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本質はドリブラー(山田暢久)

2006-10-31 21:59:46 | 浦和レッズ
浦和レッズの歴史のほとんどに絡んでいる選手は山田暢久選手しかいません。山田の入団は1994年の横山監督時代で、チームが三菱自動車サッカー部から浦和レッズに生まれ変わり切れずに、最下位に低迷していた頃でした。

当時の浦和は、下手な鉄砲も数打てば当たると思ったのか、50人を超える選手を登録していました。そんな選手たちはほとんどがこの年限りで解雇されてしまいましたが、山田は高卒1年目ながら早くもトップの公式戦に出ていました。山田が浦和を選んだ理由は、早く試合に出たいからできるだけ弱そうなチームを選んだそうです。

翌年指揮を執ったオジェック監督は、山田に秘めた才能があると見抜き、トップ下やボランチ、時にはFWとさまざまなポジションで起用しました。しかし、オジェック監督が3-5-2の右アウトサイドが最適と判断すると、その後の歴代監督はそれにならいました。ケッペル監督が相手のトップ下にマンツーマンで付けたのが、ちょっと変わった起用だったくらいです。

ただ、本人はトップ下やボランチといった、真ん中のボールが集まるポジションをやりたかったらしいです。山田のプレーの特徴を考えると、それはわからなくもありません。基本はドリブラーなのです。サイドに固定してクロスを狙うより、ドリブルでがんがん仕掛けて中央を突破したかったのでしょう。

ただ、真ん中はウーベ・バインや小野伸二ら、パサーの定位置です。また、歴代の浦和で1トップに向いている選手がなかなかいなかったこともあり、山田をトップ下で使う発想はなかなか出ませんでした。既にベテランの域に入りかけた山田にとって、転機はブッフバルト監督の就任でした。

一緒に選手として過ごしたブッフバルト監督は、山田が真ん中をやりたいことを前から知っていたのでしょう。山瀬の負傷のタイミングでトップ下に起用すると、翌年マリッチの1トップが定着した後に山田のトップ下が続きました。今年も、小野伸二、ポンテが負傷がちであることと、ワシントンが1トップをこなせることが追い風になって、山田はトップ下で出ることも多いです。

じっくりキープできるタイプではないので、山田を軸に戦術を組み立てることは難しいですが、山田がトップ下に入ると動き回ってくれるので、周りに生かしてもらうことはできます。オジェックが見抜いた山田の才能は、その運動能力の高さだったのではと、今更ながら思います。

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