転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



昨日8月4日は、1944年に、アンネ・フランクとその一家が、
アムステルダムで、市内駐留保安警察 (SD)によって
逮捕・連行された日だった。
翌8月5日には、フランク一家は、
ヴェーテリングスハンスの拘置所にいた。
このあと、四日後に、彼らは強制収容所へと送られることになる。

アンネの日記は、隠れ家発覚の三日前、
1944年8月1日の記述が最後になっている。
アンネはもともと、一日も欠かさず記録するスタイルではなく、
話したいことができたとき、空想上の友人キティに手紙を書く、
というかたちで日記をつけていたので、
それまでにも間が幾日も空いているというのは普通にあり、
8月2日~4日の記録が無いことは、少しも不思議ではなかった。
もし逮捕・連行がなければ、8月1日の次の日記は、
何日に、どのような内容で、書かれていたことだろうか。

私は、自分自身が14歳のときに『アンネの日記』に出会い、
皆藤幸蔵氏の訳文も含めて、その内容に強烈に魅せられた。
反戦や人類愛を謳った文章として読んだのではなく、
思春期の少女が、手近な紙に直筆で丁寧に綴った、心の記録、
という面で、私は『アンネの日記』を自分に近しいものとして愛読した。

その気持ちは、今もほとんど変わることがない。
月日は流れ、私はとっくにアンネの死んだ年を追い越し、今では、
アンネが痛烈に批判した、彼女の母親ほどの年齢になってしまった。
親の目で見ると、私が中学生の頃にはわからなかった、
彼女の未熟さや独り善がりも、読み取れるようになったけれども、
同時に、文章で己を表現することに賭けていた彼女の強い意志や、
それを見事にかたちにして残した彼女の才能に、やはり圧倒される。
彼女の書いた文章は、「自分の手で記録すること」の価値や面白さを、
十代だった私に、どのような作文指導よりも、
効果的に、明瞭に、教えてくれたと思っている。


以前に書いた、「アンネの日記」関連の記述は、こちら↓
光ほのかに―アンネの日記 (2006年10月27日)
「アンネの日記」(2006年1月22日)

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朝青龍の帰国、師匠の高砂親方が「時期尚早」(読売新聞)
『2場所の出場停止処分を受けている大相撲の横綱朝青龍について、師匠の高砂親方(元大関朝潮)は4日、現時点でモンゴルに帰国することは認めないとする考えを改めて示した。』『前夜、横綱を往診した主治医が「精神的に相当不安定で、すぐにモンゴルへ帰すべき」と語ったことについて、師匠は「処分が出てから何日もたっていないのに、そんな話が出るのは時期尚早。朝青龍もつらいだろうが、これでは何のための謹慎か分からない」と判断した。』

相撲界としては今回の処分は、事実上の引退勧告、
と言えるほどのものだそうだ。
勝てばいい・結果を出してみせれば周囲はグウの音も出ない、
という世界ではないので、処分は内容も含めて当然と私は感じていたが、
これで朝青龍という横綱を決定的に失ってしまうのは、やはり惜しいと思う。
謹慎のあと、出直せるようなかたちに、どうにか出来ないのだろうか。

・・・と思っていたら、
「そして猪木が、取りにいくらしい(^_^;」
と今朝、主人が言ったので私はオオウケしてしまった。
おいおい、そりゃ本当の話なのか?
確かに、猪木が寄ってきそうな話ではあるけれど。

朝青龍は体に似合わず気の小さい男よの、
と、猪木にしてみたら、笑い飛ばしたいところかもしれない。
巡業をズル休み→母国でサッカーをエンジョイ→バレてクビ、
何が事実かには全然関係なく、もしこれがプロレスだったら、
こんなの最高にオイシいアングルではないか。
朝青龍には不運どころか、むしろ、願ってもない、
完璧なお膳立てが整った、・・・のかもしれないな(^_^;。

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