃ やえもん」のごとく

2011-01-31 23:27:11 | 本たち
我が家の本棚に収まっている「きかんしゃ やえもん」阿川弘之著は、まさしく主人公「やえもん」のごとく、30年にわたって厳しい勤めをこなしてくれた。

初め、「きかんしゃ やえもん」は、歳の離れた弟のために買ってあげた。
弟はこの本が大のお気に入りで毎日のように読み聞かせを楽しみ、自分で文字を読めるようになってからは、飽きることなく読んでいた。
この時すでに、本はいたるところ擦れて痛みが目立っていた。
さすがに、弟も大きくなって、「やえもん」を卒業し、本は15年くらい書棚の中でのんびりと休息を味わった。
そして、中くらいの人の出現で、「やえもん」は、またもや表舞台へと引っ張り出された。
中くらいの人も、なぜか「やえもん」がお気に入り。
毎日読んで欲しいとせがんでいた。
しばしの休息も無いうちに、次に小さい人の登場。
やっぱり「やえもん」は、人気者。
引っ張り凧の、よれよれ、背表紙はほつれ、補強の寒冷紗がむき出しになり、途中で補修しながらも、分解寸前まで読み倒された。
いつしか、小さい人たちも「やえもん」を本棚にしまい、他の本たちに挟まれて、ひっそりとその姿を隠していた。

3ヶ月前、ふと、子供の本を閉まってあるスペースを整頓しようと思い立った。
数年前の幼かった子供たちの姿を思い出しながら、本を全て取り出した。
するとそのなかに、見るも無残な「やえもん」が紛れているではないか。
悲惨な状態で放置しておいたことを後悔しながら、セロハンテープで背表紙をばらばらにならない程度に補修した。
小さい人たちが学校から帰ってから、「やえもん」にどれほどお世話になったか、どんなに「やえもん」が好きだったかを語り合った。
こうして「やえもん」は博物館ではないにしろ、今また本棚で穏やかに過ごしている。

もしも、将来、中くらいの人たちに子供ができたら、この「やえもん」、また出番が回ってくるのかもしれない。
そのとき、「やえもん」は、きっと喜んで子供たちの相手をしてくれるだろう。
そうなることを、切に願うのであった。

時禱書ー中世の華麗な絵巻物・写本

2011-01-30 22:50:01 | アート


「人の12ヶ月と天の12宮」



「二月、冬の農家」

時禱書(じとうしょ)-聖職者ではない俗人(高貴な身分)のお祈りのテキストとして作られる書物

豪華絢爛、精緻の極みである時禱書や写本の類を眺めていると、時間が経つのを忘れてしまう。
もちろん、本物は手に入らないし、実物を目にできる機会も巡ってはこない。
「ベリー候のいとも華麗なる時禱書」のファクシミリ版を、20年近く前に思い切って買った、それを白い手袋こそはめないが、貴重品を扱うように丁寧に見る。
または、他の時禱書や写本の作品を紹介している雑誌の特集号などを気軽に眺める。

キリスト教のお祈りのテキストなのだから、聖書の教えやエピソードが記されているのだが、そのモチーフに中世の風俗を織り交ぜて描いている。
写本や時禱書の注文主は、王侯貴族や豪商たち。
当時の本の素材は、動物の皮を薄くなめしたもので羊皮紙や牛皮紙と、土や鉱物を粉末にした顔料、そして金箔・金泥と、いずれも高価なものばかり。
しかも、加工に気の遠くなるような手間と時間がかかる、いわば本の宝石だ。

ロシア・ロマノフ王朝のインペリアル・イースターエッグのように、莫大な富と権力を手にした者が虚栄心を満たすために作らせたり所有したりするため、存在する物たち。
おかげで、美術工芸の至宝が誕生して、その美を楽しむ機会が得られた。

悲しいかな、芸術は、平等の世界には、格差のない世界には、存在し難いのだろうか。
芸術家は、大パトロンに庇護されないと、突出した作品を創れないのか。
一個人が、自力で生活をして創造するには、時間と経済の負担で磨り減ってしまう。
だから、個人規模を出ない創造物が生み出される結果につながる。
たとえ、幸運にもパトロンにめぐり会えたとしても、どの程度の恩恵があるのか、残念ながら窺い知る機会を得ない。

時禱書の華麗な世界を眺めていたのに、話が随分と俗な方に振れてしまった。

「ベリー候の・・・」の作者、ランブール兄弟は、現在のベルギー・ブリュージュで活躍していた。
また、この時禱書、フランスのシャンティイ、コンデ美術館に収蔵されている。
ブリュージュは、2度ほど訪れ、この街に縁のある愛好する作家たちがあったり、中世の面影を色濃く残す街がとても好きだ。(近年、ユーロ高で彼の地もバブルにあい、街並みがやたらと綺麗になっていたが・・・)
コンデ美術館を訪れたとき、この貴重な本は展示されていなく、いささか落胆したが、ピエロ・ディ・コシモの「シモネッタ・ヴェスプッチの肖像」が観られて感激した。
勝手な思い込み炸裂といった具合だが、「ベリー候の・・・」には、強い縁を感じる。
時禱書なのに、自らの煩悩を活気して止まないのは、なんとも皮肉、申し訳ない気分だ。

「刺繍した花嫁のベール」栗色とばら色の壁、セゴビア

2011-01-29 00:40:49 | 街たち
真っ青な空を背景に、栗色とばら色の壁が映える街、スペイン・セゴビア。
ローマ水道橋が丘の高台にある旧市街に、まっすぐ伸びている。
2000年にわたって、人々の暮らしを見守ってきた。
その水道橋を、誇らしげに自慢する人々がいる。
実用目的で作られた水道橋なのに、何時しか人はそのものに思いを寄せる。
これは、古今東西、何時でも何処でも通じる、人の心の不思議な作用だ。

セゴビアの建物には、様々な模様の装飾がほどこされている。
壁の修復場面があったが、古来より受け継がれてきた方法(カルトンとタンポ)で壁に模様を写し、上塗りした漆喰を削り取って模様を浮き上がらせていた。
その装飾は、エスグラフィアドといい、イスラム文様の影響を直に受けてる。
華麗な模様が刻まれた壁を、セゴビアの人たちは、「刺繍した花嫁のベール」と愛情込めて呼ぶ。

日本においても、自分の街にある古くから親しまれている建物や古木、寺社仏閣・仏像等も、愛称をつけて親しみを込めて呼んだりする。
宗教の性質の違いを超えて、人は物に愛情を抱き、人格を与えてしまうのは、自然な行為なのかもしれない。

セゴビアは、イベリア半島中央付近の丘陵地にあり、街の高台のそばには川が流れ、トレドの街に似ている。
以前、マドリードからバスでトレドに行くのに、大きな森など見当たらない乾燥した土地を通った。
子供のときに観た、「荒野の用心棒」の舞台となった、荒涼とした風景を思い起こした。
そこからは、雨でしっとりと濡れる土や岩、街の姿が想像しにくい。
セゴビアの旧市街も、石はあっても緑の木々は見受けられなかった。
やはりトレドも、街路地には緑が無かったように記憶する。
だから、壁に綺麗な装飾をほどこし、荒涼とした街並みにならないように工夫したのだろうと、想像してしまう。

人は、ただ生きていくばかりではつまらない生き物なのだろう。
雨露をしのぐ家の造りに意匠を凝らし、実用で作ったものに愛着を持ち、果てには物に人格的な要素を見出す、感性豊かな生き物なのだ。
消費のためだけに生きているのではないと、今こそ確認しなくてはいけない。
自由資本主義が、大腕を振って世界を跋扈する世の中にあっては、真逆な行動だが、人間であって消費者でないと、大きな声を上げないと、人間の主人が違うものに取って代わられてしまうだろう。

セゴビアの人は、人生の主人公が、まだ人間であると思わせてくれる雰囲気を持っていた。

ワインの栓、コルクor模造コルクorスクリューキャップ

2011-01-27 23:03:20 | つぶやき&ぼやき
今晩は、いつものように最寄の格安スーパーで購入した赤ワインの栓を抜いて、家人と味わった。
イタリア産のテーブルワインで、ミディアムボディー、酸味のあるバナナの風味のワインだった。
このワイン、栓が樹脂系の模造コルク、非常に抜きにくかった。
本物のコルクで密度の薄いものは(安ワインの宿命か!?)、ワインオープナーのスクリューをねじ込んでいるとき、すでに割れがでて抜きずらい。
片や、スクリューキャップでは、栓を抜く儀式めいたところがなく、ワインを飲む雰囲気を欠くことになる。
さて、この3つの栓のなかで一番避けたいものは?
それは、模造コルクだ。
スクリューキャップは、2~3回に分けて飲む人にとって便利。(本来は、飲みきりが理想だが、貧者は贅沢を言っていられない)
ならば、便利さも無ければ色気も無い模造コルクに立場は無くなる。
しかも、エコですらない。
そういう訳で、ワインの栓は、コルクかスクリューキャップの2系統にする流れになってはいただけないだろうか。

愛機ニコンCOOLPIX P50

2011-01-27 00:07:26 | 趣味たち


ラクウショウの気根のある風景



26/1/2011 バロック的天空風景

デジカメの良さを知りながら、4年前のヨーロッパ旅行に自分専用のカメラを持つことなく出かけたのを、ずいぶんと後悔したものだ。
いや、まったく持っていかなかったわけではない。
父から借りたデジカメCANON IXYで、バッテリーとメモリーの許す限り撮りまくった。
なかなか使い勝手良く、満足する画像を得られた。
しかし、デジカメの便利さを知れば知るほど、自分のものが欲しくなるのは成り行きだ。
そこで、デジカメヲタの家人に手伝ってもらい、自分の要望に適ったカメラを探すことにした。

まず、風景を撮るために、広角レンズであること。
次に、単3電池使用。(これなら、世界どこでもバッテリー切れの心配なし)
ホールド感がしっかりあるもの。(何より安心の持ちやすさ)
できれば、手ブレ補正機能がついている。
そして、なんといっても安いこと。
これらを満たしてくれたのが、ニコンCOOLPIX P50。
画像の片側が歪んでぼける初期の不具合があり、交換するアクシデントがあったが、その後は問題なし。
かくして3年以上、いまでは、毎日のように使っている。
そのニコンで撮った画像をブログに掲載しているが、現在の自分では、充分に満足して楽しませてもらっている。

本当にいいものができたものだ。
若かりし頃、ヨーロッパを貧乏旅行したとき、写真を思うまま撮ることができなかった。
フィルムは高価、現像料に焼き増し代もかかるし、なにより、現像してみないことには、きちんとした写真になっているかどうか分からない不便さがあった。
デジカメになってからは、失敗した画像をその場で選別でき、データーもコンパクトなメモリーに記録できる。
パソコンで画像処理も可能。
プリントは、モニターで必要なものを選べる。
当時の自分が手にできたなら、まだ昔の面影が色濃く残るヨーロッパの街並みを写真に収めることができただろうに。

そう言ってはみても、仕方ないこと。
少し遅れたけれども、デジカメの恩恵を受けているのだから。