三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

小谷信千代『真宗の往生論』

2016年02月26日 | 仏教

往生するのは信心をいただいた今なのか、死んでからなのか、浄土真宗の中でも考えが分かれています。
江戸時代までは死後往生とされていましたが、大谷派では清沢満之以降の近代教学が説く現世往生が主流だと思います。
しかし、小谷信千代『真宗の往生論』は、親鸞は現世往生を否定していると主張しています。

小谷信千代師も、親鸞は「往生」を、現世に正定聚に住することと、死んでから往生することの2つの意味に使っていたと思っていたそうです。

正定聚とは仏になることに定まることを意味し、浄土において正定聚に住するとされていたのを、親鸞は現生正定聚だと読み替えています。

親鸞は「即得往生」を「すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり」と『一念多念文意』で説明しており、往生は信心をいただいた今だという根拠になっています。
ところが、小谷信千代師によるとそうではありません。
親鸞は「正定聚」の左訓に「往生すべき身と定まるなり」と付している。
「即得往生」の語は異訳本、サンスクリット本、チベット本にはない。

親鸞はその教説の特異性に気づいており、それゆえそれが文字通り「真実信心を得れば即座に往生すること」を意味するものでなく、「真実信心を得れば即座に正定聚につくこと」を意図するものであることを、「往生すべき身と定まるなり」という左訓を伏して示そうとしたのである。

即得されるのは、不退の位に至ること(住不退転)であり、往生の真因の決定すること(住正定聚)であって、往生ではない。
説得力があります。

しかし、増谷文雄『仏教概論』に、「仏教の歴史は異端の歴史」とあります。
キリスト教の歴史は異端の吟味の歴史であり、異端の追放の歴史であるが、異端に対する態度が仏教はキリスト教の場合とまったく違う。
大乗仏教徒は釈尊の名前を借りて大乗経典を次々と生産し、中国や日本においても偽経が作られた。
異端は追放されなかったばかりでなく、かえって仏教を活性化した。

親鸞も正定聚・不退転の位を現生に移すために『論註』や『無量寿経』の文章を読み替えています。
だったら、親鸞の文章を読み替えて、往生を現生にするのはいけないのでしょうか。

われわれの悩みや苦しみは自分では合理的で正しいと思っている考え(分別)によってこそ生ずる、というの仏教の教えである。合理的に正しく考えているつもりの人生に様々な悩みや苦しみが生ずる。それゆえにこそ、自分では正しいと思っているその考え方を批判し、別の視点を与えるものとして宗教は生まれ、今も必要とされている。命終後の往生という教説も、現在の自己の生き方に反省を迫り、新たな生き方を教えるものである。死後の往生の教説に何の意味があるか、などというのはあまりに稚拙な考えである。それに、人生を考えるために死後の存在を考えることを教えない宗教などが存在するであろうか。死後、浄土に生まれることを信じない住職は、門徒の葬儀をどのように考えて勤めるのであろうか。

このように小谷信千代師は言うわけですが、現世の往生とは「別の視点を与え」、「新たな生き方を教えるもの」と捉えることもできるように思います。

(追記)
小谷信千代師は、曇鸞の『浄土論』解釈を批判しています。
しかし、世親と親鸞の浄土教とは直接結びつくことはできないのではないでしょうか。
曇鸞の『浄土論』解釈を通して、親鸞は世親を見たわけですから。

もう一つ、阿満利麿『日本精神史』に、佐久間象山や横井小楠が狭隘なナショナリズムから解放された理由は、生涯依拠した朱子学という自らの学問的枠組みを現実のなかで読み替え続けたという点にあると、あります。
そして、丸山眞男の「古いカテゴリーを歩一歩吟味し、これを再定義しながら、内発的に自分の思想を成長させ豊かにしてゆく」という文章を引用しています。

「往生」を「生きる」「生活」と読むことは、文献的には間違っていても、現在に親鸞を再生させる試みと言えるのではないかと思います。
もちろん、どういうふうに読み替えたかをきちんと検証しなければいけません。
たとえば、スピリチュアル的な解釈をする人がいますが、そうしたものは誤りだとして、きちんと指摘し、断ち切るべきです。

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