rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

ロンドン・シティ、スーツ姿が足早に行き交う経済の街と隣り合う多国籍の街

2011-04-30 00:11:31 | 街たち
ダークスーツに身を包んだ人たちが、足早にテムズ川に架かるロンドン橋を歩いてゆく。
戦闘モードなのか。
17世紀の大火で、木造建築禁止になり、石造建築に立て替えられたとか、現代建築のビルとあいまって、西欧の大都市とあまり差異のない街になっている。
もし、17世紀の大火がなくて、木造建築も許容されていたなら、どんな街になっていたのかと考えると、残念だ。
石造りに加え、街路樹さえあまりなくて、寒々しい様子。
ほっとできる場所は、セント・ポール大聖堂の前庭の緑、やや広めの公園にある木々、それから、ビクトリア朝のアーケード街か。
アーケード街には、飲食店や金融の真っ只中にある鮮魚店、花屋など、人の営みが集約されていた。
勤務中のお昼に、ビールを飲むビジネスマンがいたが、気分転換をするのに適度のアルコール(大きいグラスに2杯程度!)は最適で、酔わなければなんら問題ないといっていた。
全ての業種がそうできるわけでないだろうし、いくら日本人と違ってアルコールに強い西欧人にしても、この緩やかさは憧れてしまう。
みんなが同じようなダークスーツを身に纏っていても、これなら許せる気がする。

しかし、面白いのは、この世界の経済を動かす一つの峰を象徴するシティーのすぐ隣に、下町のイーストエンドがあることだ。
そこに一歩踏み込むと、行き交う人たちもアジア系・イスラム系・アフリカ系と国と人種が様々、街の様相も、一変してしまう。
エスニックな露天商が立ち並び、「バングラシティ」というスーパーマーケットが店を構えている。
かねてより、イーストエンドは労働者と移民の街としての役割を持っていた。
シティのような街を縁の下から支えるのには、このような性格の街が隣接することは、必要なのだろう。

表面化しない階級社会は、今の人権という観念が認められる世にあってなお、連綿と続いている。
人間という不完全な社会性動物にとっては、良しとはしたくなくとも、必要悪な構造なのかもしれない。
それを補っていくのが、個々人のそして為政者の良識というものなのだろ。
この拝金主義に毒されて、利害絡みのグローバリズムが進む世界にあって、「良識」というものが存亡に危機に晒されているようで、大変に不安だ。
時代が産み落とした負の遺産をそのままに、更に増やしていくのか。
真実は、時として残酷だ。
だが、目を背けてはならない。
為政者ならば、真実に真正面から向き合い、最悪の事態を避け、未来を少しでも明るく確保すべく、民衆を上手に導くのが勤めであろう。
目先の対応でお茶を濁し、取り返しのつかない未来を来る子孫に残していいものだろうか。
人の上にたち、人を導こうとする者は、重大な責務を負っているのだ。
歩む道は茨の道なのは、承知の上でないと困る。
羊飼いは、片時も気を抜いてはいけないのだ。
その助手である牧羊犬たちも、同様に。

ロンドンのシティに勤める人々は、高い生活水準を約束される代わりに、経済を上手く循環させなくてはいけなく、イーストエンドに住む人々は、社会生活が快適で順調におくれるように肉体労働に励まなくてはいけない。
各々が受け持った役割を果たすことで、世界が回っていくのではなかろうか。
シティとイーストエンドの対比はの鮮やかさゆえに、自ずと現れる階級社会を意識しないではいられなくなった。

暗闇を取り戻してみること

2011-04-29 00:04:49 | 随想たち
「月の明かりで畑仕事をした。」と、以前、家人の母が話した。
月の光で、作業できるほど手元が明るいものなのかと、不思議に思った。
闇に目が慣れると、それなりに見えるようにはなる。
しかし、農作業できるほど、見えるものなのか。
そういえば、祖母も月明かりで手元の見えるうちは、畑で仕事をしていた、と言っていたのを思い出した。
農業は、きりのない仕事、手をかけたらかけただけ、よい作物が出来、収穫量も上がる。
二人とも、妥協のない仕事振りで、時間を惜しんで仕事に精を出した、その様子が窺われる言葉だ。

自分は、本当の暗闇を知らなかった。
人のいるところ、必ず明かりがあった。
田舎に住んでも、遠くの町明かりが夜空をほの明るく照らし、漆黒の空は存在できない。
天体観測で、流星群や彗星を見ようにも、その明かりが邪魔をして、思うように観察できないのだ。

だが、あの大震災の日、大規模な停電で、見渡す限り漆黒の闇に包まれたいた。
余震で蝋燭を灯すのもためらわれた夜、外へ出たときのこと、月が頭上に昇っていた。
煌々放たれる月の光で、自分の影が足元に伸びるのを、初めて見た。
月が天頂を退き、星たちの出番になったときには、驚くほどの星が自信満々に瞬き、手を伸ばせば、星に手が届くくらいに、すぐ近くにあるような錯覚に囚われた。

さすがに、星明りでは微弱すぎるが、漆黒の中における月の光は、本当に明るかった。
もっとも、月の光の強さが変わるわけではなく、近くに強い光源があると、それに目が影響されるせいで、知覚の仕方なのだが、少ない光だからこそ、懸命に見ようと感覚を鋭敏にさせているのだ。

たしかに、闇は怖い。
ちょっとした物音、気配に、敏感になる。
田舎暮らしでは、一軒の敷地に何棟か用途に応じた建物があって、納屋に野菜を取りに行く、外にある井戸で野菜についた泥など洗い流す、空き缶などをコンテナに捨てに行く、母屋だけが生活空間でなくて、外もひっくるめて「家」なのだ。
夜も、何かと外へ出ることが多い。
今では、防犯の兼ねてセンサーライトをつけ、生活しやすくなった。
前は、外へ出るのがかなり抵抗あった。
めっきり姿を見なくなったが野良犬が徘徊していたり、ムカデやヘビが地面を這っていたりと、毎日肝試しをしているようだった。
6年前に、脇を通る道路に街頭が設置され、闇は影を潜めた。
安心は得られたが、実は失ったものがあるのではないかと、真の夜を知ってから思うようになった。

暗闇は恐怖を与えるが、時には瞑想の時間を、自分に向き合う時間を与えてくれる。
何も見えない、何も出来ない、そんな時間を持つことは、とても大切なのではないだろうか。
自分の心を見つめることは、かなり恐ろしいことだが、この問いかけをしないでしまうのは、心の検診を怠ることで、見えない病巣が心を蝕み立ち戻れないところへ行ってしまうかもしれない。
または、一日を振り返ることで、明日をよくする手立てを思いつくかもしれない。
ときには、素晴しいアイディアが浮かんで、創造力に火をつけるやも知れない。

どうだろう、暗闇をもう一度取り戻してみることを。

5月が近づいて、メーデーの花すずらんが咲く準備をしている。

2011-04-27 23:06:13 | 植物たち
小さい人が、ブランコを作ったから見て欲しいと呼びに来た。
姫紗羅の木(土地に合ったのか、巨木と化している)に、ビニールのロープを渡して作ったものだった。
こんな土埃の舞う風の強い日に、何をしているのかと思えば、ロープを結ぶの大変だったろうに。
おや、待てよ、姫紗羅の木の根元にはすずらんが植わっているはず(もはや自生の域に)。
小さい人の足元を見ると、すずらんの葉が踏まれていた。
きっと、素敵なアイディアを思いついて、実行しようと、木ばかり見ていたに違いない。
仕方がないから、すずらんがあることを示して、注意を促した。

すずらんといえば、5月1日のメーデーに、大切な人にすずらんの花を贈り1年間の幸運を祈る風習が、フランスにある。
5月1日には、いたるところに即席すずらんスタンドが出来て、すずらんを小ぶりな花束にして売っていた。
甘い香りを漂わせる小さい小花をぶら下げたすずらんの花は、爽やかな5月の空気に彩を添えてくれる。
すずらんが咲いたなら、お気に入りのアクアブルー色のガラスの小さな花瓶に飾ろう。
キッチンの北側の窓辺がいい、料理をしているときに目を楽しませ、芳しい香気で癒してくれるだろうから。

痛ましい戦争の傷跡、ジャン・フォートリエ「人質」

2011-04-26 23:19:10 | アート


これは、ジャン・フォートリエJean Fautrier の「人質」シリーズの一枚。
アンフォルメルの先駆者といわれている。
第一次世界大戦と第二次世界大戦に翻弄された人生を歩んだ。
「人質」シリーズは、その凄惨な戦争体験に基づいて制作され、彼の代表作ともなった。
彼の作品は、現実のものから内面的裏付けによって抽出されたイメージを厚塗りの画面へと定着したもので、抽象絵画ではない。
人の狂気によるさまざまな蛮行愚考を見て受けた衝撃を、そのイメージを生々しく画面にぶつけた。
今、世界で起こっている紛争、そして愚行は、この絵に描き出されているようだ。
宗教の名の下に、民族間の遺恨のために、利権を求めて人を虐げたり他国に介入する、そんな荒れ果てた世界を。
家が焼かれ、爆弾で人が死に、子供までもが小さい手に銃を持って戦うような、戦争状態にない日本においても、弱者はその存在を脅かされている。
戦争地域から見れば、一見平和なようだが、地下の見えないところが腐り崩壊しつつある。
じわじわと壊死して、ついには滅亡となるやもしれない。
よく目を凝らしてみてみれば、フォートリエの「人質」があちこちに見えてくるだろう。


小さき贖い人、無力なウッサン「薔薇の館」遠藤周作

2011-04-26 00:12:34 | 本たち
高校1年生のとき、担任で現代国語の先生から、本を2冊借りた。
その経緯を忘れてしまったが、ある日先生から遠藤周作の「沈黙」「薔薇の館/黄金の国」の単行本2冊渡された。
おもうに、本を貪るように読んでいる姿が目に付いたのだろうし、ちょっと変わっていると。

そして、ケースに入ったしっかりとした装丁の本を大事に、でも一気呵成に読んでしまった。

遠藤周作を読んだのは、これがはじめて。
キリスト教者で狐狸庵先生と名乗っていると、朧に知っていた程度。

キリスト教については、高校入学したときに聖書を買って読んでいた。
小さい頃、母が聖書を読んでみるといいといっていたからだ。
かといって、母はキリスト教者ではないし、特別何かを信仰しているわけでもない。
おそらく、道徳の一環として読むように勧めたのだろう。

遠藤周作のこの2作を読んで、ひたすら無力とも無慈悲とも思える傍観者の神に、ただただ救いを懇願する哀れな人々の構図が、胸を締め付ける遣る瀬無さを感じた。
その仲介者としての神父の壮絶な苦しみは、あたかもキリストが味わったような肉体を持った人の苦しみと悲しさを再現しているかのようだ。
「神は、人格を持った存在ではない」という絶対的存在としてあり、人の弱さが神に対して不遜にも様々な要求を一方的に突きつけている。
ただひたすら信じることが、大切なのだ。
揺ぎ無い信仰が、大きな力の源になり、よくあろうと律する心が世界を構築すると、心弱き人にとっては、なんとも厳しい神である。
遠藤周作の登場人物は、この弱さを曝け出し、それでも必死に神を慕おうとする切ないまでの哀れさを持っている。

「薔薇の館」の修道士ウッサンは、特に頼りなく愚かなまでに純真で、無力な自分を知りながらそれでも人の思いを救おうと、毒薬と知ってなお毒の杯を飲み干す。
キリスト教にあっては、自殺は禁忌の一つ、ましてや修道士がとっていい行動ではない。
だが、ウッサンには自分の命で人の希望が繫ぎ止められるのならと毒杯を手にする。
自らの命で、希望を贖ったのだ。
なんと軽く、しかも重い命だろう。
ウッサンの決定を思い上がりだ軽率だと批判したくもあり、その愛の深さを激しく讃えながら悲しんだ。
統合できない気持ちに、きりきり舞いをした。
深い絶望に囚われたながら、まるで深い井戸のそこから遥か頭上に幽かに見える光への出口を切望するように、労りと慈しみに満ちた愛の世界を恋焦がれた。

古今東西、あらゆる場所と時間、人の命は軽んじられあっけなく失われていく。
存在する命みな、人も他の生き物も、大いなるものの前(神)の前では、等価かもしれない。
全ての命を思いやり、愛を持って尊重しあえば、無駄に命が消えていくことを食い止められるのであれば、出来はしないだろうか?

美しく穏やかな景色を見るたびに、子供たちの笑い声を耳にするたびに、花々や虫・鳥たちの生命の息吹を感じるたびに、言いようのない悲しみが心を支配する。
自分の無力を、ちっぽけさを、ひしひしと感じる。
到底、ウッサンになれるほど、強い心を持ち合わせていない。
欲という悪魔に簡単に誘惑されてしまう。
それでも、頭上にきらめく希望の光を諦めることは出来ない。
自分の心を戒める為に、こうして文を書き、悔悛の行としているのだ。

若き心に、ウッサンの姿を通して、深深と人の心の弱さと悲しさ、そして非力さを、心に刻んだのであった。